寡兵で大軍を破る必勝パターン
現場を踏むことがいかに大切かは木曾義仲が平家の大軍を倶梨伽羅峠で破ったいくさでも痛感したことである。現場へ行って目を奪われたのが風化してぼろぼろになった崖の土であった。狭い山上に陣取った平家軍は背後を襲われて身動きもならず足元の土から崩れて、立ち木、馬、味方の兵と重なり合って谷へ滑落し圧死したのである。木曾義仲は倶梨伽羅峠の特異な土質に着眼してそれを罠に用いたわけである。
現場を踏むことがいかに大切かは木曾義仲が平家の大軍を倶梨伽羅峠で破ったいくさでも痛感したことである。現場へ行って目を奪われたのが風化してぼろぼろになった崖の土であった。狭い山上に陣取った平家軍は背後を襲われて身動きもならず足元の土から崩れて、立ち木、馬、味方の兵と重なり合って谷へ滑落し圧死したのである。木曾義仲は倶梨伽羅峠の特異な土質に着眼してそれを罠に用いたわけである。
現場を踏まない段階では義仲がなぜ勝ったのかわけがわからなかった。たが、剥き出しになった赤茶けたザレ場をあちこちに見てびっくりすると同時にすべてを理解した。戦記物の描写もその点的確であった。
それと、絶対的な条件が夜だ。と、いうよりも、視界を遮ることが絶対的な条件というべきだろうか。振り返ってみても、大軍を相手に寡兵でありながら「信長が二にして義元が一であるかのような戦闘」に持ち込むことに成功しているのは、いずれも夜襲なのである。北条早雲の小田原城夜襲、北条氏康の河越夜戦などなど……。
信長の桶狭間の戦法とほとんどパターンが一致する北条氏康の河越夜戦(よいくさ)について説明しよう。
伊勢新九郎が剃髪して宗瑞を号し、早雲と改めて後世に「北条早雲」の名で記憶されたこの人の跡を継いだのが氏綱であった。伊勢氏綱から北条氏綱への改姓は大永三(一五二三)年六月から九月の間に行われたといわれている。
関西を本拠とした伊勢平氏と関東を地盤とした桓武平氏は反目する関係にあった。伊勢氏は伊勢平氏の系統であったから、関東を収めるには伊豆を支配地とした桓武平氏の嫡流北条氏を名乗ったほうが当たりが和らぐと考えたものと思われる。
さらに加えるならば、天文元(一五三二)年から同九年にかけて小田原北条氏は鶴岡八幡宮の大改修を行った。かけた費用は莫大で、宮大工など高い技術を持つ職工を集めるだけでも大変だった。それを北条家を挙げての事業として行ったのである。
鶴岡八幡宮とは何か。
鶴岡八幡宮とは何か。
源氏の東国統治の守護神であり、東国武士の精神的なよりどころなのである。それを源氏の血筋ではなく伊勢平氏傍流の小田原北条氏が営む矛盾にこそ、関東武士は源氏の長者にしか従わないという抜きがたい不文律があることを感じさせるのであり、関東に同化しようとする早雲と氏綱の必死の祈願がこめられているとはいえないか。
それでもなお相模国北半分は「敵半知」として年貢を源氏の末裔たる甲斐武田氏と分け合わなければならなかった現実……。
さらにショッキングだったのが古河公方、両上杉氏を相手に戦った河越夜戦である。日本三大夜戦の一つに挙げられる天文十五(一五四六)年四月二十日の河越夜戦は、守る側が北条綱成と兵三千、攻める側は古河公方晴氏、関東管領山内上杉憲政、扇谷上杉朝定の連合軍八万で、関東武士団で連合軍側に加わらなかったのは下総国の千葉利胤のみだったという。小田原北条氏の発願により鶴岡八幡宮の大改修が天文九年に竣工しているのだが、それにもかかわらず千葉氏以外は北条氏を敵にまわすほうを選んだのだから、早雲・氏綱父子のねらいはまったくはずれてしまったわけである。
しかし、鶴岡八幡宮の加護は間違いなく北条氏にあった。
