瀬戸内返しをしてまで秀吉が姫路入りを急いだ理由については前にも触れたが、残る一半の答えをあらためて考えることにしよう。そのための着眼点は光秀の下剋上の決断が突発的で見切り発車的だったことである。秀吉はそこにつけ込んだともいえるが、四国国分案など光秀に謀反をうながす仕掛けが早くから機能していたことを考えると、「つけ込むこと」は最初から作戦のうちだったわけである。
あるいはまた、第1回講座で提示した「秀吉は阿波・讃岐から長宗我部勢力を駆逐することに成功して、三好氏に堅く守るよういい含め、信長を四国攻めに誘い出すべく何食わぬ顔で安土城に伺候した」という事実は、「秀吉の瀬戸内返し」を敢行するために不可欠の布石なのだが、当時は事実を伏線的に埋め込むしかなかった。こうした隠された背景をわかるように述べるのは段階を踏まないかぎり不可能である。そして、今、ようやくそのときを迎えた。
かくのごとく光秀に信長暗殺を決断させるための伏線が早くから張られていたとするからには、それを証明してかからないといけないのだが、縦糸横糸が錯綜する現時点ではそういうものとして話を進めるしかない。
緻密な頭脳の持ち主といわれた光秀が「振り返ってみたら杜撰な企てを強行していた」という事実が問わずして語ることは、光秀にとっては信長暗殺の機会到来が「刹那的」「不意打ち的」であったことを示唆している。逆に黒幕の嫌疑のかかる秀吉には周到に策謀をめぐらせる時間がたっぷりあったわけで、それが有利不利の分かれ目であったとすると、船を用いた秀吉の「瀬戸内返し」第一番のねらいがかなりはっきりしてくる。
松本清張著『私説・日本合戦譚』中「山崎の戦」は次のようにいう。
《光秀が信長を殺そうと思い立ったのは、信長が僅かな家来しか連れてなくて、本能寺に泊っていたという偶然な機会に魅せられたためだろう。
光秀は、五月十七日に安土を発して坂本へ行き、二十六日には坂本から居城亀山に到着している。ここで、信長の命令通りに、中国出陣の準備を整えたのだった。
この軍編成をしているうちに光秀は、ふと、信長がほとんど単身で本能寺に泊っていることを思い、この軍勢をして信長に向かわせたら、という想像が起こったかもしれない。
もともと中国行は、イヤでイヤで仕方のなかった折である。年来、信長に持っていた不快と不信感が爆発したというよりも、今だったら造作なく信長が仆せる、というチャンス感が起きたに違いない。
このときの光秀の胸中には、柴田勝家は北陸にあって上杉景勝と対峙し、滝川一益は遠く関東上州にあり、秀吉は毛利に釘づけされて、一寸動きもできない状態にある。丹羽長秀は長曾我部退治に向かうため、摂津方面に駐留しているが、この軍勢だけでは、さしたる人員ではない。いうなれば、織田の戦力はほとんど諸方に四散して、しかも、それぞれが急に引返してくることが出来ない状態にある。いま信長を討っても、彼らが戻ってくるのには相当の時日を要する。
また、信長が仆れたとなると、毛利にしても、上杉にしても、長曾我部にしても、急に勢いを増し、信長の各方面軍は、忽ち苦戦に陥るであろう。各個撃破されて自滅するかもしれない。されば、そののちに毛利や上杉と手を握ればよい、という計算も光秀に働いていたかもしれない》
松本清張の解釈であって、事実そのものではないから、どこまで本当か知るかぎりではないが、「いま信長を討っても、彼らが戻ってくるのには相当の時日を要する」という認識は秀吉と一緒だったと思う。それに時間がかかればかかるほど光秀に有利になり、秀吉には不利になる。
と、なれば、「相当の時日」をどれだけ詰められるか、時間との闘いに勝つことが不利を少なくし、逆に有利に大きく貢献する。だから、船なのである。そのための早くからの瀬戸内制海権の確保であった。
《柴田勝家は北陸にあって上杉景勝と対峙し、滝川一益は遠く関東上州にあり、秀吉は毛利に釘づけされて、一寸動きもできない状態にある。丹羽長秀は長曾我部退治に向かうため、摂津方面に駐留している》
以上の構図は「秀吉が阿波・讃岐から長宗我部勢力を駆逐することに成功した」当時からあまり変わらない。播州赤穂岬に上陸したとき、秀吉は「やった」という気分だったと思う。