北条討伐宣言は天正十七年十一月でなければならなかった


 関東総無事令が北条討伐すなわち秀吉による家康関東封じ込めのための布石であったとすると、討伐宣言はもう少し早くてもよさそうなものである。それがなぜ天正十七年十一月二十四日まで丸二年もの歳月を費やすことになったのだろうか。

 考え方としては「成案を得てから宣言するか、宣言してから妙案を思いつくか」という二者択一的な問題を提起し、どちらか決めて判断する方法がある。二年もの歳月をかけたのであれば前者のパターンであったのは明らかで、一夜城築城こそ作戦の眼目なのだから事前に細作を現地に送り込むなどして、石垣用の石の調達法、柱などの構造材・部材などの入手方法の調査にもかなり時間を費やしたはずである。生木では乾燥すると狂いが生じて各部に不具合が生じるので、民家を取り壊すなどして古材を調達する必要があり、実際にそれが行われ、足りない部分は仕方なしに生木を製材して用いたといわれる。そのために一夜城の倒壊はあっけないくらい早かったらしい。

だとすると、逆に北条討伐の宣言をもっと遅らせたほうがよさそうな気がするのだが、なぜ宣言が天正十七年十一月二十四日だったのか、という疑問が新たに生じる。

 一つには北条幻庵の死がある。北条氏の長老的存在の幻庵の死は天正十七年十一月一日、大谷吉継が家康への使いを命じられたのはそれを受けてのことだろうし、幻庵の死で宗二と宗普が小田原城内で浮いた存在になったと判断したためかもしれない。加えて、秀長の病状が大きく関係してくる。

 これまでは宗二、宗普と幻庵の紐帯を土台に据えて考えてきたが、ここからは大和大納言秀長卿の病状を判断の基準にして解析することにしよう。すなわち秀長が亡くなるのは天正十九年一月二十二日である。秀長が亡くなってしまったら、家康が北条討伐に同意するかどうかわからなくなってしまう。ましてや、留守居に豊臣の人間を入れるなど絶対応じるわけがない。秀長が存命で、その人が留守居だからこそ、仕方なく家康は応じたのである。だからといって、秀長が元気なうちは秀長自身が北条討伐に反対しかねない。死にもせず、さりとて外からの情報が届かない病状のときが、秀吉にとっては望ましかった。そういう尺度で北条討伐宣言のタイミングを計ると天正十七年十一月二十四日あたりにならざるを得ない。

 さらには大和大納言家継嗣仙丸の廃嫡、秀保養嗣子騒動以後、秀長と秀吉の仲がかなり険悪になっていたことを考えると、秀長本人が留守居として家康の留守城に入ることは避けたいところである。

 なぜなら、家康・信雄連合軍と北条氏が結託して秀吉本隊を攻撃したとする場合、秀長は自分よりも敵側に味方する恐れがあった。だから、北条討伐宣言は秀長が名のみの存在となって前将が代理として駿府城に入らざるを得ないタイミングを選んだ。

 こうなると、秀吉は家康が行った松平姓から徳川姓への変更の意図が背中の刺青のように消すに消せないシチュエーションであることを十分に理解し、利用しようとした蓋然性を否定できなくなってくる。それは家康が徳川姓でいるかぎり、現状をどのように取り繕っても消えないのだ。他国を相手にするときならいざ知らず、関東に覇権を築いてきた北条氏には永遠の疑念なのである。悪魔的な知恵を持つ秀吉がこうした構造的シチュエーションを活用しないはずがなかった。家康と北条氏の密約に勘づきながら、秀吉がそれを不問にした理由を前々回と前回の両セッションで述べたが、こうして考えてくるといまさらながら「刺青」の持つ効果に驚かされざるを得ない。

 ところで。

 ちょうどこの時期、千利休が秀吉を蛇蝎のごとく嫌っていたことを証明する事実がある。秀吉が利休の橋立の茶壷を強く所望したのは有名な話だが、それに対して利休は「決して渡すものではない」と拒み通しただけでなく、「今後、自身が橋立の茶壷で点前をすることはないじゃろう」と親しい者に公言していた。

「客人に泥水を飲ませることになってしまうでの」

 泥水とまで……。

 秀吉を憎む利休の言葉の激しさには驚くばかりである。

 このことは小田原合戦後、大和大納言秀長の没後に詳しく言及するが、当時から秀吉は人気がなかったということを裏づける事実として強くイメージしておいてほしい。

 さて。

 関東総無事令は二年前に発しておいた。目の上のタンコブの幻庵は亡くなった。おのれの旧悪を知る宗二・宗普は強力な後ろ盾を失って浮いた存在になりそうだ。なぜかといえば氏政・氏直は器として幻庵には遠く及ばない。氏直の正室は家康の娘だが、幻庵あっての北条氏との姻戚関係であろうから、仮に密約が事実であったとしても徳川の存亡を賭けてまで娘婿に肩入れし、自分に敵対することはなさそうである。松平姓から徳川姓に変更した意図をだれよりも後ろめたく感じているのは家康なのだから、何をするにも自縄自縛で身動きが取れまい。

秀吉の読みはこのようなものだったと思うが、果たして家康は吉継の要請をすんなり容れて先鋒を引き受け、留守居に秀長の代理として前将を迎えることに同意した。

 事実としてはこういう流れなのだが、以上の決断を下すに当たって、家康は秀吉が一夜城築城の構想を温めていることを察知していたかどうか、ということが極めて重要なキーポイントになってくる。知らなかったと仮定して解析を進めてきたのにどうしていまさら問い直すのかというと、日本史の解析法をジグソーパズルの組み立てに置き換えて考えるからである。全体画を構成するピースすなわち事実片は必ず「裏づけを取る」という姿勢を貫くためである。

 あるいは解析途上で突き当たる矛盾点や疑問点を暗号文にたとえると、その都度、きちんと解読して進まないと、いずれ、必ずどこかでチクハグになり行き詰まってしまう。それぐらいなら、早い段階で暗号をきちんと解読したほうが理にかなう。方法論の実践的確率も本講座の目的の一つなのだから

(つづく)




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