真実はわからないが、事実を踏まえた解釈上の正誤の判定は可能


 
 第六回エンタメ講座は今回で終わる。現状の日本史を犯罪捜査の世界に置き換えると、司馬遼太郎さんからして「百人いたら百通りの解釈が生まれる」とあたかもそれが当然であるかのようにおっしゃっておられるそうだし、いまさら正誤の判定は不可能だという向きもおられるようだから、まず刑法がない状態に等しい。真実はわからないとしても、事実を踏まえた解釈上の正誤の判定は可能であるから、すなわち、司馬さんはじめ現状肯定派の人たちは刑法がないといっているに等しいわけである。ついでに説明すると、刑法の目的は法に背く者を摘発し裁くのが目的であり、正義の人、無罪の人を証明することは最初から度外視している。こういえば既存の日本史解釈の構造的瑕疵がよくおわかりいただけると思う。
 次に摘発された事案は、まだ無罪の案件である。有罪とするからには証拠を探してきて裏づけなければならない。その訴訟手続を検察側を弾劾的視点からインチキなしに進めるよういろんな制約を課したのが刑事訴訟法である。踏まえるべき事実を踏まえようともしないで、既存の解釈を変更しないで使いまわすがごとき詐術は、さしずめ悪徳検察官に擬せられよう。
 とにかく、やっていることが滅茶苦茶、これまで述べてきただけでも、既存の解釈はもちろんのこと、日本史と向き合う姿勢が姿勢の体をなしていないことははっきりしているといって差し支えない。
 結局、私が訴えたいのは「私の解釈」ではなく、「解釈の間違いは証拠とすべき事実に照らせば正誤の判定はつくのだから、最低限のマナーとしてそれをやって欲しい」ということなのである。
 第六回講座の締めとして、私が新人物往来社の依頼で『歴史読本』大谷吉継特集に寄稿した文章である。読物とされてしまったが、架空の人物など一人として登場しない、すべて事実を踏まえた解釈である。事実が語るまま耳を傾けて、表現のみ小説風にした。

 大谷刑部吉継が手勢六百を従えて北国街道を笹尾山の麓にさしかかったとき、藤堂高虎の養子高吉、従兄弟の高刑、玄蕃の三人が出迎えた。高虎の名代としてまたとない顔ぶれであった。
 大和大納言秀長卿存命のみぎり、大納言家の跡継ぎに迎えられた当時仙丸を名乗った高吉は丹羽長秀の三男、高虎は家老、島左近勝猛が侍大将であった。外向きは秀長、内向きは千利休か北政所と決め、小早川隆景が脇侍となって暴君秀吉の手綱をがっちり押さえ、「武士は鬼庭(戦場)にあろうとも仁愛を忘れてはならぬ。仁愛なき才知はいかに非凡なりとも曲事なるべし」の精神で豊臣の治世に血を通わせたのだが、秀吉が姉智子の子秀保を継嗣にせよと押しつけたため豊臣本家と大納言家が手切れ寸前までいってしまった。
 秀長が仙丸を養子に迎えたのは、人間的に見所があるからであったが、織田家の跡継ぎを決める清洲会議に先立ち、秀吉が宿老丹羽長秀を自分の味方につけるため独断で約束した結果でもあった。そう仕向けた秀吉が姉の子とはいいながら人間のぶっこわれにも等しい従弟のために今度は反故にせよというのだから、さすがに温厚な秀長も激怒した。
 そこで、本家側が吉継、大納言家が高虎を立てて仲裁を協議、資質の観点から凶暴性のある秀保を忌避する方向で決着を図ろうとすると、仙丸の命がねらわれだしたため不本意ながら秀保を大納言家の嗣子とし、仙丸は高虎が養子に引き取って決着を図らざるを得なかった。二人して仙丸継嗣の可能性の芽を摘み取った恰好だが、そうでもしなければ高吉を名乗る人間は存在しなかったのだ。その高吉の名も高虎と吉継から一字ずつ与えたものであったから、彼に対する二人の思い入れの程度をうかがい知ることができる。
