宗二惨殺を契機として、家康、関東経営に着手


 宗二惨殺直後から家康は早川口の守将皆川広照、玉縄城主北条氏勝を誘降したり、武蔵国や下総国の小さな城ばかり攻め取って肝腎の小田原本城の攻略など忘れてしまったかのように振る舞い始めた。さらにはまだ韮山城が落ちていないというのに旗本の伊奈忠次を伊豆に派遣して領国経営に着手するありさまであった。

明らかに皆殺しの軍令状違反である。

これをどう読み解くか。

 まず事実から述べると、宗二を惨殺して以来、秀吉は不機嫌な日がつづいた。家康寝返り説が再燃するのを恐れて我慢していたが、秀吉はとうとう怒りを爆発させて家康を呼びつけると声を荒げて詰問した。

「大軍を擁しながら小城ばかり攻めており、敵に降伏勧告ばかりやって開城させ、点数稼ぎばかりしているのはけしからん」

 家康はしれっとした顔で申し開きした。

「お叱りはごもっともなれど、いかにせん、小田原城の将兵の士気は衰えるきざしがありません。さりとて何もせずにいては味方の士気が衰えまするで、せめても末端の城でも落として士気を鼓舞しようと考えたのでござる。ただし、あたら兵を損ずることになっては肝腎の総攻めのときお役に立たなくなるだろうと考えて降伏勧告に努めて参った次第、やむにやまれぬ苦肉の策です」

 秀吉の脇で聞いて隆景が弁護した。

「武士は鬼庭にあっても仁愛を忘れるべきではありません。いかにも家康殿のやり方は理にかなっております。新たに軍令状を発して降伏勧告をお認めなされてはいかがですか」

 以上のやり取りは小説的描写である。

しかし、軍令違反が明白な家康を秀吉が罰しなかったのは明々白々たる事実である。一夜城が完成しないうちに家康を追い詰めるのは得策でないと考えたのだとしたら、秀吉の本質である臆病が顔を出したとしか思えない。

 あるいはまた、秀吉はなぜ軍令違反を理由に家康を断罪しなかったのだろうか。あるいはできない何か理由があったのだろうか。その前に、心理的にいって断然不利な立場にあるはずの家康が、なぜ、公然と軍令無視を決め込み、好きなように振る舞い始めたのだろうか。

 答えは今となっては遥か時のかなたにあるわけで、いまさらこうだといえることではないのだが、一つの見方として秀吉が持つ優劣両極端の二面性のうち「劣」の一面、すなわち家族の事情、家庭の事情が関係しているといえないだろうか。すなわち、秀長との角逐、大政所の老衰である。兄弟に対する大政所の役割については次回に少しくわしく説明する。

 さて。

 秀吉の秀吉たる所以は「信長の後継者とは認めない」とする世の中を敵にまわしてでも目的を遂げよう、あるいは家康に心理的な負い目を抱きながら外見上だけでもそれをひっくり返そうとする押しの太さにあった。その結果、秀吉は関白太政大臣の地位を手に入れて位人臣を極めた。そういう悪魔のような知恵を働かす男をよりによって兄に持った秀長の越し方行く末……。

 本能寺事変を誘発させ、織田の根切りを画策するなど、兄が犯した罪悪の尻拭いに終始し功績はすべて兄たる秀吉に奪われた受難の生涯……。

 山上宗二とは対極に位置しながら、秀吉という「人間を超えた存在」と向かい合うことにより形而上学的境地に達したという点では、明らかに立場の異なる宗二と同一だったのが大和大納言秀長であったと思う。

 秀吉がいかに化け物じみた悪魔的人間であったか。

そういう大それた人間を兄に持ち家臣でもあった秀長にとって忠義とは何であったのか。忠義に徹する侍でありたい。しかし、兄は主君に値するのか。家臣というだけなら、「君、君たらざれば去るべし」の行き方もあり得たろう。しかし、大政所が秀吉を後援するかぎり秀長は弟として兄に忠実でいるほかなかった。母でもある大政所の偉大さの前におのれを捨てるほかなかった。

世の中に忠ならんとして忠ならず、さればとて肉親の兄を見放すこともならず……。

秀長の病気は「公儀のことは秀長に諮り、家内のことは利休とお寧に委ねよ」と決めた大政所の老衰(七十七歳)を原因とするストレスで寿命をすり減らした結果だろう。そして、秀吉は大政所が老衰したこと、秀長が病を得たことにつけ込み、前述したように甥の秀保を仙丸に代えて養嗣子に送り込んだ。ますますストレスを募らせた秀長は小田原合戦を前にして重病の床に臥し二度と起き上がることはなかった。

