秀吉を知ることにおいて宗二に勝る者は一人として存在しない。これ見よがしに家康と信雄を従えて諏訪原を通り抜ける姿を確認したとき、宗二は無念の思いに駆られて思わず天を仰いだものと思う。
「汝、天魔か、邪神か。嗚呼、知恵において、われ、関白に及ばずとも、天よ、せめて一矢なりとも報いさせたまえ」
秀吉の戦法は渇泣かし、干殺しといわれるように、持久戦に持ち込んで抵抗する城兵を皆殺しにするものである。それが秀吉の残虐性と保身本能に由来するものであることは前に述べた。今、着々とその準備が進んでいる。聞けば天守閣を持つ石垣城を築き城下町までつくる計画だという。城下町までつくるからには何年かけても小田原城を包囲しつづけ「干殺し」にするつもりなのだろう。
これでは北条方の将兵は一人も助からない。ましてや、家康の苦境は推して知るべし……。
宗二の胸にあらためて秀吉に対する憤りが勃然と湧き起こった。
このときの宗二の気持ちはいかばかりだったであろうか。
宗二の思いを代弁するなら、最初は悪い奴ぐらいの認識でしかなかった男が、そしてまた、数多くボロを出して信長にいつ殺されてもおかしくないピンチに陥りながら、「公儀のことは秀長に諮り、家内のことはお寧に委ねよ」という他家ではおよそ考えられない内規と引き換えに身の安全を保ち、とうとう光秀という自分の仇敵まで悪事に加担させて信長を取り除くことに成功した。
それをだれもが「まさか」といって信じない。
秀吉の悪事が計算して行われたものだとしたら、最早、それは芸術的な悪というべきであろう。美しいとさえいいたくなってくる。しかし、違うのだ。秀吉は目先のことしか考えない。第一回講座で解き明かしたように、秀吉の信長に対する叛意は天正元年時点の安国寺恵瓊の手紙が暴露する通りである。計画性のなさが天正十年まで実行を遅らせたのである。計画性がないから遅れることなど少しも気にしない。失敗しなければいつか成功する。それが秀吉の姿勢なのである。だから始末におえない。ある部分だけ切り取って秀吉を藩坦したらまず十中八九は結論を間違うだろう。おぎゃあと生まれたから死ぬまで通して考えないと、あの男だけは読み切れない。
しかし、これだけはいえる。秀吉を無事にここまでこさせたのは、大和大納言秀長卿とお寧が掣肘しつづけたからである。
「公儀のことは秀長に諮り、家内のことはお寧に委ねよ」
あの秀吉がどうしてそれを受け容れたのか。
最初は信長が秀吉に強制したと考えた。存命中はその通りかもしれない。しかし、信長の死後、逆に「家内のことは利休とお寧に委ねよ」と掣肘役が一人増えたことの説明がつかない。
嗚呼、迂闊だった……。
宗二はまさかの思いで大政所の正体に気づいた。
水と油の藤吉郎秀吉と小一郎秀長を操り、兄弟反目することなく、とうとう天下を取らせた。小牧・長久手の戦いのあとの和睦で家康が大坂城へ伺候する間の身の安全を保証する人質として大政所が岡崎へ人質に入り、人妻の朝日姫が離縁させられて家康の正室に収まったのは、秀吉から出たことでもなければ、ましてや大和大納言秀長卿でもないし、お寧であるはずがない。それをやれるのは大政所だけではなかったか。
大政所はただの女性ではなかったのだ。
想像もしなかったその女性も今は七十七歳、大政所の老衰が秀吉を次第にコントロール不能にし、秀長の心労を深めたのだろう。秀長の死が天正十九年、大政所の死は天正二十年である。宗二は翻然と悟った。
遂に読み切った。
これまで秀吉を憎み嫌うだけだった宗二に大政所を主上に戴く豊臣家の実像が見えたことで、ある種、超絶した存在に対する畏敬の思いさえ芽生えたのではなかったか。その客観性が宗二を冷静にさせた。いかなる感傷も排して宗二は自分なりにやれることは何かを考えた。
秀吉の悪魔的知恵の勝利を逆転させることはかなわないまでも、効果を減殺せずにはおかないという修羅の意気込みで難題に立ち向かおうとした。だからこそ、秀吉も虚をつかれ、あっと驚いて、思わず取り乱した、そういう作戦を思いつくことができた。
しからば、宗二は何を思いついたのか。