 秀長亡きあと、家督を継いだ秀保は妊婦の腹を割いて胎児を取り出させたり、農民を罪なく手討ちにしたりと暴虐のかぎりを尽くした挙句、十七歳のとき十津川で舟遊びをしているさなか非業の死を遂げた。秀保に子なきため大和大納言家は断絶、高虎は左近と語らって高野山に籠もり、以後、やたらな主持ちはすまいと二人して肝に銘じていた。その二人を口説いて、高虎を豊臣家に帰参させ、左近を三成に斡旋したのが吉継であった。太閤殿下に強要されて断れなかったとは申しながら、希代の仁将と好漢を破廉恥な暴君とそのへつらい者に割り振ってしまった罪は重く、取り返しのつかない失態であった。
 以上のごとく、吉継は二人の運命の転機に二度も関与し、仙丸君すなわち高吉の行く末にまで大きな影響を与えたのである。
「ご立派になられましたな」
 吉継が昔を偲び苦い思いを蘇らせながら声をかけると、高吉が姿勢を正していった。
「手前、主人より、今にして刑部様こそ命の恩人と明かされ、あらためて感謝の思いをお伝えせんと罷り越しましてござる」
「ごあいさつ痛み入る」
 仙丸継嗣で押し通していたら大和大納言家は存続したのだ。仙丸君はさぞかしわしを恨んでおろうと思って気にかけていた吉継だけに、高吉の鄭重な謝辞に接してほっとした。敵味方に袂を分かつた今、滅びゆく身の心残りを一つでもなくしてやろうという情誼に厚い高虎ならではの配慮であろう。吉継は目頭が熱くなった。
「して、御使者の御口上は?」
「直ちに関ヶ原よりお引き取り願い、敦賀にて養生専一にお過ごしくださるように、主人高虎はかように望んでおります」
「折角のお心遣いなれどご無用に願いたい」
「しからば何故の変心にござりましょうや。恐らく本意ではなかろうから、せめてもご趣意を承って参れ、主人高虎よりかように申しつかって参りましてござる」
 さすがに高虎は吉継の胸のうちを的確に見透かしていた。
「いかにも本意ならず」
 つい先頃味わったばかりの苦い思いが、吉継の胸にこみ上げた。

 今にして思えば垂井宿に嫡男重家を待たせるという約束を違え、迎えを遣れば逆に佐和山城へ来いという、そのことからしておかしな話であったが、左近を人質に取られたのも同然の弱みから吉継は仕方なく出向いた。すると臆面もなく家康を討つべく挙兵するから合力せよという。
「無謀なり。豊臣の天下は大和大納言秀長卿ご存命のときまで。以後、太閤殿下は利休を殺し、関白秀次卿を粛清、眷属まで惨殺、無益な朝鮮渡海を二度も行って世の中を疲弊させた。殿下はおのれ一人の栄耀栄華を恣にする暴君にすぎなかったし、臨終の際、権力に妄執する姿は見苦しいというほかなかったと聞く。君、君たらざれば臣去る。まして貴殿のようなへいかい(横柄)者が太閤の威を借りて采配を揮っては、豊臣恩顧の者といえども内府殿になびくのは当然。いまさら天下の流れに棹さしてどうするつもりか」
「どうあっても合力できぬと仰せか」
「否とよ。無益よと、諌めておるのじゃ」
 家康を討つなら左近が主張したように軍勢を送って石部宿に寝込みを襲うべきだった。しかるに、ここぞというときほど左近の忠言に耳をかさずに機を逸し、あまつさえ、その舌の根も乾かないうちに天下を揺るがせてまで家康を討つべしという。
 吉継は一旦垂井宿に帰ったが、左近が気の毒でならなかった。平塚為広を佐和山城に遣って四日かけて説かせたが、やはり埒が明かない。吉継は再び佐和山城へ行き、今度は左近の胸の扉を直に叩いた。
「治部少に真に上様のお為を思う気持ちがあるなら逆臣の汚名を蒙ってでも石部宿に内府殿を襲うべきであった。しかし、かの御仁は大義名分が何より大事という。君、君たらざれば臣去るべし。すでに治部少を見限っておりながらなぜ去らぬ」
 左近が吉継を恨めしげに見つめた。
「今度は去れと申されるか……」
 吉継は錐を揉み込まれでもしたような痛みを胸に覚えた。三成に仕官するよう左近に勧めたのは吉継なのである。左近も吉継のように高虎や直江兼続と肩を並べて密度濃く交わりたかったのだ。しかし、あの頃の三成は見所がありそうに見えた。結局、見たくれだけの張子の虎とわかったのだが、あの兼続でさえ最初は騙されかけた。三成が吉継を誘うのは兼続と親しいからであり、兼続と連絡を取りたい一心からなのであろう。
