キーワード「勃興」と「消滅」を再現させるための踏まえるべき事実、見えてくる事実の実例(その12)


踏まえるべき事実から見えてくる事実群(その5)

 

 

天保八年に起きた出来事群から見えてくる事実(その五)

 

 今回の公判は、「水越侯・跡部良弼ルート」という新しい検討カテゴリーについて、考えることにしたいと思います。大塩平八郎の乱は、単に天保八年に起きたというだけでなく、動機としては「跡部良弼暗殺未遂事件」として立件すべき性質のもので、天下の誤説「天保の改革」が失敗し、老中首座にまで上り詰めた水越侯失脚の原因にもつながるだけに、大いに興味をそそられるところです。

 これまでは、天保八年に起きた出来事から過去に戻って見えてくる事実を解明してきたわけですが、今後は先々を見通して考えていくことになりそうです。いつものように、秦野裁判長の論述書を長井検事が代読して公判廷の幕が上がりました。

 

新たな「消滅」の要因、水越侯・跡部良弼ルート

 

 水野越前守忠邦と実弟跡部良弼について、前回の公判記録を再掲してから、多少の補足を行うことにする。

 かつて肥前国唐津藩主だった水野忠邦は老中になりたいと願って猟官運動を展開、多額の賄賂を使って水野忠成に取り入り、文化十三(一八一六)年、奏者番に就任した。しかし、長崎警備の任務を受け持つ唐津藩主でいる間は奏者番以上の役職につけないと知ると、老中を輩出してきた浜松藩への転封を決意、家中の反対を押し切って実高二十五万三千石といわれる肥前国唐津藩主の座を捨て実高十五万三千石の藩主に甘んじようとした。このとき、家老の二本松義兼が諫死を遂げている。文化十四(一八一七)年のことであった。

 忠邦は、その後も猟官運動をつづけ、寺社奉行を兼任すると、今度は賄賂を取る側になって汚職にまみれた。文政八(一八二五)年大坂城代、文政九年京都所司代と出世して、文政十一年にとうとう西の丸老中に上り詰めた。忠邦の猟官運動資金の捻出には、実弟の跡部良弼が一役買っており、そこを大塩平八郎に尻尾をつかまれたわけである。

 これまで贈賄する側が湯水のように金を使い、今度は賄賂を受け取る側にまわった場合、どういうことをするかというと、一般にはまず元を取り戻し、そこからは歯止めがかからなくなるのが通例である。

 水越侯の場合はどうかというと、元を取るといっても、実高二十五万三千石の肥前唐津藩から実高十五万三千石の遠州浜松藩への転封により単年度十万石、老中への第一関門とされる大坂城代に就任するまでの八年間累計八十万石を棒に振っているから、一般の場合とは比較にならない。加えて転封から奏者番、寺社奉行、大坂城代、京都所司代、西の丸老中と猟官するときどきの賄賂は莫大な額にのぼった。そのために家老が諫死するなど、家中の反対・不満が根強かっただけに、「お蔭様で偉くなりました」では済まない空気の中に身を置いたのは間違いない。

 そういう背景を背負った水越侯が賄賂を受ける側にまわったとしたら、これはもう脇目も振らずに回収するほかなかったであろう。大塩平八郎が文政十一年に摘発したのは、忠邦の猟官運動にからむ汚職事件で、常に兄の権威を笠に着て周囲と軋轢が絶えなかったという跡部良弼までもがからんでいた。それが揉み消されてから足掛け十年後の天保七年に、大坂東町奉行になっていた跡部良弼が浜田藩の密貿易を摘発して、一大疑獄にしたというのだから、大塩としては腹に据えかねるのは当然だろう。ましてや、加州侯の急逝によって兄の忠邦が老中首座になったとなれば、暴発して反乱に走らずにはいられまい。

 天保八年に起きた大塩平八郎の乱が現代の人々にどのように理解されているかというと、一例としてウィキペディアは次のように説明する。

《前年の天保七(一八三六)年までの天保の大飢饉により、各地で百姓一揆が多発していた。大坂でも米不足が起こり、大坂東町奉行所の元与力であり、陽明学者でもある大塩平八郎(この頃は養子の格之助に家督を譲って隠居していた)は、奉行所に対して民衆の救援を提言したが拒否され、仕方なく自らの蔵書五万冊
をすべて売却し(六百数十両になったといわれる)、得た資金で救済に当たっていた。しかし、これをも奉行所は「売名行為」とみなしていた。

 そのような世情であるにもかかわらず、大坂町奉行の跡部良弼(老中水野忠邦の実弟)は大坂の窮状を省みず、豪商の北風家から購入した米を新将軍徳川家慶就任の儀式のため江戸へ廻送していた。

 このような情勢の下、利を求めて更に米の買い占めを図っていた豪商に対して平八郎らの怒りも募り、武装蜂起に備えて家財を売却し、家族を離縁したうえで、大砲などの火器や焙烙玉(爆薬)を整えた。一揆の際の制圧のためとして私塾の師弟に軍事訓練を施し、豪商らに対して天誅を加えるべしと自らの門下生と近郷の農民に檄文を回し、金一朱と交換できる施行札を大坂市中と近在の村に配布し、決起の檄文で参加を呼びかけた。

