ペリー来航後の日米外交モラトリアム(その5)
これまでの公判で、アメリカとイギリスでは、対日要求の内容にかなりの隔たりがあることが事実で確認されました。もちろん、オランダとも異なります。それなのに、外国とひとくくりにして幕末史を著述してきたのが、これまでの日本史考証のスタンスでもあったように思われます。
そのためにも、踏まえるべき証拠事実の論述は複雑多岐にわたらざるを得ないわけです。本日も、長井検事による秦野裁判長の論述書代読で公判が始まりました。
幕閣を襲った掃部頭ショック
安政の政変当初のある日、江戸城内の大老部屋で、井伊直弼と老中が顔を揃えて岩瀬忠震らの帰りを待っていた。重苦しい沈黙のなかでの待機である。居合わせる三人の老中のうち、すでに二人は井伊直弼から罷免を申し渡されていた。二人のうち堀田正睦は覚悟の上の罷免であったが、井伊直弼と腹背の仲にあったもう一人の老中松平忠固は腹の虫が収まらないらしく、手にする扇子をしきりに閉じたり開いたりしていた。
堀田正睦一人を罷免したのでは、越前侯松平春嶽を大老に推したことに対する意趣返しと取られかねない。掃部頭はそれを恐れて自分を添え切りにしたのだろう。
松平忠固はおのれの罷免を、そのように受け止めていた。老中の御役を失えば、松平忠固は上田藩五万三千石のただの大名である。小身と侮って一方的に罷免してきた掃部頭のやり方を、松平忠固は深く恨みに思っていた。
ただ一人留任する久世広周は、仁君として人望の厚い人であったたが、なぜかさわらぬ神に祟りなしと口をつぐみ、あらぬ方を見つめるばかりだった。井伊直弼の粛清人事が、阿部正弘時代の自由闊達な空気から、幕閣の雰囲気を冬の時代に一変させていたのだ。
一方、井伊直弼は断固たる決意で席に臨んでいた。
今日まで一旗本に過ぎない海防掛の者どもが身分を顧みずに勝手な発言を繰り返し、あまつさえ、御政道に関与してきた。老中も、大名も、それを追認し決裁するだけ。かかる軽輩者を幕政に参与させるなどもってのほかである。これからは身分の隔てをきちっとして、緩んだ箍を締め直さねば……。
開国という一大変革期を迎え、かつて阿部正弘が目指したのは、実務的な官僚機構を構築することだったはず。しかし、今、井伊直弼が脳裏に描いているのは人物本位の実務体制とは程遠い世襲制に基づく旧来の秩序であった。
それゆえに血筋にまさる紀州侯慶福を将軍継嗣に推しているのであり、そこに世上にいわれるような私心はいささかもない、井伊直弼は心にそういい聞かせてきたし、秩序さえ保てれば国家は安泰だと固く信じて疑わなかった。
井伊直弼はガラナート弾の威力も知らなかったし、黒船艦隊が浦賀へ来たときも海防の任務より引継ぎの事務を最優先させた人である。進退自在に動く黒船を見ても格別驚きもしなかった。外国の脅威を、それほどに過小評価してきたわけである。
通商条約の調印だけを当面の目的とするハリスの穏健な文官外交も、井伊直弼のそうした感覚を助長してきたといえなくもない。黒船艦隊の後押しもなく大砲一つ持たずにやってきたハリスなどいつでも追い返せる、というのが井伊直弼のいわゆる外交感覚ではなかったか。こうした安直な先入観から、ハリスが軍艦ポーハタン号に乗って小柴沖に乗りつけたと聞いても、掃部頭は格別驚きもせず泰然自若としていることができた。
さて。
アメリカ軍艦ポーハタン号を神奈川沖に乗り入れ、文官の衣をかなぐり捨てたハリスにとっては通商の実現よりもイギリス、フランス、ロシアに先んじて条約を調印し、外交上の優位を保つのが目的だっただけに、至近距離に迫った三カ国に追い越されるくらいなら自爆も辞さない覚悟である。かつてハッタリで「重大決意」をちらつかせたペリーなどよりはるかに本気で手ごわそうであった。井伊直弼はその新手の「黒船」にどのように対処するつもりなのだろうか。
ポーハタン号上に日章旗がひるがえった
大老井伊直弼ほか老中が待ち受けるところへ、岩瀬忠震と井上清直が戻ってきて、「英仏艦隊が五日後に到着する」というハリスの言葉を告げた。二人の報告を受けても、井伊直弼は即時調印に反対し、「いったん京へ申しあげ、勅許を得てから調印する。それが順序というものだ」と主張して譲らなかった。
「まさか、そのような」
口をつぐんでいた久世広周以下、堀田正睦、松平忠固らが、色をなして井伊直弼に詰め寄った。それでも、掃部頭は考えを改めようとしない。
岩瀬忠震は危機感を欠く大老・老中の態度に業を煮やしていった。
「英仏艦隊の到着は、五日のうち、京へ使いを立てている暇などあるかないか、よくよくお考えあれ」