 左近がつづけていった。
「それがしは内府を殺そうとして石部宿を襲った男。内府の天下になったら居場所を失う点では殿と同じ穴のむじな。毒を喰らわば皿までも、かくなるうえは一蓮托生、君、君たらずとも、臣、臣たるべく振舞うのみ。苦衷のわが胸お察しくださるべし」
 吉継はまたしても痛棒を喰らった思いがした。高虎は家康という主君にめぐまれ、前途洋々。それに引き換え左近はどうか。どちらへの義理が重いかは問うまでもなく、責めを負う観点からいって断然左近であろう。
「心ないことを申して相すまぬ。せめてものお詫びに、及ばずながら合力せん」
 吉継が苦渋の決断を下すと、左近の顔が一度に輝いた。
「おお、お味方くださるか」
「滅び行くもののふへの哀憐。それがしなどは真っ先に体から朽ち果てようとする者、冥土への土産に上杉と徳川の仲を斡旋しようと思い立ったが、かくなるうえは是非もなし。滅びゆく者同士気持ちを通わせないでは、たとえ死に花といえども咲くに咲けまい」
 猛将と謳われた島左近が落涙して頬を濡らしながら四男清正を呼び寄せて命じた。
「たった今、汝はわが身を擲ち、これより刑部様の目となり、手足となって、不惜身命の覚悟にてご奉公せよ」
 吉継もまた「持つべきは心契の友」と頬を濡らし、即日、三成に面会して談判した。
 会津討伐軍に加わることを約したそれがしが表立って東軍方主力と戦っては名分が立たない、北国口の固めを受け持たせて貰う。
 次に大老毛利殿を大坂城に迎えることは不可なり。会津討伐の名義人である上様に代理人を裏切らせることになり、万一、負けたときは末をよくしない。天下取りの名分のみか豊臣家を滅ぼす口実まで家康に与えてしまうであろうから、真に上様のお為を思うなら率先して逆賊の汚名を着る覚悟で臨むべし。
 第一の条件はすんなり通ったが、次の条件については「勝てば問題なかろう」と嘯いて、三成はとうとう聞き入れなかった。

 三成に味方したというほかない経緯であるが、彼に対する友情に殉じたなどという事実無根の噂を立てられたままでは死ぬに死ねない。それも大きな心残りであっただけに、この際、高吉に真実を告げて高虎に後事に託そう、吉継はそう思い定めると側近の湯浅五助と島清正を従え竹輿に乗って高吉に導かれるまま笹尾山中腹の削平地に設けられた休息所へ行き、一部始終を語って聞かせた。
「滅び行くもののふへの哀憐、手前主人も同断にござれば、ご照覧あれ」
 高吉は聞いている間に涙で濡れた目尻をそっと拭いながら、目で高刑と玄蕃にうながした。二人が削平地前面の草原に積み上げられた枯れ草や柴を取り除くと塹壕が現れた。馬防柵に用いる大量の丸太や竹、挙句、五門の大砲まであった。次いで高吉は待機させた土地の百姓を呼んで証言させた。
 百姓がいうには、近江へ出稼ぎに出たとき佐和山城から来た侍に好条件で人足に駆りだされ、当地で働かせられたのだが、途中で腹具合がおかしくなり、そっと抜け出して我が家で寝込んでいる間に普請が終わっていて、起き出して来たときはだれもいなかった。そこで働いた分の賃金を貰おうと近江へ舞い戻って仲間を訪ねたところ、全員、あれ以来消息が知れないと聞き、身に危険を感じて逃げ帰ったのだという。
「治部少は去る二十六日より大垣城を留守にして佐和山城へ行き、昨日、戻ったる由。その間、六日あまり、だれぞの仕業か、あえて申すまでもござりますまい。これから大垣まで参られてまた関ヶ原に引き返すのもお気の毒ゆえご披露仕った次第」
 吉継は心の中で高虎と高吉に感謝しながら関ヶ原に目を凝らし、かつて武州忍城攻めの際に三成が見せた押付(陣構え)を重ねるように思い浮かべた。三成は備中高松城を水攻めした秀吉の戦術を真似たつもりだったのだが、荒川の洪水に慣れた忍城の将兵は「お陰で攻撃を免れた」とかえって安堵し、三成に失笑を浴びせかけた。今度は長篠の再現を策したのだろうが、家康が雨の日を選んで攻めたら関ヶ原変じて桶狭間ではないか。