小田原北条氏の時の当主は氏綱の子の氏康で、みずから河越城へ応援に駆けつけた。その兵力八千。河越城守備兵三千と合わせてやっと一万一千。一万一千と八万で平地戦とくれば勝敗はすでに決まったようなものだが、氏康に限ってはそんなことお構いなしであった。氏康は合戦のときは必ず先頭を切って敵軍に突っ込むことから生傷が絶えず、「氏康の向う疵」という名がついたほどである。河越夜戦でも氏康の向こう見ずな吶喊が重要な役割を果たした。
氏康が到着する九月二十日まで河越城包囲戦は膠着状態がつづいたのだが、守将綱成の弟福島勝広が連絡の使者を志願して河越城に潜入、氏康の奇襲作戦を伝えた。一方、氏康は到着早々に姻戚の晴氏に偽りの降伏を申し入れて油断させる挙に出た。もちろん、晴氏が信じるわけがない。逆に攻撃をしかけてきたため、氏康は偽って逃げた。
「氏康の向こう疵などといわれているくせに、なんだ、口ほどにもない奴」
八万の大軍を見れば無理はないかという思いがあるから、氏康とて当然であろうと納得したうえでの嘲りである。晴氏も、憲政も、朝定も、八千の兵など蚊がとまったくらいにしかみなさなかった。
このあたりは信長がうつけを振舞って義元を油断させたのとパターンが瓜二つである。さらにいうと、清洲城から疾駆した信長が、「午前中は戦闘なし」とばったり歩みを止めてしまったのは、敵の目標となって桶狭間に誘い込むためだったとわかる。
わざと陣を斥けた氏康は援軍の兵を四隊に分けて夜を待った。多目元忠の一隊のみ「ここを動くな」と命じておいて、あとの三隊は鎧兜を脱がせて身軽な姿で乗馬し、氏康が先頭に立って敵陣に突入した。
氏康の河越夜戦と信長の桶狭間合戦はパターンがかくも酷似している!
さて、ところで。
主君の馬前に死ぬのが当時の武者道である。氏康に出し抜かれてたまるかと采配が振られるのを凝視して待つ。采配を振るのは氏康だから好きな呼吸で飛び出すからどうしても一完歩、二完歩先んじる。
「あっ、出たっ。遅れるな!」
身軽なだけに普段より馬の疾走が速い。一番乗りは「今度も俺だ」の氏康はもちろん速い。その前へ出よう、やるものかと戦う前から競争なのだから、突っ込まれる敵は当たるどころか避けるのが先立ってしまう。八万の大軍が八千の四分の三の小勢に散々に蹴散らされて、あっという間に一万三千から一万六千という死傷者を出し、朝定は討死、憲政は命からがら逃げ出した。
「憲政が逃げるぞ!」
味方の声を聞いて氏康は追いかけた。日頃からそれを悪い癖だと感じて氏康から目を離さずにいた多目元忠が、「深追いは危険」と判断して法螺貝を吹かせて呼び戻した。それが元忠の役割だったとすると、氏康は確信犯的に向こう疵戦法の長所と短所を認識していたことになる。
他方、作戦を告げられていた城方の綱成は晴氏の陣をめがけて、「勝った、勝ったぞっ」と一斉にさけびながらどっと押し出した。そのために晴氏の軍勢も総崩れになって落延びるほかなくなってしまった。
河越夜戦では闇の中からいきなり六千の兵、ずっとのちの桶狭間の合戦では雨の中から突如として二千の兵が現われて奇跡的な勝利を挙げるのであるが、突如竜巻に巻き込まれた感じの白兵戦では総兵力の差など関係なくなってしまい、臨戦態勢のあるなしが勝敗を決するという兵法書にない兵法があることを氏康も信長も厳然と証明したわけである。
以上、信長のことを知るためには小田原北条氏五代の事績にも同時に通じないと、少なくとも桶狭間合戦の勝因、本能寺の変の光秀・秀吉の下剋上の動機は読めないのであり、信長が直接に関係した事実に虫の眼で通じるだけでは不足だということである。
すなわち、信長は氏康の河越夜戦から寡兵で大軍に勝つヒントを得て、夜の代わりに驟雨を用いる必勝策を思いついたものと思われる。ただ、夜襲と違って豪雨の場合は突撃中に体が受ける抵抗が段違いであることから、若き日の信長は条件を同じにするために水練や水中でのいくさごっこを積み重ねたわけである。十年近く前から「今川なり武田がきたらこれでいこう」と弛まず準備しつづけた信長の天才性と先頭疾駆の神がかった威力がそこにある。
