さて。
このあたりで、姫路城に戻った秀吉が最も気にかけた家康の伊賀越えと秀吉の瀬戸内返しを関連づけて考えることにしよう。
時系列の目盛りの針を天正十年六月一日以前に戻すと、
「まだか、まだか、どうして、こんなに時間がかかるのか……」
秀吉はじりじりしながら姫路からくる報告を待った。
なぜなら、信長を襲ったあと姫路に向かうはずの光秀が安土城へ向かうなどということはまったく想定していなかったからである。しかし、前将が秀吉に行き届いた(前回前述の。ただし、それはまだ現時点では現実になっていない)報告をするには相応の時間がかかる。それを秀吉は知らない。とばっちりを受けたのが、清水宗治であった。八つ当たり的に秀吉は宗治の死を毛利に要求した。信長の死が毛利に伝わるのは時間の問題だから「羽柴憎し」の思いから和睦を反故にして殿軍の秀長を襲う可能性はそれだけ高まる。
果たして秀吉は宗治の切腹を見届けると前将に報告を督促する急使を飛ばし、直ちに船で赤穂に急行した……。
本能寺ノ変第一報のキャッチは、必然の場合と偶然の場合という二つのケースがあり得るわけであるが、いずれにしても秀吉が信長の死を知ったとき真っ先に考えたことは次の二点でなければならない。
信長を討った光秀が、どのくらいの速さでこちらに向かってくるか?
筒井順慶は光秀に味方するのか、自分に味方するのか、はたまた単独で光秀討伐に動くのか?
以上の三点におのれの死活がかかる。
そのためにも秀吉が真っ先にやらねばならないことは、対毛利和睦交渉の決着とさらなる上方への情報網強化であった。果たして秀吉は、急遽、対毛利交渉に黒田孝高を起用し、情報網強化のために前野長康を姫路に派遣した。
なぜ、自分の腹心蜂小六でなく秀長の腹心の前将だったのか。
未必の故意という観点からすれば答えは極めて簡単明瞭で、秀長と前将を引き離すことで身内の障害物を取り除きやすいようにしたのである。そのうえで秀長に殿軍を命じ、遮断した情報網を解除した。そのため早くも四日の夕刻、本能寺ノ変の知らせが毛利に届く。
秀吉の目論見では秀長は絶体絶命のピンチに陥るはずであった。秀吉に少しでも秀長を気遣う思いがあるならば、毛利の押さえとしてなにがしかの軍勢を残すべきであったのに、それをしなかったばかりか、自分はさっさと船で姫路に帰還してしまった。
改めて問う。なぜ、秀吉だけがそんなに急いで戻ったのか。
藤田達生氏いわく。
《光秀にとって最も深刻な誤算は、それまで彼の影響下にあった中川氏・高山氏・池田氏という摂津の有力大名衆が、ことごとく離反したことであった。これによって、光秀の羽柴秀吉に対する軍事的劣勢が決定づけられたといってもよい。
摂津の大名衆の動向を決めた要因は、情報戦における秀吉の卓越した手腕にあったといえる。(中略)秀吉は、自らの動きはもちろんのこと、信長をはじめ北国にあった柴田勝家の動きまで、摂津衆に次々と伝えられたのである。
このなかには、本能寺の変のあとも信長め信忠父子が無事であることを伝えるなど、政治的判断による虚偽の情報もあるが、広範な情報収集にもとづく情勢分析によって、織田方の有力家臣が続々と上方に向けて行進中であることを発信しつづけたのである。これこそが、摂津衆を秀吉になびかせた最大の要因であった。
秀吉が正確な情報を得ていた証拠として、秀吉の弟・羽柴秀長が丹波の国衆・夜久主計頭に宛てた天正十年六月五日付の書状があげられる》
以前から情報網を構築し、いざというとき役立てられるようにしておいたから、秀吉らは正確な情報を得られたのだろうし、「本能寺の変のあとも信長め信忠父子が無事である」といったデマの流布も自在だったわけである。すなわち情報収集網を発信網に転換させるのが急いだ理由の一つであることは明白である。羽柴家でそれがやれるのは「秀吉のみ」であった。のちに秀吉が「才智においてわれに異ならないのは三成のみ」という三成はまだ「ひよっこ」にすぎなかった。
しかし、それらの事実は結果的にそうなったというだけのことで、秀吉がすたこら逃げ出した本当の理由は違う。毛利に追撃を受けて秀長と枕を並べて討ち死にすることなどまっぴら。加えて光秀が本気で天下取りに動くとはまったく考えていなかった。常識で考えてもそんなことを天下が許すはずがない。秀吉が頭に描いていた光秀は私怨が第一で、信長を襲わずに姫路を真っ先に襲うことを頭に置いていた。だからこそ、「どうなんだ、どうなんだ、一体、どうなっているんだ」とばかりに悪天候にもかかわらず海路をたどってまで帰着を急いだのだった。
ただし、驚くべきことにあの常識人の中の常識人が天下取りに本気で取り組んでいる様子。わかってみれば、「なあんだ、そういうことか」で、しからば、どうすればよいか、状況に応じて考えと行動を一新できるのが秀吉の傑出した資質であった。
しからば、何をすべきか。
秀吉が真っ先に脳裏に描いたのが、家康殺害だったと思う。
ところが、四日のうちに家康は三河に帰国してしまったという。それを知ったとき、秀吉には「信長よりも恐ろしい敵がこの世に存在する」という抜きがたい認識を持ったのではないか。少なくとも伊賀越えを翻案し演出した本多正信は「主君家康は秀吉が最も恐れる存在になった」という認識に立ったのは間違いない。
すなわち、家康が伊賀越えを敢行して無事に三河に帰ったという事実は、一刻も早く姫路に戻って「家康一行に討手を放つ」という秀吉最大の目的を物理的に不可能にした。
どうして、なぜ?
真相がわからないシチュエーションは、桶狭間合戦の真相がわからないために、今日に至っても信長のカリスマ性の源泉となっていることを思えばおのずと推測がつくと思う。家康にカリスマ性を付与する目的で伊賀越えの真相は秘匿する必要があったのである。
桶狭間合戦の真相を知る秀吉は信長にさほどカリスマ性を感じてこなかったのだが、伊賀越えに関しては真相を知る立場になかったため、生まれて初めて自分以外の人間にカリスマ性を感じたのだった。
このときから二年後、秀吉は楽田に出陣して小牧山城に入った家康と対峙するのだが、以上の理由で最初から戦うつもりはなかったのである。その理由を補強するためにも秀長の備中大返しについて言及しておく必要がある。
