第七回日本史エンタメ講座を「小早川秀秋の目に映った関ヶ原合戦」というコンセプトで開講するにあたり、まず、ごあいさつ申し上げます。
さて。
私の場合、日本史の考証の始まりは専門書を手がけるある出版社から「日本貨幣史考」を書くようにいわれたのが最初でした。私が時代小説家として文壇にデビューするのは平成12年のことですから、当時はまだフリーライター、マーケティングコンサルタントとしてわけのわからないことをやっている時期でした。しかしながら、バブル景気最盛期の当時、出版界は本をつくれば売れたときでしたので、原稿料100万円の前渡しというめぐまれた条件で真剣に取り組みました。あえて真剣というのは教科書定説の「和同銭和銅元年初鋳説」のほかに、『日本書紀』天武十二年(文部省年表では天武十一年・六八三年)四月条に銀と銀銭・銅銭に関する二つの記述、すなわち「詔して曰く、今より以後、必ず銅銭を用いよ、銀銭を用いることなかれ」「詔して曰く、銀を用いること止むることなかれ」にいう「銀銭」と「銅銭」を和同銭とみなし、同年中の初鋳とする「古和同説」があり、平成12年の富本銭大量出土を待つまでもなく、明らかに「古和同説」に軍配が挙がることがわかったためでした。
私は大学まで一番の興味は世界史にあり、なかでも大塚久雄博士の『近代欧州経済史序説』をゼミのテキストに用いて大航海時代の幕開けがコショウ貿易にあると知ったときの驚きが、そのまま歴史を見る眼となった経緯があり、実証による方法論的考察に磨きをかけるべく努力を重ねておりました。が、日本史に関してはまったくの門外漢でした。貨幣史というかたちでまさか日本史に触ることになろうとは夢にも思わなかったのです。
結局、日本史初心者の私は自分の能力に不安があったのが真剣になった理由の一つで、もう一つの理由が、そういう私が教科書定説と古和同説を判定しなければならなかったということでした。もちろん、両論併記は常識ですが、筆者としての見解を示さなければなりません。
しからば、どうすればよいか。
事実に語ってもらう。事実に教わる。そのためには事実を幅広く捜し求める。このことに徹すれば、私見ではなくなるだろうから、監修者から文句をつけられることはないだろうと思い、真正面から取り組んだのです。私が執筆のための考証に真剣に取り組んだ三つ目の理由がそこにあります。
しかし、結果は無残でした。
「門外漢の癖にこのような原稿を書くのはおこがましい」
以上の理由で監修そのものを拒否されて、出版は取りやめになってしまいました。もちろん、原稿料は労働の対価として頂戴しましたが……。
けれども、金銭的損害がなければそれでよいということではありません。真剣に調べた結果が陽の目を見ることもなく闇に葬られることに心外の思いを強くせざるを得ませんでした。「和同銭和銅元年初鋳説」のまやかしは次回にでも具体的な論拠を開陳して解明しますが、いわゆる教科書定説、教科書日本史なるものが、まだ一度として学術的手法によりオーソライズされていないこと、さらには学術的手法すら用いられた痕跡がなく、お山の大将的な権威者の一存で場外乱闘に持ち込まれ、「俺の主張に逆らう者はバッサリ殺ってしまうぞ」という悪しき構図が幅を利かせている事実にも目を向けていただきたいのです。
さらにはまた、小早川秀秋の冤罪を晴らすことを念願としてこられた方々には、不当に高く評価されてきたのが、ひとり石田三成のみではなく、あるいは不当に悪く評価されてきたのは小早川秀秋ではない、という日本史の伝統的瑕疵に気づいていただきたいのです。
ちなみに名のみ挙げて予告しますと、不当によく評価されてきた人物に源義経、豊臣秀吉、石田三成、井伊直弼、吉田松陰、高杉晋作、勝海舟などがおります。逆に不当な扱いを受けているのが、源頼朝、北条義時、徳川家康、小早川秀秋、阿部正弘、小栗上野介忠順などです。これから回を追うごとに簡潔に理由を提示して、きちんと理解していただくことに努めます。
そのために、まず、日本史教科書の成立から述べていきたいと思います。
学術的には一度もオーソライズされたことのない日本史
