備中大返しの後半も電撃的にならざるを得なかった理由


 何回も繰り返すようで恐縮だが、本能寺の変研究のエキスパート藤田達生氏は「なぜ、最前線の秀吉が、約二〇〇キロもの長距離を、異常な速度で、しかも光秀方勢力を的確に掃討しながら京上し、決戦において快勝するといった『奇跡』を実現しえたのであろうか」と疑問を呈し、答えを次のように述べた。

《光秀にとって最も深刻な誤算は、それまで彼の影響下にあった中川氏・高山氏・池田氏という摂津の有力大名衆が、ことごとく離反したことであった。これによって、光秀の羽柴秀吉に対する軍事的劣勢が決定づけられたといってもよい。

 摂津の大名衆の動向を決めた要因は、情報戦における秀吉の卓越した手腕にあったといえる。備中高松から上方をめざして急行軍していた秀吉は、自らの動きはもちろんのこと、信長をはじめ北国にあった柴田勝家の動きまで、摂津衆に次々と伝えられたのである。

 このなかには、本能寺の変のあとも信長・信忠父子が無事であることを伝えるなど、政治的判断による虚偽の情報もあるが、広範な情報収集にもとづく情勢分析によって、織田方の有力家臣が続々と上方に向けて行進中であることを発信しつづけたのである。これこそが、摂津衆を秀吉になびかせた最大の要因であった。

秀吉が正確な情報を得ていた証拠として、秀吉の弟・羽柴秀長が丹波の国衆・夜久主計頭に宛てた天正十年六月五日付の書状があげられる》

藤田達生著『証言・本能寺の変』は夜久主計頭に宛てた天正十年六月五日付秀長の書状の文面を現代語訳で次のように紹介している。

《たしかに申し上げます。さてそちら方面(夜久氏の本拠地但馬・丹波国境沿いの夜久地域)においては、羽柴家の家臣の者どもがなんとか近江(長浜)まで往復しておりますが、それについて街道(山陰道)を安全に送り届けいただきまして、大変ありがたく存じます。ますます今後とも往復がありましょうから、特によろしくお願いいたします(後略)》

 秀吉が正確な情報を得ていた証拠であると同時に、周到に策謀をめぐらせる時間が秀吉にたっぷりあった可能性をうかがわせる証拠でもある。ただし、藤田達生氏の記述に唯一難を指摘するとすれば、「備中高松から上方をめざして急行軍していた秀吉」という記述が「結果オーライ」的であることだろうか。

 あるいはまた、秀吉の名で摂津国茨木城の中川清秀宛に発せられた六月四日付の書簡は「信長は無事」と虚偽の情報を伝えた諜報戦の小道具だから、四日当時の秀吉本人の居場所の判断材料にならない。犯罪捜査的に考えれば至極当然の扱いである。つまり、証拠能力がないということ。

 日本史の資料はよくよく吟味してかからないといけないということを本講座の初回に述べたが、備中大返しは秀長のみがやったことという認識が広まればおのずと判断がつくことばかりである。

 それはさておき。

備中大返しを現実にやってのけた秀長と瀬戸内返しに命運を託した秀吉という好対照の人物像を、われわれは初めて目に見えるかたちで確認することができたわけであるが、それすらも秀長にとっては見慣れた光景で、「相変わらず兄貴は小ずるい」という類いの感想を重ねて抱いたものと思う。

夜久主計頭に宛てた天正十年六月五日付秀長の書状、秀吉の名で摂津国茨木城の中川清秀宛に発せられた六月四日付の書簡を判断材料にすると、『武功夜話』に記述された時系列事実にはかなりの信憑性があり、不明とされ、論争のある備中大返しの高松陣撤退は「六月六日説」でないとおかしい。ただし、秀吉自身の出発は六月五日である。

 六月六日、秀長が殿軍を務め全軍撤退を開始。先発の秀吉、夕刻、姫路入。

 六月八日、秀長、姫路城帰着。

 これが世にいう「備中大返し」の真相であろう。

 備中高松から姫路城まで約九十二キロメートルだから、距離的移動という点から見れば不可能ではない。それ以上に特筆して評価すべきは、対毛利戦の軍勢を全軍光秀討伐軍に振り向けた手際のよさである。

