小田原合戦を矛盾なく読み解くうえで重要な点は、前述のように家康関東封じ込め作戦として計画された合戦であるということである。それぐらいはだれにでも読み取れる秀吉の腹のうちといえなくもないが、家康にも読み切れなかったのが、秀吉の一夜城構想であった。それが読み切れていたら小田原合戦はなかったのだが、そうした「タラレバ」を許さないところが、秀吉の知恵の悪魔的たる所以なのである。しかも、幾重にも罠が仕掛けられていた節がある。いずれも秀吉の一夜城構想が読み切れていたら、事前に何らかの回避行動を取れたのだが、結果として信雄が先に罠にかかったお蔭で家康は難を免れた。
かつて伊賀越えの直前に目の前で穴山梅雪が何者かに襲われて落命したお蔭で、かつて自分に背いて逐電した本多弥八郎正信を信頼することがてきたのであろうし、経路変更にも従うことができた。あの怪我の功名的な僥倖と実によく似たパターンなのである。
しかし、今、秀吉が仕掛けた罠は予告にとどめ、そのときがきたら「いかなる罠か」を明かすことにして、小田原合戦の幕を開けることにしよう。
さて。
家康が小田原攻めの先鋒として駿府城を出発したのは二月七日のことであった。第二軍の信雄がすぐにつづいた。秀吉は二人の出陣を見届けたうえで三月一日に京を発し、尾張、三河、遠江、駿河の各城に留守居を配置しながら、同月十九日、駿府城に入った。
翌二十日、家康は先鋒の本陣駿河長久保城から駆けつけて秀吉の接待に努め、本多重次から前野長康へ留守居が交代する席に立ち会った。
秀吉が駿府城へ入るより四十一日も前に出陣した家康が、その間、何をしていたかというと、富士川に舟橋を架けたりしてわざと時間を費やし、黄瀬川右岸の長久保城までしか進んでいなかった。先鋒として真っ先に攻めかかるべき山中城が拡張工事の途中であったことを考え合わせると、油を売るとか緩慢といった域を超えた前代未聞のサボタージュぶりである。家康が駿府城に戻って秀吉の接待と留守居の交代に立ち会ったのは意図的に進軍を遅らせた事実を取り繕うためだったのかもしれない。
通常なら秀吉は激怒するところである。だが、秀吉は怒らなかった。というよりも怒れなかったというべきだろうか。ここにもおかしな点が見受けられる。だれの目にも明らかにサボタージュとわかる緩慢な軍事行動を取りながら、ぬけぬけと本城の駿府城へ秀吉接待のため前線から引き返してくるといったふてぶてしさは、「俺を罰せられるか。やれるならやってみろ」という挑発行為に等しい。
「せっかく、関東をくれるというのに、それを断って得るもののないいくさをせよというのか」
御前評定の席の言葉と矛盾する行為だから、家康は秀吉がまだこの段階では強く出られないだろうと考えたに違いない。
そうだったとすると、こういうことが考えられないだろうか。
秀長の傀儡でしかない秀吉の自由になる軍勢は養子の宇喜多秀家の手勢のみ、本隊のほとんどが秀長の代理できていた前野長康の事実上の指揮下にあった。秀長は大和郡山城で重病の床に臥せりながらも前将を代わりに立てて秀吉に目を光らせていたわけである。
実は後述する宇喜多秀家の家来花房助兵衛職之のように、宇喜多家家中ですら秀吉に対して反感を持つ者が少なくなかった。根源的な原因は宇喜多家独特の体質にあるのだが、こうした不人気ぶりがやれ関白だ、太閤だ、と位人臣を極めることにより人心を従えようとした秀吉の心の根底にくすぶりつづけていたと思われる。
関ヶ原合戦へのメッセージという観点からいうと、すでにこのときから豊臣子飼いの将たちは家康に対して同情的であったということである。小山会議の場面における豊臣子飼いの大名たちの気持ちは、決して打算などではなく、すでに小田原合戦のときから「親家康」だったのである。なぜなら、彼らが敬愛してやまない大和大納言秀長、秀吉の正室北政所(お寧)が大の「親家康」だったからである。
明治維新政府が小学校区53,760、中学校区256、大学区8を設けるとした学制を発布したのは、廃藩置県の断行で大混乱を極める明治5年のことであった。明治12年の教育令で以上の学区制が廃止され、町村単位で小学校から優先的に設立されることになった。それを受けて明治14年に小学校教則綱領が制定されて、教科の内容、時間数が明示され、全国的に統一が図られたのは明治15年頃とされる。当初は文部省と師範学校が日本史教科書の編纂に当たり、明治16年に認可制度が発足して、以後、検定制度に変遷しつつ民間教科書、国定教科書の区別なく「教科書日本史」が編まれてきた。
