本能寺事変級の変事に対処するため秀吉が打ったもう一つの伏線


 閑話休題。

 われわれは日本史という「結果の要約」を知ってしまったばかりに、それがバイアスとして具合の悪い方向に働いて「結果の羅列で成り立つ歴史、その一つひとつの結果は幾多の蓋然性を持ったシチュエーションから選択された一つにすぎない」ことに気づくチャンスをみずから放棄してしまった。

 たとえば、前回は次のように述べた。

「(光秀が安土へ向かったことは)秀吉にとってはありがたい誤算であるが、急遽、シナリオを書き直す必要に迫られた。と、なると、前将が寄越した急使の情報では物足りない。だから、一刻も早く姫路城に帰ろうとしたのである。

姫路城に戻って詳細な情報に接した秀吉はほっと胸をなでおろし、ほくそ笑み、そして、光秀のミスをあざ笑ったものと思う。

「馬鹿だな、あいつ」

本能寺で信長を殺し、二条城で信忠を死に追い遣ったあと直ちに姫路城を襲っていたら秀吉にとっては大変なことになっていた。それを何とかしようとするための瀬戸内返しでもあったのだから」

 原稿を本講座ブログ編集部に送ってしまったあとで気がついた。

 光秀が信長を殺してから姫路城へくると思っていたが、そうではなかった、 光秀が姫路城を襲ったら、秀吉は岡山城にいて指揮を執り丹羽長秀・神戸信孝らに背後を襲わせるつもりだったかもしれない。筒井順慶が応じればなおのこと好都合である。対細川父子工作が「毛利が動かない」ことを前提に功を奏していたようだし、俄然、秀吉が主導権を握るチャンスが生じるところであった。しかし、正反対の方角の安土城へ向かったとなると、秀吉抜きで光秀討伐が進む可能性大である。この誤算が秀吉を少なからず慌てさせた。まさか細川父子が光秀討伐に動くことはないと思うが、こうなるとわからない。丹羽長秀が神戸信孝を奉じて起ったらどうしよう。筒井順慶に至っては中国陣から安土城に行く先を変えるだけで目的を遂げてしまうだろう。魔性の才智を誇る秀吉といえども、彼らの心までは見通せない。こういうシチュエーションが本能寺事変直後に存在したはずであり、それゆえの瀬戸内返しという想定をしないと解釈が平板になってしまう。われわれは後世にいて結果だけしか見ないから、そうした秀吉の内面のあせりには気づかない。

すなわち、瀬戸内返しには大変なシチュエーションが隠されているわけである。一つの結果が選択されたために不用になった「タラ・レバ」シチュエーションの存在をわれわれは無視しすぎたか、気づかないまま平気で日本史の探求を怠ってきてしまった。

三十年近い歳月を日本史の勉強と解析に費やしてきた私ですらこのていたらくである。今頃になってというべきか、三十年の蓄積がようやくものをいい始めたというべきか、いずれにしても急にいろんなことに気がつき出した。こうした経験則から推測するに、日本史には幽霊のように宙をさまよい、「早く事実と認定してくれよ」と願っている事実群がどれほどあるかわからない。日本史はすでに解釈が定まっていると思うのはまったくの幻想で、実際には黎明期にも達しない暗黒期だという認識に立って「踏まえるべき事実」の蓄積と、それらを踏まえた「バイアスなき判断」を自分でする境地にたどりつかないかぎり、日本史研究のありとあらゆる努力は意味を失い、徒労に帰するだろう。本当の日本史は史家や作家などの著作物やコメントから教わるものではなく、自分で事実を踏まえて自分で判断するものである。すなわち、既存の日本史が虫食い状態から脱却して極めて精度の高いレベルに到達するまでは……。