 信長は鉄砲隊を三列横隊に用いる長篠の戦術が雨に弱点を持つと認識していたから晴れ間がつづきそうな時期を待って進軍したのである。いつになくのろくさした応援ぶりに家康がいらいらしたほど信長は雨を警戒した。あの家康がこの陣城の支度を発見した以上、雨天を利用しないはずがない。結果、西軍必勝のいくさは敗北必至に一変してしまう。
 内府に勝てると豪語した方策が長篠合戦の模倣とは、治部少め、またしても……。
 吉継にはいずれ来るべき合戦の帰趨が今からもう見えてしまった。だが、いまさら引き返せない。左近と一蓮托生、せめても名を立て死に花を咲かせるのみ。
「仙丸君に問う。激戦の地はいずこなりや」
 吉継にせがまれて高吉は考えた。病のため畳の上で朽ち果てるより戦場で死に花を咲かすほうが武士として本望だろう。教えてあげたいが、そこには脇坂安治らを布陣させることになっている。しかも、内応の約束を取り付けたのは高吉本人なのだ。命の恩人の吉継がそこに陣取ったらどうなるか。軍事上の守秘義務と滅びゆく恩人への哀憐の情の板挟みになって思い戸惑う高吉。さもありなんとその心中を察し、吉継は清正に問い質した。
「汝の父はこれを知るや」
 三成が陣城を築くことを左近が知ったら一命を賭して反対したはずである。反対していないのは知らないでいるからだ。
「滅相もござりませぬ。そのような父かどうか、ご賢察願わしゅう存じます」
 父親をよく知る清正が驚愕の色を浮かべて否定すると、吉継は高吉を返り見ていった。
「近江石部宿の一件で左近は治部少を見限った。それゆえ清正を名代としてわしに付けたものと思われる。不本意な押付で戦うことになるだろう左近などは放っておいて、われと清正を相手に勝敗を決せられるべし」
 刑部殿と左近殿がそこまで示し合わせているなら、最早、余計な斟酌は無用。高吉はそう決意して声高らかに告げた。
「激戦の地は藤川台にこれあり候」
 高吉はこの人を信じ君命なくも情理に従って答えんと自分なりに断を下し、併せてそうすることで吉継に対する誤解など微塵もないことを告げたのであった。吉継は高吉の英断に感謝し清々しい気持ちで別辞を述べた。
「仙丸君に謝す。されば、藤川台にて再びまみえん」
「あいや、折角のお言葉なれど、主人高虎、それがしにとりましてまこと意に反するなりゆきなれば、その節はこれなる二人が名代としてお相手仕るでありましょう」
 高吉に引き合わされ、高刑と玄蕃が吉継に目礼を送った。吉継が言葉短く答礼した。
「されば、これにて。さらば……」
 碧空の下の関ヶ原、手勢を従え竹輿に乗って遠ざかる吉継の姿にも、それを見送る藤堂高吉、高刑、玄蕃の姿にも、秋の日差しがやわらかく降り注いだ。

 大谷勢が中山道山中村の藤川台に布陣したのは慶長五年九月二日、翌日には脇坂安治らが松尾山の麓に到着して布陣した。それから十日あまり、藤川台松尾山側に馬防柵を結いまわし、四方に斥候を放って警戒の目を行き届かせるうちに、土地の者が雨を予告した十四日昼、近江方面に放った斥候から小早川秀秋の手勢一万六千が松尾山南麓の間道に入ったと報告が入った。なのになぜか吉継は妙に落ち着き払っていった。
「松尾山方向に馬防柵を設けたことさえ憚られる。このうえ筑前中納言の進軍を妨げたりせば仙丸君に対し義理が立たぬ。もとより覚悟のうえのことなれば静観すべし」
 帷幄が驚いて諌めかけると、吉継は手を挙げて制し、しみじみと述懐した。
「死病を得て初めて啓ける境地がある。死から逃れられぬと諦めたとき、今生の生が燦然と輝き始めた。これから何が起きようともわしに悔いはないが、汝らまで巻き添えにするにしのびない。君、君たらざれば臣去るべしという。こたびのいくさも例外ではなく、めいめい名を立つるべくめいめいそれぞれに戦い、よき折を見計らって退身せよ」