教科書日本史は文部省という行政機関が編纂に当たったから、当然、決定するのは文部大臣森有礼である。だから、日本史は森有礼史観に基づくといって差支えない。このような成立過程を持つ教科書日本史を「国史」としてよいものだろうか。
ましてや、徴兵制下の日本では軍隊の中で日本史を叩き込まれる。信長の桶狭間の作戦を奇襲による完全勝利と読み違えて「迂回奇襲説」という架空の作戦を捏造したのは有名な話だ。大日本帝国陸海軍にはまず対米宣戦布告があり、真珠湾奇襲作戦があり、その作戦をオーソライズするにふさわしい作戦に桶狭間完全勝利の迂回奇襲説をピックアップして、真珠湾攻撃に国民的支持を取りつけるつもりだったらしい。
学制が発布された当初は、明治4年にクーデター政府が断行した廃藩置県に対する武士階級の怨嗟の声、四公六民のめぐまれた江戸時代を懐かしむ天領民たちの反感、それは裏返せば明治政府の不人気を意味するわけで、加えて教科書日本史の土台は皇国史観である。源頼朝は鎌倉に武家政権を樹立した張本人として、北条義時は京に攻め上って朝廷軍を制圧したという理由で悪者にされ、家康に至っては江戸に幕府を開いたのみならず、善政を敷いて天領民から絶大な人気を得たという二重の恨みで悪者にされた。こうした史観に当時の大衆がどう反応したかというと……。
御開港場横浜に多くの観客を集めた賑座で、ある日、徳川を誹謗する台詞を役者がいったところ、たちまち客席からヤジが飛んで騒然、収拾がつかなくなって公演が中止になったという記録がある。これほど徳川人気は根強く絶大であったから、ますます問答無用で家康は悪者にされた。関ヶ原合戦における解説の無軌道状態は実はここに起因する。
「石田三成は正義漢、家康は腹黒い権力の亡者」
秀吉と三成のどこが正義があったかなどは問題ではなく、家康を悪者にするには「敵の敵は味方」の理屈で三成を「正義の人」にでっち上げるほかないという論法なのである。両者のうちどちらが正義で、どちらが邪かは、すでに述べてきた分はもとより、これから述べる小田原合戦で明らかになるだろう。
それはさておき。
徳川対北条という秀吉の小田原攻めの構想は、家康の思いもよらないサボタージュにより出だしで頓挫した。小田原評定も籠城派と攻勢派の間で議論が紛糾したが、結局、籠城に落ち着いたため徳川と北条の衝突は避けられた。とりわけ先鋒たる家康のサボタージュは「長久手で負けたことをお忘れあるな」といわんばかりのあからさまな示威であったため、秀吉が率いる本隊の間にいやな噂が流布し始めた。
「家康は北条とは戦うつもりがないらしい。機会をねらって上様を殺そうとしているのではないか」
問題はこうした噂の出どころである。
出所が秀吉ではないなら、厳しく詮議して噂の流布に関係した兵を処刑するなりしなければいけないところだが、秀吉がそうしたことを証明する事実はなかったようだ。
二十二日に家康は長久保城に戻って行き、翌日、秀吉も駿府城を出て五日後の二十七日に沼津城に入るのだが、このとき、ちょっとした事件が起きかけた。
秀吉は出迎えの家康と信雄を見ると馬から降りるなり佩刀に手をやって、
「信雄、家康に逆心ありと聞く。一太刀参ろうぞ」
こういって二人を威嚇したのである。
信雄はうろたえたが、家康は落ち着き払って応じた。
「関白殿下がいくさ始めに御太刀に手をかけられるとはめでたいことだ。みなの者、お祝い申しあげよ」
以上のエピソードをどう読み解くか。
問題の噂の出所が秀吉だとすると、これが第一の罠である。あるいは信雄の狼狽ぶりから見て、家康・信雄のほうにも何か企てがあった節がある。家康までもがそれを顔に出したら、秀吉の思う壺になるところだった。二人をこの場で成敗し、長久保城を襲って残党を掃討してしまえば、小田原合戦は関白軍対北条だけのいくさになって、しかも大義名分は秀吉にある。秀吉には家康と信雄の領地がまるまる手に入るだけでなく、家康にやると約束した関東まで得ることになる。
家康の立場で考えると、噂の出所は秀吉本人以外には考えられない。だから、当然、家康は第一の罠には気づいたのだと思う。あらかじめ用心する気持ちがあったから、信雄のようにうろたえなかった。
とにかく、秀吉に箱根を越えさせることだ。
その一点に家康は集中した。