ついでにいってしまうと、小田原評定についてもいい加減な記述が目立つ。随筆『松屋筆記』は「北条氏直、愚将にして物に決断なく、群臣をして評議せしむれど、空しく座談のみにて、其実に用いる事能はず、遂に廃滅せり、世にこれをとりて小田原評定と云へり」と記すが、まったくの虚報で真相を伝えていない。文中の「愚将」「物に決断なく」は根拠のない著者の思い込みで、氏直が行動で見せたのは「仁知ある勇断」であった。
しからば、なぜ、北条氏は家康の降伏勧告に従ったのか。
問うべき点はそこだろう。
答えとして考えられる最大の原因が家康によって「北条氏の血の存続」が約束されたことである。戦意旺盛で目下は優勢とはいいながら一夜城の出現で干殺しになるのは時間の問題となった。一年を持ち堪えても事態が改善する材料は皆無であり、全滅目前になって降伏しても城兵を助けられるのが関の山なのだから、北条氏としても賢明な選択であった。問題は存続させる方法である。父祖以来の領国も城も失う大きな犠牲を払うからには結果として知られる以外にもっと確かな道筋が示されなければならなかった。長いリングワンデリングの結果、ようやく気づいた決定的な条件がすでに「その20」と「その21」で明らかにした「徳川将軍に北条の血を入れる」ことであった。
北条氏直は自分の死をもってすべて終わりにして欲しいと願い出たことが神妙とされ、正室が家康の二女督姫であったこともあり、高野山に蟄居させられてのち赦免を受けて関東に九千石、近江に一千石を与えられ、天正十九年、河内天野山で亡くなった。あまりにも早い死であったが、家康に旗本として仕える北条氏規の長男氏盛が氏直の養子になっていたため、養父の遺領を相続して秀吉に仕官替えし、関ヶ原合戦で家康方に復帰した。
北条氏規は家康とともに今川義元のもとで一緒に人質として暮らした仲である。早くから家康との交渉に携わり、小田原無血開城に功績があった。そのゆえをもって河内国丹南郡に二千石、文禄三年には河内国錦部郡、河内郡の加増分を加えて六千九百八十八石となった。慶長五年に氏規が亡くなると、氏盛が家督を継いで河内狭山に陣屋を置く一万一千石取りの初代藩主になった。
北条氏の血筋が氏規の子孫に取って代わられたのは氏直に子がなかったためで、氏盛が養子になったのは天正十七年のことだから、無血開城前から氏規系が正統とみなされたのだろう。これも無血開城のキーポイントの一つとみるべきである。
北条氏規の嫡男氏盛(十三歳)が小田原合戦直前の天正十七年に北条氏直系の氏直の養子になっていたという事実……。
これを踏まえて、どのように判断を下したらよいのだろうか。
氏盛が氏直の養子になったのが天正十八年なら理由はわかりやすい。十七年となると石垣山一夜城の築城計画が知られていないときで、まだ家康と北条氏の間に誤算が生じる前だけに、新たな盟約とは無関係の出来事になり、別に理由を考えなければならなくなってしまう。
しかし、この疑問を掘り起こすことができたことで、当面は可としよう。
日本史考証の現在の水準は方法論不在というほかないアバウトさである。精査すればするほど疑問がぼろぼろこぼれるように現れる。そこから改めないとウソ八百日本史の汚名はいつまで経っても拭うことはできない。それに気づく人がもっともっと増えないかぎり、わかる者にはよい笑いものである。今回、提示した疑問は私もわからないことだけに、一緒に考えていただけたら、考証の何たるか、答えを見つけたときの喜び、これまでにないものを感じ取っていただけるものと思う。
それはさておき。
小田原合戦の諸事実を踏まえることなく、北条氏が秀吉の小田原攻めで滅んだようにいわれるのはまったく事実に反する勘違いで、河内狭山藩は幕末になって養子を迎えたため直系の血筋は絶えたものの氏規を藩祖として北条氏そのものが明治維新の廃藩置県まで存続したのである。
北条氏が存続を図る試みの第二の痕跡が、お万の方とお久の方という北条氏ゆかりの二女性に見受けられるということはすでに述べた。
以上、掘り起こした背景まで加味して考えると、石垣山一夜城は秀吉にとって両刃の役割を果たしたことがわかる。
示威という点では、
「一人として兵を失わずに小田原を落としてみせる」
そのねらいに違わぬ効果を挙げたが、
「降伏する者をも絶対許さず、長陣になっても敵を干し殺しにせよ」
という皆殺しの軍令にまったく反する結果を招いてしまった。
七月六日、秀吉は仕方なく氏直の降伏を認め、脇坂安治、片桐直盛、榊原康政に小田原城を収公させた。他方、籠城の兵と民が退去し終わった翌々日の九日、氏政は氏照と城を出て医師田村安斎の屋敷に移った。
ここできた疑問を試みると、氏政と氏照の切腹は当然として理解できるのだが、わからないのは松田憲秀と大道寺政繁の切腹が追加して命じられたことである。それは七月十一日のことであった。
松田憲秀と大道寺政繁の切腹については秀吉が主君に背いたのを憎んだという解釈がもっぱらのようだが、もっともらしいウソで、本能寺事変黒幕の秀吉の場合は断じてあり得ない理由である。北条氏を無血降伏に傾かせた原因の一半が二人の行いにあるのは明らかであり、当初からこの二人のために秀吉の作戦は不利をこうむってばかりいたのだから、それゆえの腹いせとするのが自然であろう。
最終的に織田信雄を奥州に追放して箱根以西をすべて我が物にし、家康をまんまと箱根の向こう側に追いやったというのに、こういう腹いせ的な仕打ちをしてストレスを発散しなければならなかったところに、秀吉の未消化な気分がよく出ているように思う。
第五回の本講座はいよいよ次回で完結し、関ヶ原合戦の考証へと移る。