 そういって辞世を披露した。
 契りあらば六つの岐に待てしばし
 後れ先立つことはありとも
 先立つ者、後れる者、落ち合う場所は六道の辻と吉継はそれとなく伝えたのだが、帷幄から一人として去ろうとする者はなく、来世まで主従の契りを交わして泣かぬ者もなく、夕刻より降り出した雨がやがてもたらすであろう何かを心静かに待ち受けた。

 夜半を過ぎて日付が十五日に変わった頃、伊勢路から笹尾山方向へ雨中の闇に紛れ鳴りを顰めて関ヶ原を横切って行く石田隊を斥候が確認した。さらに三時間ほどのち、宇喜多秀家隊が藤川を隔てた天満山の裾に布陣すると、ぶらりと立ち寄ったという感じで正木左兵衛が吉継を訪ねてきた。正木左兵衛は世を忍ぶ仮の名、本名本多弥八郎政重、家康の懐刀佐渡守正信の次男である。吉継は仰天し、取り乱し、激しく罵った。
「こ、この何たるうつけ、大たわけ!」
 達観した吉継の姿に接したばかりの帷幄の者はみな驚いた。だが、吉継が取り乱すからには相応の理由があった。本多佐渡の口利きで直江兼続が女婿として迎える約束になっているのがこの男なのだ。吉継はその含みで家来に迎え、宇喜多家にはこちらが好きなとき退身させる約束で貸しただけなのである。だから、関ヶ原以後も上杉家を温存させる切り札左兵衛の処遇について、吉継は兼続に対して重い責任を負っているわけだ。
「やれ、汝、退身せよと申し送ったに、立場もわきまえず何しに参ったるか」
 いくら罵っても罵り足りないという勢いで毒づく吉継に対し、左兵衛は不思議そうな面持ちで平然と嘯いた。
「本来のご主君刑部様を心よりお慕い申しあげ、なおかつ滅びゆくもののふへの哀切の情もだしがたく、やって参ったまで」
 文句あるかといわんばかりの口ぶりだが、吉継は妙に得心がいった。兼続の女婿になる身だから西軍に属して当然などとわけ知り顔をしようものなら張り倒してやるのだが、左兵衛にその思いがあるなら上杉の戦後はまず心配ないと思った。しかし、左兵衛が上杉家温存の切り札として役立つには無事が必須の条件だ。関ヶ原から無事に立ち退かせるなら今しかないのだが、戦わずに退転すれば卑怯者になるし、何より本人が応じまい。無類に調停好きの仁将大谷刑部吉継は左兵衛の無事を確保すべく、今、ここに鬼神と化した。

 関ヶ原の合戦がいつどのように始まり、西軍のだれがよく健闘し、だれが裏切り、だれが傍観を決め込んだか、最早、詳しく述べる必要はないであろう。十四日雨の予報を合図にして家康が赤坂岡山の本陣に入り、同時に小早川秀秋が松尾山砦を占拠したのがすべてだ。そうと知った三成が慌てて関ヶ原へ深夜の強行軍を発令し、三時間も先着した石田隊だけが笹尾山に陣城を築いた用意周到さが彼の本心を暴露、西軍の結束をたちどころに失わせたのが傍観者を多く出すに至った原因である。加えて雨と闇に紛れて西軍の間近に迫った東軍が各所で白兵戦を仕掛け、三成苦心の陣城と三段の鉄砲陣を陳腐化させてしまった。左近は今こそ三成と決別、才人を気取った「へいかい者」から解放される喜びを噛み締めつつ陣城を出て、快哉の鬨をあげ、眼前の敵に襲い掛かっていった。
 宇喜多隊が布陣する天満山では左兵衛と明石全登が槍衾を連ねさせて福島隊と互角に渡り合い、一進一退を繰り返していた。
 藤堂高虎はその福島隊の右翼後方に布陣していた。藤堂隊が藤川台に進撃を開始するには福島隊の隊列が妨げになるから、後方に進路が空くのを待っているのだ。「それがしは大谷家の軍奉行島清正なり。わが目の前にて戦いを決せられよ」
 島清正の大音声であった。高虎と高吉は顔を見合わせて莞爾とした。二人は清正の声を介して左近の心の叫びを聞いたのだ。左近の生前の遺志、確と聞き届けたぞ、高虎はわが胸にそう呼びかけて欣然と号令した。
「めざす相手は大谷勢、攻め向かう場所は藤川台、脇目を振るな。者共、かかれっ」