「差し出がましい、黙れ」
井伊直弼が岩瀬忠震を一喝した。
岩瀬忠震は憮然とする井伊直弼を差し置いて、持参したハリスの念書を堀田正睦以下の老中に回覧して訴えた。
「アメリカ使節ハリスの良心的な態度は、例外中の例外。英仏も同様とお考えあっては、取り返しのつかぬ事態を招きましょう。わが国には軍艦といえばオランダから払い下げを受けた時代遅れの旧式な帆走船一隻あるのみ。数多くの軍艦と大砲に物いわせて、英仏が無体理不尽な要求を突きつけてきた場合、いかに対処なされるおつもりか。良心的なアメリカと組むのが得策か、それとも英仏に先駆けて、年来の友たるアメリカと事を構えるのが得策か」
訳文つきのハリスの念書が老中三人の手を経て井伊直弼の手元に届いた。井伊直弼はハリスの念書にじっと目を落としたまま別の考えにとらわれていく。
許せぬ、軽輩者の分際で……。
一旗本に過ぎない岩瀬忠震が、しかも、まだ岩瀬家の当主ともなっていない養嗣子の身でありながら、大老、老中に意見する。これこそ天下の一大事……。
今日流のいい方をすれば、これが井伊直弼の人権感覚なのである。それでも怒りを堪えているのは、岩瀬忠震をハリス以下諸外国使節との今後の折衝に欠かせない男だと思うからである。
「外交の責任者たる備中殿のご意見は」
気まずい沈黙に堪えかねたように、久世広周が堀田正睦に発言を求めた。
「手前など敗軍の将にすぎないから……」
堀田正睦は岩瀬忠震が即時調印に踏み切るはずだと信じていた。適当なことをいって、ちらと井伊直弼を見、口もとに皮肉な笑みを漂わせた。
松平忠固が嫌味たっぷりに、井伊直弼に向かって口を開いた。
「一朝有事のときに、京の長袖連の言い分など聞いていてはきりがありますまい。この際、独断専行しなければ、何のための幕閣であろうか」
「黙らっしゃい。恐れ多くも朝廷に対し奉る事柄に、伊賀ごとき小身者が口を挟むべきではない」
大老井伊直弼の彦根三十五万石に対して、明日にも老中を罷免される予定の松平伊賀守忠固は上田五万三千石。三十五万石とただの五万石では意見の重みが違う、ましてや自分は大老なのだから何でも出来る、というのが井伊直弼の日常的な感覚であった。まだ論議は尽くされていないというのに、井伊直弼は大老の権威を振りかざして断を下し、岩瀬忠震と井上清直に命じた。
「そのほうら、直ちに交渉の場に赴き、極力、調印の延期に努めよ」
堀田正睦も、久世広周も、松平忠固も唖然とした。
かつてハリスに六十日の延期を交渉した経験を持つ井上清直が、井伊直弼にそれとなく伺いを立てた。
「その旨をもって極力努めますが、ハリスが何としても聞き入れぬ場合は、いかが計らいましょうや」
「むむ、そのときは……」
井伊直弼は過去の例から井上清直ならうまくやると信じていたから、そういったきりあとの言葉を喉の奥に呑み下した。
調印延期か、即時調印か。
二者択一を迫られた幕府全権委員井上信濃守清直は、井伊大老に海防掛から左遷された川路聖謨の実弟である。明日は弟であり下田奉行でもある我が身と追い詰められていたのは確かだが、岩瀬忠震が決断した即時調印に同調したのは、やはり国益優先の考えからだろう。
国際情勢に照らしてみるとき、井伊直弼の大老就任は国家を危殆に導くものにほかならなかった。最早、幕府に明日なし。幕府を存続させるなら井伊大老を除く非常手段しかあり得ない。
その危機感が一気に国家観念、国益観念を井上清直に植えつけ、「幕府のためではなく国家のため」と説く岩瀬忠震に同調させたに違いなかった。
内乱を回避して幕府を守ることよりも、対米戦争で国家が滅亡するのを防ぐことこそ先決の問題。国家を思い、幕府を捨て、我が身を顧みず即時調印することこそ間接的ながら、大老井伊直弼を失脚に導く妙策でもあった。
安政五(一八五八)年六月十九日、幕府全権委員岩瀬忠震と井上清直、神奈川沖でハリスと日米通商条約に調印……。
伝え聞いて、井伊直弼は茫然自失して、思わずつぶやいた。
「案外早々の調印、少子も呆れそうろう」
条約という形式はこうして完成形を調えたわけであるが、条約の精神という観点からは、マンハッタン号の来日当時のものではなかった。人間はなぜあのように和し、なぜこのように対立するのだろうか。
歴史の流れに棹さした大老