一夜城が完成したら家康が秀吉を討つ機会はなくなるだろう。ひょっとしたら関東移封も反故にされるかもしれない。だからといって、軽はずみに戦いを挑んではならない。仮に秀吉を殺すことができても家康が道連れになったのでは意味がない。北条氏の生き残りを実現させ、家康を関東に無事に入れるにはどうしたらよいか、答えは北条氏の無血開城しかないのはわかっている。しかし、単に無血開城したのでは北条氏の滅亡は避けられない。関東安堵はないまでも北条氏直以下一族の存続を実現するためにも家康の身の安全確保と関東移封の二つは何としても実現させなければならない。かくして宗二が思いついたのは北条氏に家康を信じさせ、無血開城を受け入れる交換条件であった。宗二が北条氏に提案した条件の具体的内容は先へいって明らかにすることにして、そのためにも「今もって家康と宗二、宗普が北条氏の味方」だということを北条氏政・氏直父子に一点の曇りもなく信じ込ませる必要があった。そのためには、ただ殺されるのでは駄目だと宗二は思う。
このうえなく残酷な殺され方をして、明らかに自分たちは秀吉の仇敵だということを天下にあまねく示さなければならない。どうしたら、むごい殺され方を演じられるだろうか。
宗二が到達した結論がその答えであった。
四月十一日当日、宗二は前から秀吉が欲しがっていた茶筅を献上する、ついては御前で野点を試みたいと偽って城を出た。そして、早雲寺境内に設けられた野点の場に臨んだ。宗二が真っ先に確認したのが小早川隆景の姿であり、細川忠興の存在であった。野点の席を秀吉に周旋したのが家康だったとしたら、当然、いたはずであるが、家康がいたかどうかは確認できていない。宗二にとっては隆景さえいてくれたらよいという心境であったと思う。宗二は厳重に身体検査を受けてから身に寸鉄をも帯びない状態で茶筅を欲しがる秀吉に近づくなり、音吐朗々と決めつけた。
「右府公(信長)を殺したるは光秀にあらず、関白秀吉なり。証拠はこれなる恵瓊の手紙ぞ」
宗二は安国寺恵瓊天正元(一五七三)年十二月二十日付書簡(山県越前守宛)の写しをばっと広げて秀吉に示してから、茶杓で彼の胸を突いた。
「右府公、恨みの一太刀。思い知ったか」
虚をつかれて、秀吉は茶筅の切っ先でまともに胸を突かれてしまった。
「おのれ」
秀吉は憤怒の形相で宗二につかみかかり、組み敷いて、短刀で耳を落とし鼻を削ぎ胸を刺し貫いた。普通ならだれかに命じて成敗するところなのだろうが、秀吉には宗二惨殺を余人に委ねられない理由があった。一秒たりとも早く口を封じなければ何をいい出すかわからない。これまで二度も追放しながら殺さずにきた理由は知る人ぞ知るだが、そのすべてを知るのが宗二なのだ。一秒を生きながらえさせればそれだけ真実が洩れていく。
宗二に一番近いのは秀吉なのである。
だから、秀吉としては自分でやるほかなかった。
現場の状況は恐らくこんな光景ではなかったかと思われるのだが、これも宗二の計算のうちであったと思う。
さて。
宗二の死から五日後の十六日、宗普が断食自決を遂げた。断食自決というのだから宗二が城を出るときにはすでに「断食」が始まっていたわけだ。この事実も重い。宗二が秀吉を激怒させたのは突発事件などではなく二人して示し合わせたうえでの確信犯的な決行だったことを裏づける証拠である。
なぜこうまでする必要があるのか。こうまでするからには目的はそれにふさわしい内容でなければならない。そして、その内容は思いもよらないものであった。そのことはまた回を改めて言及することにして……。
目の前で弟子の宗二を惨殺された千利休は、築城中の笠懸山に登って小田原城を遠望し、
「小田原あはれをもよほし候、涙ばかりに候」
と嘆いた。
利休のこの思いが野点の席にいた諸侯の気持ちだった。そして、あまりにも凄惨なあの場面が諸侯の眼に焼き付いて消えなかった。仁君・小早川隆景があの場の光景を目にして黙っているわけがない。
ところで、皆殺しの軍令状が発せられた時期はすでに述べたが、撤回されたのか否か、撤回されたとしたらいつのことか、まったく不明である。宗二惨殺が行われてから、一夜城着工により、断然、精神的優位に立ったはずの秀吉が見るかげもなくしぼんだように精彩を欠き、現象的には逆に家康のマイペースになっていく。
それには小早川隆景の存在が大きかったものと思われるが、宗二惨殺の衝撃がどれほど威力を発揮したか、今後の推移をみればわかるはずである。宗二惨殺をもって小田原合戦は事実上幕を下ろしたといって差支えないのである。