 高虎の下知を受けて、高吉は高刑と玄蕃に意趣を含め、藤川台へ駆け向かわせた。
 福島隊が前進して生じた空間に単騎で佇む清正にまず玄蕃が突っかけ、玄蕃が清正に討ち取られて首級を授けると、従者高木平三郎が清正を倒して主人の首を取り返した。されば玄蕃と清正の分までと高刑が先頭に立って突撃を開始した。

 清正の最期を見届けて、吉継は心の中で左近に両手を合わせつつ、松尾山を下って攻めかかった小早川隊を山頂近くまで押し戻し、反転して宇喜多隊へ応援に向かい、秀家に直談判して左兵衛を強引に連れ戻したうえで、あらためて藤堂隊に挑みかかった。
「見参、見参、我は大谷刑部吉継なり」
「おうっ!」
 高刑が吼えるように応じて、松尾山から再び駆け下った小早川勢、東軍に寝返った脇坂安治ら、大谷隊を横合いから攻め立て始めた味方めがけて馳せ向かい、高吉からいい含められた通り両軍の間に楔を打ち込むように割り込んで戦闘を遮断してしまった。
「われらが武人の鑑、刑部様に道を開けよ」
 鳶に油揚げをさらわれる類のなりゆきであるが、そこはそれ、内応の手引きをした高虎の従兄弟高刑の号令とあって、さしもの秀秋も安治も従うほかなかった。高刑はそれをよいことに、不意を受けて討ち減らされた大谷勢をおのれの率いる軍勢で包み込み、遮二無二、いくさの圏外へと押し出し、森の奥に平地を見つけると、わずかな人数で固める吉継主従からわざと距離を置いて包囲の輪を広げつつ味方に号令した。
「敵は輪の外にあり。確と備えよ」
 大谷残党を囲む輪が遠く大きく外に向かって広がるのを見届けてから、高刑は馬を降りて片膝を突き、吉継に口上を述べた。
「主人高虎ならびに高吉になり代わって申しあげる。小早川、脇坂らの内応は関ヶ原以前よりのこと、藤川台に布陣をお勧めするとき内心ためらわれたが、かくすれば申し開きもお詫びも成り立つであろうと、かねてより心がけて参った。刑部殿の末期の御作法、これにて検分申しあげる。存分に召されたし」
 高吉の誤解も解け、西軍に与した本当の動機は彼に打ち明けた。大輪の死に花を咲かすべく支度もここに調った。すべて高虎・高吉父子の温情ある計らいである。見えない力が働く筋書きに従いでもするかのように、吉継は淡々と左兵衛を間近に招き諄々と諭した。
「真のもののふは名のみに生きるにあらず、後生に願って死ぬものなり。まして明日ある汝においておや」
 吉継が左兵衛に遺言代わりに説いたのは、世の不都合を一身に引き受けて決して明日に先送りせず常に後世のためを図って今を生きよとする処世訓であった。左兵衛が黙ってうなずくのを見て、吉継は高刑に懇願した。
「思い残すことはただ一つ会津殿の処遇でござったが、左兵衛さえ無事なら佐渡殿がよきに計らうて下さろう。最早、今生への未練は微塵もなし。それがしの素っ首と引き換えに左兵衛の身柄を預かって下さらぬか」
「あいや、しばらく。折角ではござるが」
 すかさず五助が割って入った。
「必ず人目につかぬ場所に首を埋めよと主人より申しつかってござる。ここはそれがしの首で代えられたく、何卒、ご配慮賜りたし」
 高刑はもとよりそのつもりであった。高吉から高虎の厳命として吉継の首級だけは余人に取らせてはならぬし、みずから持ち帰ってもならぬといい含められてきた。左兵衛の身柄まで得られたのは望外の収穫である。高刑は返事に代えてくるりと背を向けた。
 吉継は高刑のその後姿に一礼して、あらためて辞世を口ずさんだ。
「契りあらば六つの岐に待てしばし後れ先立つことはありとも」
 六道の辻で待つ相手に島左近・清正父子が含まれているのはいうまでもなかった。関ヶ原に沛然と雨が降り注いだのは、吉継が藤川台に大輪の死に花を咲かせてより半刻ほどしてからのことであった
 

(第6回日本史エンタメ講座・完)




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