明治維新政府が小学校区53,760、中学校区256、大学区8を設けるとした学制を発布したのは、廃藩置県の断行で大混乱を極める明治5年のことであった。明治12年の教育令で以上の学区制が廃止され、町村単位で小学校から優先的に設立されることになった。それを受けて明治14年に小学校教則綱領が制定されて、教科の内容、時間数が明示され、全国的に統一が図られたのは明治15年頃とされる。当初は文部省と師範学校が日本史教科書の編纂に当たり、明治16年に認可制度が発足して、以後、検定制度に変遷しつつ民間教科書、国定教科書の区別なく「教科書日本史」が編まれてきた。
教科書日本史は文部省という行政機関が編纂に当たったから、当然、決定するのは文部大臣森有礼である。だから、日本史は森有礼史観に基づくといって差支えない。このような成立過程を持つ教科書日本史を「国史」としてよいものだろうか。
ましてや、徴兵制下の日本では軍隊の中で日本史を叩き込まれる。信長の桶狭間の作戦を奇襲による完全勝利と読み違えて「迂回奇襲説」という架空の作戦を捏造したのは有名な話だ。大日本帝国陸海軍にはまず対米宣戦布告があり、真珠湾奇襲作戦があり、その作戦をオーソライズするにふさわしい作戦に桶狭間完全勝利の迂回奇襲説をピックアップして、真珠湾攻撃に国民的支持を取りつけるつもりだったといわれる。
学制が発布された当初は、明治4年にクーデター政府が断行した廃藩置県に対する武士階級の怨嗟の声、四公六民のめぐまれた江戸時代を懐かしむ天領民たちの反感、それは裏返せば明治政府の不人気を意味するわけで、加えて教科書日本史の土台は皇国史観である。源頼朝は鎌倉に武家政権を樹立した張本人として、北条義時は京に攻め上って朝廷軍を制圧したという理由で悪者にされ、家康に至っては江戸に幕府を開いたのみならず、善政を敷いて天領民から絶大な人気を得たという二重の恨みで悪者にされた。こうした史観に当時の大衆がどう反応したかというと……。
御開港場横浜に多くの観客を集めた賑座で、ある日、徳川を誹謗する台詞を役者がいったところ、たちまち客席からヤジが飛んで騒然、収拾がつかなくなって公演が中止になったという記録がある。これほど徳川人気は根強く絶大だったから、ますます問答無用で家康は悪者にされていったのである。戦後生まれの私でさえ社会科の教室で「家康は腹黒い」というイメージを叩き込まれた。いわゆる国民的マインドコントロールが社会科授業、日本史授業というかたちで国家的規模により連綿と行われた結果、信じるほかない宗教的日本史が出来上がってしまったのである。
もし、こうした事実から考えてかくかくしかじかという解説が常識的に行われていたなら、成り立つはずがないのが、既存の教科書日本史なのである。
私と似たような主張をしている作家もおられるようだが、「解釈をもって解釈を批判する」タブーを犯し、将来、事実に立脚する日本史が明らかになった場合、赤恥をかくことになるのではないかと今から心配でならない。つまり、私が訴えたいのは私の解釈ではなく、その前段の方法論的考証なのである。それがなかなか行われないところに、関ヶ原合戦における解説の無軌道状態が実は起因するのである。
「石田三成は正義漢、家康は腹黒い権力の亡者」
秀吉と三成のどこに正義があったかなどは問題ではなく、家康を悪者にするには「敵の敵は味方」の理屈で三成を「正義の人」にでっち上げるほかないという論法なのである。両者のうちどちらが正義で、どちらが邪かは、事実に語ってもらうほかないのだが、「既存の解釈の使いまわし」によって重要な事実は片端から秘匿され、「解釈を踏まえて解釈をするタブー」の常態化が進んだことによって、関ヶ原合戦は白は黒、黒は白と置き換えて解釈しないといけないほど事実からかけ離れてしまった。
その典型が「小早川秀秋の裏切り」「石田三成は義の人」「三成と大谷吉継は親友」というデマゴーグである。まず、こうしたバイアスを捨て去って、関ヶ原合戦に関する知識と認識を白紙に戻し、事実を広くランダムにピックアップ、曖昧なまま手探りで考証を進めていただきたい。
「小早川秀秋の行動のうち何をもって裏切りとするのか」
この問いに答えるべく(既存の解釈の間違いを方法論的に指摘するのが答え)七回目の講座を思い立ったわけであるが、「学術的には一度もオーソライズされたことのない日本史」というキャッチフレーズが少しも大袈裟でないことから、まず説明していく必要があると思う。
