キーワード「勃興」と「消滅」を再現させるための踏まえるべき事実、見えてくる事実の実例(その10)


踏まえるべき事実から見えてくる事実群(その3)

 

 

天保八年に起きた出来事群から見えてくる事実(その三)

 

 今回の公判では、間宮林蔵の天保三年から四年にかけての行動を追う予定です。いつものように、秦野裁判長の論述書を長井検事が代読して公判廷の幕が上がりました。

 

林蔵の行動から見えてくる家慶政権と薩摩藩島津家との密約説

 

 二宮金次郎の報徳仕法による改革が実効を挙げるには、彼が厳しく設定する分度に従わなければならない。家斉政権としては払底しつつある財政の底上げは歓迎するところだが、分度は受け容れられない。苦労せずによい思いをつづけたいというのだから、加州侯が家斉政権と手を組むことはあり得ない。しからば家斉政権が加州侯に敵対するかというと、やらせるだけやらせて果実がなったら取り上げるつもりだから、それもまたあり得ない。

 家慶の立ち位置は前に述べたように、「親の恥は、子の恥」という思いだから、世直しのために寄与したいところである。このへんの違いが、これまでは考えられないままできた。

 すなわち、間宮林蔵の行動に枷をはめるのが、家斉政権から家慶政権への移行だから、その観点からすると、島津の大隠居栄翁重豪の病が天保三年あたりから思わしくなくなった事実が、林蔵の隠密行の大きな動機となり得る。このときに念頭に浮かぶのが、当時の島津家の現状である。

 次の記事は第六十二回公判の記録の一部だが、重要なのは「なぜ、天保三年だったのか」ということであった。

《堀田正睦と双璧とされる蘭癖の島津重豪は中屋敷とされる高輪の屋敷にいるのだが、かつてそこは上屋敷だったから、本来、重豪が隠居したとき、継嗣斉宣に明け渡すべきだったのだが、蘭癖趣味で庭に植えた洋蘭などは移すと枯れてしまうので、これまでの虎ノ門外の中屋敷を上屋敷に変更して居座った。加えて、斉宣が重豪の蘭癖趣味を批判して、緊縮財政に転じたため、重豪は斉宣を隠居させ、孫の斉興に跡を継がせた。その斉興もまた緊縮財政を継承したため、重豪は藩政の実権を掌握し、曾孫の斉彬を世子に据えて、折あらば当主に据えようとしているところだ。しかし、借金に借金を重ねて、大砲や鉄砲などの火器、洋風家具や什器類、地球儀や蘭書など、次から次へと買い漁ってきて、とうとう藩の財政は挽回不能なほど傾いた》

 いわんとすることがわかりにくかったら、もう一度、詳しい記録を読み直してもらいたい。そうすればよくわかると思うが、調所広所に脇差を突きつけて改革を押しつけた重豪にとってみれば、御家の窮地を脱することにつながるなら、何にでも飛びつきたいほど崖っぷちにあった。

 家慶なり、加州侯には、そこにつけ込む余地があったわけである。しかしながら、今から林蔵を潜入させたのでは重豪が先に死んでしまう恐れがあり、事実、林蔵の薩摩藩潜入に先んじて重豪は他界してしまったのだから、「おかしいではないか」と、だれもが思うはずである。

 犯罪捜査のノウハウを必要とするのは、実はこのあたりの実体的真実の解明においてなのである。洞富雄著『間宮林蔵』からの孫引きだが、小宮山南梁が書いた次の一文を紹介しておく。

《西国の大藩(薩摩藩)にて、一切他邦の人を、邦内へ立入らしめざるものあり。林蔵これを探らんとて、一策を構ひ、其隣国のものなりとて、彼の城下なる経師の弟子となりて、粗(あらあら)その国の虚実を窺うことを得たり。居ること三年、たまたま城内に張付の修理ありければ彼経師に従いて入込み、因て城内を一覧して帰れり。後に其藩侯(島津侯)在府の折に、幕府の有司某をその邸に招くことありしに、談、彼の藩内のことに及び、城内の形状までつまびらかにこれを知りて語りければ、侯大に恠(あや)しみ、其故を問われしに、某笑いて、不審し給ふも理なり、帰藩の折に城内某辺なる紙障(ふすま)を剥て、其下を見給へといふにより、侯、後に其言の如くすれば、下張の内に、往々名刺一葉を挿みて、大府(幕府)探偵間宮某とありしに、一藩皆その探偵の妙に驚きしとなり

 こうまでして摘発していないことから、摘発が目的ではなかったことがわかる。すなわち、林蔵が潜入した証拠を示すことが目的だから、薩摩藩潜入は天保三年以後でもよかったわけで、逆に、それを告げる必要があったということになると、何が考えられるか。