こうしたシチュエーション下で天正十八年を迎え、秀吉の小田原攻めは敢行されたわけである。そして、天正十九年の秀長病死、利休横死を受けて、翌二十年、秀吉が盲愛した唯一の男子お捨こと鶴松が急死、大政所が大往生を遂げる。

淀殿がおなかを痛めたお捨を育てたのは正室のお寧すなわち北政所である。お捨の死は風邪が原因だったのだが、生母淀殿は「北政所は自分に子がないため妬んでわざと見殺しにした」と恨みを含んだと伝わる。ただし、「自分に子がないため妬んで」というのは淀殿の邪推だろう。閨房の対立は秀長が重病を発した当時、すなわち仙丸を廃嫡して秀保を継嗣に迎えた頃から始まっていたわけで、北政所がもし意図的に見殺しにしたのだとしたら「狂人秀吉」の血が伝わるのを恐れたと解釈すべきである。

なぜかというと、当時、秀長の跡を継いだ秀保が臨月の女性を見かけると腹を割いて胎児を取り出させるなど狂気の沙汰を繰り返したからである。秀保は秀吉の姉智子の三男だから秀長と血のつながった養子ではあるが、秀吉、智子と秀長は異父兄姉弟であり、つながる血は半分であった。どうやら、狂気の遺伝子は秀長の父親竹阿弥ではなく秀吉と智子の父親弥右衛門のほうにあったらしく、それゆえに兄姉のほうに「狂人」の血が遺伝したようである。

 のちに関白となった秀次も秀保が取った行状をなぞった罪状で切腹させられるが、これは詰問を担当した石田三成のデッチ上げといわれる。したがって狂気の傾向はだれにでも顕著に顕れたわけではなく、秀吉の場合はある程度自制心が働いたものと思う。

 ただし、自制心が働いたといっても、それは秀保のように極端な例と比較してのことで、大和大納言家につづいて関白秀次家まで断絶させるといった振る舞いは狂気の範疇に入るというべきである。

 外向きにもまた城を築いたり、壊したり、朝鮮掃討軍を起こすなど、すべてがおのれ一個の喜怒哀楽から発しており、天下人とは思えない振る舞いばかりが目立つ。

結局、秀吉の生涯とは何だったのだろうか。

 秀長が逝き、大政所が大往生を遂げ、最早、秀吉という人間を包み隠す帳はなくなった。世の中という奉仕する対象の何たるかを思わず、おのれ一個しか頭にない男の人生は家庭内トラブルの狭間で利己主義に徹し、心が通じ合うのは淀殿と石田三成だけというさびしさになった。それだけに何をしても、何を得ても空しく、求めるものは金山・銀山からの上がりと小田原合戦、文禄・慶長の役といった覇権のみといった具合で、欲望のはけ口が次第にエスカレートしていったのであろう。これらの出来事はすべて天正十九年の秀長の死、天正二十年の大政所の死が発端となっていると考えると、それなりに見えてくるものがあるはずである。

 関ヶ原合戦へのメッセージという観点からは、確固不抜のバイアス「豊臣善・徳川悪」が後世の史家の目を曇らせる。明治政府のプロパガンダ以外に何の根拠もないデマゴーグを信じて、白を黒といい、黒を白といいくるめるような詐欺的解説オンパレードを演じてきた。

 そもそも関ヶ原合戦とは何か。

 一つにまとまって行動したのは東軍であり、西軍はてんでにばらばら終始一貫してまとまりを欠いた。ひとり大谷吉継のみが一貫した行動を取ったわけであるが、彼は隠れ東軍である。確固不抜のバイアス「豊臣善・徳川悪」の立場からすると突拍子もない妄言として聞こえるかもしれないが、論旨は極めて明快である。それを今から宣言しておく。

 それはさておき。

 以上のことは小田原合戦当時から見るときすべて未来に起きることであるが、根はこの小田原合戦当時にある。一般論として家庭に問題を抱えた人間が目の前のことに集中できないのと原因は同じであろう。身は小田原にあり、一夜城はまだ完成しない、宗二惨殺で人望は地に堕ちた。気持ちとしては大坂に戻りたい一心なのに小早川隆景が許さない。今は一夜城の完成だけが待たれるシングルイシューの秀吉……。

 宗二惨殺をみずから演じておきながら、その返り血のすさまじさに秀吉は怯えるばかりで、家康と事を構える気力など毛筋も残っていなかった。こんなときでもというか、こんなときだからこそというべきか、本人の気力に関係なく働きだしてしまうのが、秀吉の知恵であり、その知恵の発露を悪魔的とするゆえんなのである。すなわち、悪魔的知恵の発露によりピンチがチャンスに変わったから、前に述べたごとく隆景オーライなのであり、隆景オーライだから彼と対立するのを避けて家康もオーライなのであろう。

 こんなことで説明になっているかどうか。

 まだ検証は中途である

(つづく)




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