家康は江戸城を居城と致すべし


 日本史のどこに切り口を求めたらよいのか、考証に三十年を費やして、ようやく最近になって漠然と見当がつくようになった。見当さえつけば最近はインターネットで大概のことは検索できてしまう。便利になったものである。事実の確認も同様にインターネットでできてしまうから、あとはやるかやらないかの問題だけである。

 切り口がわかれば、あとは筋道をつけるだけである。

 さて。

 籠城する氏政・氏直父子は上方軍の第三次総攻撃を鎧袖一触に退けて士気いよいよ盛んであった。そちらが茶の湯、能楽でくるならこちらはこうだとばかりに、城内の将兵に野点を奨励し、縁台を並べて囲碁将棋にうち興じさせる一方、松原神社の門前に市を開いて交易をさせ、これみよがしに祭礼を営んだくらいだから、家康の方針転換にすんなり応じるはずがなかった。

小田原評定が容易に決しなかったのは「敵兵を一人として郭内に入れたわけでもないのになぜ降伏しなければならないのか」と今なお旺盛に戦意を保っていたためである。

家康はオプション付きの交渉バリエーションに従って、北条が応じてくれぬなら仕方ないとばかりに松田憲秀と武州忍城主成田氏長に標的を定め内通させたうえで暴露する戦術に出た。

成田氏長が標的にされたのは彼が留守にしてきた忍城が石田三成の水攻めに遭って孤立していたからである。忍城が助からぬなら覚悟を据えて抵抗するのだろうが、まだ今なら助けられるという望みが心に隙を生み出した。家康は巧みにその隙を突いたわけである。

六月十六日、松田憲秀の内通を次男秀治が告発し、二十日には成田氏長の寝返りが露見して、二人とも城内に監禁された。それと並行して家康はこれまで韮山城を持ち堪えてきた北条氏規に説得工作を行っていた。

北条氏規は家康と一緒に今川家に人質となった仲である。家康が信頼するに足る人間かどうかは家臣より氏規のほうが知る機会にめぐまれていた。韮山城に拠って頑強に持ち堪えてきた氏規であったが、二十四日、あっさりと降伏勧告を受け容れ、小田原城に入って北条氏政・氏直父子を説きにかかった。それが人質時代に家康を見てきた氏規の観察の結果であり、家康が信頼するに足る人間かどうかという問いに対する答えであった。

二十六日には石垣城の天守閣が完成して前面の木立が取り払われて小田原城に向かって全容を現した。そのうえで第四次総攻撃を発令した秀吉の行動が暗喩する意味は極めて重大である。家康が送り込んだ氏規の説得工作が暗礁に乗り上げるばかりでなく、生命の保証すら危うくなった。すなわち、秀吉は氏規を使者に立てた家康の降伏勧告を知らなかったか、承諾していなかったことを意味する。

 軍務を一任されてきた小早川隆景は秀次に報告を上げていたはずだが、そこから先はわからない。隆景はあわてて秀吉に事情を説明し総攻撃の中止を申し入れたであろう。

「氏規はどうなりますか。総攻めは無意味なだけでなく、氏規に対する裏切り行為です」

「八十日もかけて築き上げた城の効果を試すのだわ。黙って見ておれ」

 秀吉は隆景の諫言をはねつけて第四次総攻撃を行った。

 北条方は一夜にして出現したかのような総石垣、天守閣つきの一夜城を見て、どう反応したか。

 関東の城郭は中世からずっと石垣を積まずに土塁で構成する土城であり、小田原城も例外ではなかった。本丸には屋形があるのみで天守閣はなく、建物の屋根は板葺きで瓦を用いていなかった。最近の発掘では平地の部分に館の遺構が発掘されたから、日常は麓の根小屋で暮らし、いくさになると山城に拠って戦った中世城郭の典型的な構成であったことがわかる。

すなわち、同じ城といっても東西の比較では天地ほどの相違があったわけである。石垣城のほうがずっと近代的で、それだけに衝撃的な出現でもあったはずなのだが、北条氏は大土塁を堅守して一兵たりと中へ踏み込ませなかった。

 第四次総攻撃に失敗した翌々日、秀吉は家康を石垣城に呼びつけて高飛車に命じた。

「家康は今後江戸城を居城と致すべし」

 当時の江戸城のようすを『落穂集』は次のように伝える。

《城内には柿葺きの建物などは一棟もなく、すべて日光削ぎ・甲州削ぎといった粉板を並べた粗末な板葺きの屋根である。台所は茅葺きで古くなり、玄関は船板を用い、板敷きの部屋はなく、すべて土間であった》

 規模も太田道灌が築城した当時のままだった。入り江の波が外郭のそばまでひた寄せ、もちろん、城下町などはなく、漁村・農村があるばかり。

 家康は自分の目で確かめないでも江戸城を落としたとき報告を受けてどの程度の城か知っていたはずである。それなのに、家康は甘んじて受けて、酒匂口の本陣へ引き揚げた。秀忠を人質に取られているし、すでに国を取り上げられたのも同然であり、反抗すればどうなるかわからない。氏規を小田原城に送り込んだ家康としては秀吉を刺激したくなかったであろう。

 第四次総攻撃にもかかわらず、なぜか氏規は無事でいて、

「いくさせんと欲しても敵は山の上の城、兵糧は海路からの輸送もあって潤沢であるし、こちらは有限。このまま座して滅び、徳川、織田まで道連れにするよりは……」

 兄の氏政を諄々と諭しつづけた。

 それに対する氏政の返事が、太田(北条)氏房による荻窪口蒲生氏郷陣地への夜襲であった。俄然、攻勢に転じたのであった。このいくさの意味が長いことわからなかった 
(つづく)




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