 それは秀吉が予想し得ないことだった。

前に述べたように、秀吉は「秀長の類い稀な利点を生かして使わない手はない」と考え直した。

 蛇足ながら、ここで付け加えておくべき事実がある。「六月五日、光秀、安土城、佐和山城、長浜城などを攻略」という年表上の事実である。確か長浜城には秀吉・秀長兄弟の母親大政所(当時の名は不明)と秀吉の正妻お寧(のちの北政所)がいたはずである。そして、藤田達生氏が指摘した姫路から山陰道を経て長浜に通じるルート工作の可能性を加味するとき、ルートの活用に見向きもせず天下取りに出ようとする秀吉とルートを活用して大政所とお寧の救出を優先しようとする秀長の間に心情的亀裂が生じた可能性がある。日本史を見直す際には正確を期するためにも、こうした事態をも想定してかかる周到さが必要と思う。

 ただし、犯罪者的立場の敵(ここでは光秀)が脅迫するのは相手(秀吉)本人よりも家族である。古今、洋の東西を問わず、このパターンは変わらないらしい。脅迫に用いるための人質だから殺さない。秀吉はもちろん秀長にもこれくらいの認識はあったであろう。ここに兄弟の妥協点があり、落としどころを生み出す余地があった。

 もし、そういうシチュエーションが存在したとすると、秀吉と秀長のキャラクターの違いはより明白になる。これにぴたりと重なるパターンがのちに秀吉が対徳川和睦実現のため実姉旭媛を離婚させて家康に輿入れさせ、実母大政所を家康に人質として差し出したことである。対家康との和睦交渉を進める秀長は自分の頭越しにカードを切られた恰好で、決して愉快ではなかったはずである。

 しからば、おのれの意思に反する秀吉のやり方を、秀長はなぜ黙認したのだろうか。

 こうした場合、必ず見返りがあると思うのが通例である。秀吉を掣肘する「公儀のことは秀長に諮り、内所のことはお寧に諮れ」の「内所」に千利休を加えたのが答えの一つ、もう一つが家康との同盟である。

 長浜の母親とお寧の救出に向かわず光秀との対決を優先する秀吉を念頭に置きながら、今また姉と母親を対家康和睦のカードに用いようとする秀吉に向かって秀長はこういった。

「おれは最初から家康殿とは戦わないつもりだった。小牧山で家康と対峙した兄貴のために和睦の交渉をやってるのに、そこまでするならおれは降りる。あとは兄貴が自分でやってくれ」

 もちろん、秀吉も伊賀越えをやってのけた家康と戦うつもりはなかったのである。楽田に陣を張ったのは家康が織田信雄と提携して小牧山に籠城したため、なりゆきで仕方なくファイティングポーズを取ったのだった。家康が小牧山に籠城するということは「おまえからこなければ応戦しない」という暗黙のメッセージである。闘えばどちらが勝つにしても大きく傷つかずにはいられない。まして、秀長は「家康と戦うなら金輪際おれは協力しない」といっている。秀吉は秀長のこの言葉で考えを一変させたのであろう。当然、秀長は楽田の本陣には参加せず犬山城包囲で圏外に退いた。以上が小牧山合戦不戦の構図の背景である。

 本講座の解析子は思う。

これまでのように唯々諾々と信長に従う律儀な男ではなく、伊賀越えを見事にやってのけたのが現時点の家康であり、恐るべき存在である。加えて本能寺事変を事前に予測した伊賀越えそのものが秀吉に対する無言の告発状でもあった。備中大返しをしてのけた秀長もまたしかり。秀長を欠いて家康と戦うことの不利を思うとき、両者を生かして利用することの利の大きさはこれまでの実績から明らかであった。

かくして秀吉と秀長は「対徳川和睦」という目的では一致しておりながら、やり方、進め方で兄弟仲が真っ二つになっていくわけであるが、家康との和睦の前にやらねばならぬことがあった。光秀討伐に家康や柴田勝家が参戦してこないうちに対光秀戦の勝敗を決すること。それゆえに備中大返しの後半も電撃的にならざるを得なかった。

以上、小牧山の合戦の前にこれだけの絵解きをしておかないと、その後の推移が読めなくなってしまうだろう。

(つづく)




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