 ところで。

 前回も触れたが、既存の説は秀吉が信長の死を知ったのは六月三日夕刻から翌四日未明にかけてとし、本能寺ノ変の報に接するのが早すぎるとしてきた。しかし、北陸の柴田勝家が知らせを受けたのが三日であることを考えると決して早くはない。毛利と交渉を開始したのが三日の夜であったことから弾いた日取りと考えられるが、本講座はそうした推測は排除して『武功夜話』の五日夜説を採用する。このほうが事実としても辻褄が合う。

 仮に秀吉が三日の段階で信長の死を知ったとしても早すぎるどころか、藤田達生氏が指摘した情報収集ルートの実在を勘案するかぎり、むしろ遅いくらいである。なぜなら、秀吉は光秀が信長を襲うように仕掛けた張本人だったからである。

 それなのに、なぜ、本講座はそれより遅い五日夜説を採用するのかというと、前提とする条件がまったく違うからである。秀吉が最も知りたかったのは光秀が襲う相手が自分か信長かという二者択一の答えであり、いずれの場合においても次に知りたかったのが、光秀とほぼ同時にこちらに向かうことになった筒井順慶の動向であった。その見極めなくして「二者択一の解」を得ても意味がない。

 なぜ、筒井順慶を警戒したのかというと、秀吉などより数段も光秀を討つ条件に恵まれていたからである。順慶にその気になられたら、せっかくの陰謀が水の泡になってしまう。河内国で四国渡海の準備を進める丹羽長秀も同断である。だれかに先を越されはしまいかという危惧が、秀吉をして瀬戸内返しに駆り立てたのである。

 したがって、かねてより何らかの事変を予測していた秀吉は中国陣の合間に四国に出陣して来島水軍を支配下に置き瀬戸内の制海権を確保して情報を遮断、内陸においても情報収集ルートを構築してきた。いずれも毛利への情報遮断網を兼ねていたから、秀吉が三日夕刻前に本能寺ノ変を知ったとすると、それは自前の使者ではなく毛利の密使であろう。それでなくても、秀吉はそろそろという感じで信長に援軍を要請する手紙を出す前から毛利と和睦の交渉を開始していた。この事実はあまりにも重い。

六月五日夜、秀吉が下した全軍撤退の決断は、

「信長が到着できなくなったことが確認できたので早急に姫路に戻る必要に迫られたため、急遽……」

という時系列的な動きの結果であったと思われる。

 秀吉が対光秀偵察網を事前に張り巡らせていた可能性を暗に指摘し、みずから裏づけるのが『武功夜話・秀吉編』の次の条である。

《前将(前野長康)様が御出迎えになったが、筑前様は前将様に、

「この度の本能寺の件は、信長公の厚恩を想うほどに残念なことである。身のほども顧みぬ明智日向の行為には、倶に天を戴かず、すみやかに討ち取り、信長公の御無念を晴らす覚悟である」

 と述べられ、また、上方での風聞や諸将の言動・振る舞いの有無についても、細々とお尋ねがあった。

筑前様のお尋ねに対し、前野将右衛門は、およそ、次のことを答えられた。

一、明智日向の娘婿、丹後の長岡兵部少輔(細川藤高)、同与一郎(忠興)には、日向守から味方となるよう誘いがあったが、よくよく御了簡なされて、応じられなかったと伝えてきたので、まずは丹後は筑前様の御味方となりましょう。

一、摂津衆の有岡、尼ヶ崎、茨木、高槻の諸将はいずれも小身の者ゆえ、一人では進退を決しかね、さりとて連合して勝負を決する覚悟もないまま、領内での一揆の勃発に汲々としているありさま。したがって、本日ここに三十有余里を急行し、筑前様が姫路城におられることすら思いもよらぬことでしょう。

一、大坂表と住吉浜に在陣の織田の御一門衆・神戸信孝公・織田七兵衛様、御付きの将・丹羽五郎左衛門、御奉行・長谷川竹らは、この度の返事を聞いても、いたずらに逡巡するのみで、なすすべを知らぬようであります。なにぶんにも、織田七兵衛は日向守の娘婿ということもあって、疑心暗鬼となり、この危急の折であるにもかかわらず、阿波に迎合して同士討ちもしかねない状態。天下に号令して信長公の仇を報ゆるなどの果断さはございませぬ。