水戸斉昭の開国論への豹変が意味するのは、尊王主義の立場から紅毛人を毛嫌いする孝明天皇に気兼ねしただけの名目的な攘夷論になったという事実、あるいは、二宮金次郎やジョン万次郎が政治の枢機に関与し、めざましい働きをするのを快く思わない人物が、溜間詰筆頭井伊掃部頭直弼だったという事実、さらには水戸斉昭と井伊直弼は将軍継嗣問題で対立し、犬猿の仲であったという事実。こうした事実に反する事実として、井伊直弼を開明的と評する歴史小説家がいるという事実を含めると、まるで整合性を欠いてしまう。
井伊直弼を開明的とする根拠は何なのか。
だれかが証明しないといけないのだが、横浜市教育委員会の副読本などは何の根拠もなく、「井伊直弼は開国論者」としてしまっている。
ただし、はっきりしていることは、幕藩体制を強化する方針の井伊直弼にとって農民や漁民上がりの者が政治の枢機に関与すること自体、重大な処士横議の禁令違反であり、副将軍家出身の一橋慶喜が将軍継嗣に推されるのは容認しがたい慣例打破であった。直弼は斉昭が右といえば左を主張するほどだったから、相手が開国論に転じたなら、こちらは攘夷論に乗り換えるまで。理屈ではないから、井伊直弼はそういう人と理解するしかないであろう。
さて。
このような人物が一部で「横浜開港の恩人」といわれるのは年表に「幕府大老井伊直弼、日米友好通商条約に調印」と記録されることが多いためであろう。
実際には井伊直弼は条約の調印延期を命令し、それに背いて調印した幕府全権岩瀬忠震、井上清直らを安政大獄で幕閣から追放したのである。年表の記述は事実に反するが、公式行事は最高責任者を主催者とし主語に用いるのが慣例だから、あながち誤記とはいえない。
年表式記述の誤記は、むしろ、桜田門外ノ変で、「水戸浪人、桜田門外で幕府大老井伊直弼を暗殺」とある点だ。これは幕府の公式記録に反する。公式には桜田門外ノ変などなかったのだから。
万延元年三月三日、水戸浪士十六人と薩摩浪士一人が桜田門外で彦根藩主井伊直弼の行列を襲撃、暗殺に成功したのは紛れもない事実である。だが、並みの大名の暗殺でさえ家中全体の恥とされ、改易は免れなかった。幕府大老となればなおさらである。
幕府大老暗殺者を出した水戸藩も処罰は必至。だが、譜代雄藩と副将軍家を改易したら幕府の屋台骨がゆらぐ。時の老中安藤信正は咄嗟の機転で井伊直弼を病死として扱い、発表を遅らせたうえで彦根藩の家老に家督の手続きを取らせた。もちろん、水戸藩は不問である。これが公式記録上の事実。
通商条約調印に待ったをかけ、調印を強行した全権大使を罰した人間を公式記録に合わせて「調印者」とする年表が、井伊直弼暗殺では公式記録を無視する奇怪さ……。
大老になってからの井伊直弼は安政大獄以外ほとんど何もしなかった。事実は日本を開国に導いた阿倍正弘、堀田正睦を徹底して憎み、徳川家康が江戸に開府した当時の強固な幕藩体制に戻そうとしただけ。もし、井伊直弼が暗殺されなかったら、開国は一時の方便でしかなくなって、やがては横浜鎖港を経て、日本は鎖国のむかしに戻っていただろうといわれる。
長井検事の代読が終わりました。
「読んでみて、どのように思うか、是非とも長井検察官の感想を聞きたい」
秦野裁判長が待ち受けたように質問しました。
「日本史の考証ノウハウというものが顧みられなかった一つの証左であると思います。その代表例が和同開珎銭の和銅元年初鋳説です。和同開珎銭の《和同》と和銅元年の《和銅》と混同して、和銅元年に初めて鋳造したという記事を鵜呑みにして、《和銅元年初鋳説》という教科書定説をデッチ上げてしまいました。銭銘の《和同》に対応させるとしたら、天武天皇の吉野の誓いの「和同の精神」が説明上からも合理的だし、『記紀』には、銅銭・銀銭を問わず、固有名詞を使わないのが通例であること、過去に同じ行為が何回か行われていても、《同じ年号では初めて》という意味で《初めて》と書くことなどの癖がわかっていたら、和同開珎銭の《和銅元年初鋳説》など思いつくことすらなかったのです。これなどは踏まえるべき知識・ノウハウというべきで、あらかじめ広く知らせる必要があるのですが、教科書定説を変えるとなると、一時的にダブルスタンダードの弊害が大きく、なかなか踏み切れないし、関係する著書が破棄の憂き目に遭うことから、なかなか実現しないようです。学問とは真実の探求と思いましたが、お山の大将をトップと仰ぐ予定調和の世界だったんですね。下手に真実を述べようものなら、《日本史に対する冒涜だ》と非難されてしまうのですから、処置なしです。好意的に見たとしても、ほとんど勘頼みの考証が行われてきたといえるのではないでしょうか」
「そのことは、一度、しっかり審理にかけんといかん問題だな。いずれ、折を見てやろうじゃないか。本日は、これにて閉廷」