 一方で、大坂町奉行所の不正、役人の汚職などを訴える手紙を書き上げ、これを江戸の幕閣に送っていた。新任の西町奉行堀利堅が東町奉行の跡部に挨拶に来る二月十九日を決起の日と決め、同日に両者を爆薬で襲撃、爆死させる計画を立てた。

 ところが、決起寸前になって内通離反者が出てしまい、計画は奉行所に察知されてしまった。跡部を爆死させる計画は頓挫し、完全な準備の整わぬままに二月十九日(三月二十五日)の朝、自らの屋敷に火をかけ決起した》

 これを読めば、大塩の乱は「跡部良弼暗殺未遂事件」という見方においては、本公判廷と一致していることがわかるだろう。このように、大塩の件は弟の良弼がからむだけに、水越侯としては早く片付けたい。そのためには、大塩に対する弾劾書が必要であった。

 ところが、大塩の心中を察して、だれも「彼の思いはわが思い」として弾劾書の作成を引き受けようとしない。

 水越侯はひどく焦った。

          

 長井検事が論述書を読み終わるのを待ち受けたように、秦野裁判長が発言しました。

「大塩の件はあちこちに飛び火した。江川坦庵は林蔵の弟子だったから、同様に林蔵の弟子だったと思われる斉藤弥九郎を大坂へ派遣して、情報の収集に努めた。これが、やがて、《加州侯・林蔵ルート》に代わる新しい執行機関になっていく。これに対して、鳥居耀蔵は父親の幕府儒者林大学頭述斎が大塩から多額の借金があるという事実の揉み消しに躍起となって、結果として《水越侯・跡部良弼ルート》に食い込んでくるのだが、当座、水野忠邦・跡部良弼ルートは、一度、脇へ置いて、加州侯・林蔵ルートに言及する必要がありそうである。その前に米価高騰に加担した良弼に対して、金次郎が取った飢饉対策をかいつまんで説明しておきたい」

 秦野裁判長はそういって、以下のように説明しました。

 

二宮金次郎は日本史上最高レベルの改革テクノクラート

 

 かつて天保四年当時は、前例をみない冷夏で、梅雨から盛夏までつづいた長雨による洪水と冷害が農作物に甚大な被害をもたらした。なかでも新田開発に力を入れて実高が百万石を超したといわれる仙台藩の受けた被害は甚大で、早くも多数の餓死者を出した。そうかと思うと、米沢藩のように飢饉に備えた義倉を開いて飢民を救済し、死者を一人も出さなかったところもあった。

 両藩の違いはどこに起因するのか。

 天保五年になると、飢民が江戸、大坂へ流入する事態となり、世の中に背を向けてきた水野忠成であったが、さすがに座視しつづけるわけにいかなくなって、市中に御救小屋をつくり始めた。そうしたさなかに二月を迎え、明日にも三月を迎えようかという二十八日、老中首座現職のまま水野忠成が急死した。

「飢饉が世直し風を吹かせた」

 江戸城のみならず市中に至るまで、声にならない声が広まった。

 さて。

 飢饉の被害を最小限に食い止めた米沢藩と甚大な被害を出した仙台藩の違いの原因であるが、二宮金次郎は理論的にも完璧であるが、現実には予測不能の事態が起きるものだから、経験則による臨機応変な対処が求められる。そういう点では、金次郎は実践家でもあったから、当時、請け負っていた桜町領で見事な対処の仕方をみせた。金次郎が桜町陣屋の役人武田才兵衛と交わした次のやり取りが、それを如実に物語る。

「見てください。根は、何ともないのです。どれもこれも、しっかり根を張っております。ところが、葉先はみな弱って、ご覧の通りです」

 金次郎は手にした草や稲を示して、さらにつづけた。

「土の中は、まだ夏ですが、天候はすでに秋に入ったということです。このままでは、今年は凶作が予想されます。すぐにでも、土中で取れる作物に切り替えましょう」

「待て、そのようなことは、軽々しくできることではないぞ」

 領主でもない金次郎がそこまで踏み込んで決定するのは越権行為である。反対するでもなく、さりとて同意するわけにもいかず、武田才兵衛はひたすら説明を求めた。

「きっかけは何か。せめて、根拠を述べられたい」

「お昼に食べた茄子が、秋茄子の味でした。それで、おかしいと気づいて、いろんな植物を調べたのです」

 食べ物の味でわかってしまうのか。

 武田才兵衛は驚きながら、さらに説明を求めた。金次郎は、つづけていった。

「このぶんだと、しばらく凶作がつづきそうです。桜町領内だけで、三千三百七十六俵の備蓄米があります。これには、なるべく手をつけないようにして、値上がりしないうちに買い付けられるだけ、米を買い溜めしましょう。そのうえで、寺社の境内、荒地や空き地をことごとく耕して、大豆や稗をつくり、畑には芋や大根、蕪を作付けましょう」

 どうして、それほどの重大事を簡単に決断できるのか。

 武田才兵衛は驚きを禁じ得なかった。しかし、金次郎の決断が理に適ったものだということは、容易に判断がついた。

 秦野裁判長がいいました。

「何の対策も打てなかったばかりか、実の兄の栄進しか頭になく米価高騰に加担した良弼に対して、金次郎が取った飢饉対策がいかに的確であったか、違いの大きさがよくわかったと思う。この違いを今後のために記憶しておいてもらいたい。本日はこれにて閉廷

 なお、二宮金次郎の理論と実践に裏づけられた改革手法は、もう少し先へいってから詳しく紹介する予定です


(つづく)




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