一、大和郡山の城主・筒井順慶は殿も御存知のごとく、天下の耳目に長け、高邁にして機智のある方なれば、出処進退が定かではありません。また、御敵明智日向と類縁の関係ということもあって、すでに軍勢を率いて洞ヶ峰で砦を構えている様子。

順慶は和州で二十有余万貫を有し、その兵数も七千有余騎で、畿内を制圧するに足る兵力。もし、順慶が京坂の要害に拠って明智に加勢するようなことがあれば、摂津衆の去就にしてもどうなるか知れたものではない。偵察の者の報告によって思案しますに、早急に摂州にお出ましになり、諸将に号令して、筑前様旗下の一万六千有余の軍勢の盛んなることを示し、亡君の弔い合戦の大義をもって剛胆疾風の動きをなせば、かならずや諸将は皆承服するでありましょう。

一、江州の筑前様の御領地・浅井郡長浜は、すでに敵の手中にあるようであります。山本山の阿閉淡路守、同万五郎、京極の諸将は明智に加勢。日向守は江州を占拠し佐和山に陣を構え、北陸道も塞いでいるので、安土城在番の蒲生父子も覚束ないでありましょう。

このような状況だけに、なおのこと筒井順慶の動静は注意を要しましょう。風聞によれば、順慶は軍勢を洛中に差し向けた由。筒井は大和においても力を持つ者だけに、即刻、諸将が到着次第、攝州尼ヶ崎の池田紀伊守(恒興)のところまで、お上りなされるのがよいのではありますまいか。

一、筑前様は右の摂津表の様子を聞かれ、この天下の一大事に、なんとも不甲斐なき者どもである。しからば前将(前野長康)の申すごとく、あれこれ思案していても詮なきこと。直ちに前将、蜂小(蜂須賀彦右衛門正勝)両名は手勢を率い、尼ヶ崎の紀伊守に面談して、我が意中を伝えて協力を求め、ともに信長公の無念を晴らすべく伝えよ、と申され、茨木衆の協力をも取り付けるべく、調略を申しつけられたのであった》

 何と行き届いた報告であろうか。しかも、「上方での風聞や諸将の言動・振る舞いの有無についても、細々とお尋ねがあった」「偵察の者の報告によって思案しますに」というのだから、あの手この手で情報の収集に努めた前将の手持ちの情報は膨大な量にのぼったと思われる。すなわち、秀吉が備中高松の陣で首を長くして待ち受けていたのは「前将の返答」なのだ。それより先に信長の死の知らせが毛利に届きそうになったため、急遽、黒田官兵衛と安国寺恵瓊に交渉の場をもうけさせた。

 こういう流れではなかったか。

 それにしても恐るべき「秀吉の悪魔的才智」である。秀吉の瀬戸内返しは天正九年十一月の淡州(淡路島)平定のときすでに彼の頭の中で構想されていたのだから。このことは藤田達生氏が指摘した対光秀情報網構築と双璧をなす「もう一つの伏線」として秀吉黒幕説の有力な状況証拠となり得る。

 すなわち、四国国分案を変更させて光秀の遺恨の念を掻き立てさせ、一年前に淡路島を支配下に置いて瀬戸内の制海権を得てから対毛利和睦交渉を進め、秀吉の一存で決着するところまで煮詰めたうえで、援軍要請の手紙を安土城に送って信長を本能寺まで誘い出したという時系列的な一連の動き、秀吉に対する嫌疑はこれによって決定的となったといってよいだろう。

 仕掛けの効果は覿面であったが、気にかかるのは諸将の出方である。それだけに、何よりも秀吉を安堵させたのが、筒井順慶、丹羽長秀とも光秀討伐に出なかったことだ。そのことによって必然的に次は究極のライバル家康の動静に最大関心が向く。


(つづく)





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