 それにしても、幕府有司氏と島津侯の親密ぶりは只事ではない。ここから島津家世子斉彬の娘を家定の正室に迎えるという密約説の根拠がある。

 すなわち、天障院篤姫が家定の正室になるのは安政三年であるが、斉彬の娘になったのは嘉永六年である。輿入れが決まらないのに養女にする理由はないから、密約履行の遅れは斉彬の側に女子の誕生が遅れたこと、さらには家督相続が大幅に遅延したためだろう。密約が存在しなかったとすると、嘉永六年の時点で篤姫は十九歳、わざわざ斉彬が彼女を養女として迎えてまで家定に輿入れさせる理由がないし、どうやって婚約を成立させたのか説明がつかなくなってしまう。ところが、家慶の死期が迫るぎりぎりの密約履行とみなすと、手続きと準備などで実際の輿入れが安政三年になったことが頷けるし、かえって密約説が補強されるのである。

 ここで、もう一度、第六十二回公判の記録をおさらいしてみよう。

なぜ天保三年かというと、薩摩藩で大御所政治を敷く大隠居重豪が調所広郷を家老格に引き上げて改革を請け負わせたのが天保三年だからであり、重豪が死ぬのが天保四年一月十五日だからである。ところが、これだけでは実効性が薄い。なぜなら、御台所寔子は家斉が隠居する天保八年まで足掛け五年も隠居を説きつづけたからである。

 その説くところは、

「およそ物事には終わりがあります。わが世の春が無限につづいた例はありません。島津の大隠居に倣い、隠居して西の丸様に将軍職を譲り、大御所政治を行うことで、実権を握り続けるのが賢明です」

 こんなところであっただろうか。

 もちろん、御台所寔子がそこまでして、家に隠居を説きつづける理由が存在しなければならない。ここで、「結果が目的の法則」から導かれてくる「踏まえるべき事実」を二つ挙げよう。

 一つは薩摩藩の密貿易に密かに公許を与えることである。そして、この密約は弘化三(一八四六)年六月一日に将軍家慶が島津斉興と斉彬に接見し、「琉球はその方の一手に委任のこと」と告げて実現を見ている。さらに、六月八日には老中首座阿部伊勢守正弘が調所広郷を江戸城に呼びつけて、「琉球支配は薩摩藩に一任、やむを得ない場合は交易を許す。ただし、相手はフランスに限り手細く行え。そうする分には交易を結んでも幕府に異存はない」と告げる念の入れようである。

 もう一つは、斉彬(藩主斉興ではなく)の養女篤姫を家祥(のちの家定)の正室に迎えるという密約である。外様大名から将軍の正室を迎えた前例はなく、御台所寔子が嚆矢である。御台所寔子は大奥で絶対的な権力を持ち、重豪も将軍の舅として栄耀栄華を経験した。夢よ、もう一度である。持ちかけたのが家慶側だろうから、島津家にとっては飛びつきたい話だ

 実は、第六十二回公判で記録された論述書を書いた時点では、小宮山南梁が書き残した文章が記憶になかった。過去に読んだのだが、問題意識がそこまで進んでいなかったので、記憶にのこらなかったのである。洞富雄著『間宮林蔵』をひさしぶりに持ち出してきて、小宮山南梁が書き残した文章に接したときは卒倒しそうになるほど驚いたものであった。

 日本史の再考証の意義は、こうした重要な証拠資料の再発見にあるのであり、中間の結論で「これが正しい」と主張することの危うさにあらためて思いを致した次第である。

         

林蔵の二度目の浜田藩潜入も通過儀礼だった

 

 長井検事が代読を終えると、秦野裁判長が付け加えました。

「小宮山南梁は林蔵が薩摩藩で経師屋の弟子を三年もやっていたようなことを書いているが、林蔵の活動記録でこの三年間が当てはまりそうなのは、天保六年三月に『風聞書』を書いて加州侯に提出する以前のことだろう。結局、薩摩藩には潜入したという事実をつくるだけでよかったことになり、その主たる目的は重豪の遺志を継ぐ世子斉彬と家斉夫人寔子を味方に取り込むためだった可能性が高い。浜田藩潜入の事実もまた堺町奉行から大坂西町奉行となってきた矢部定謙に探索させるための説得材料をこしらえるためだろうから、通過するだけでよかった」

 長井裁判長が秦野裁判長の発言を補足していいました。

「一度の旅で、薩摩藩で三年を費やしたうえに、浜田藩にも、つつけて潜入捜査するのは、現実的ではありませんし、五年、六年と期間が長くなりますから、天保四年九月に江戸にいて上申書を提出している林蔵には、到底、不可能です」

「そういうこっちゃな。浜田藩への潜入は、やはり、文政十一年前後とする説が有力になりそうだな。浜田藩の城下で、日本にあるはずのない銘木をみかけて、林蔵が探偵を開始した逸話が伝わるが、二度目の浜田藩潜入時のことではなかったか」

「行きに浜田藩へ行き、薩摩藩の潜入を終えた帰途、大坂に立ち寄ったということですから、矢部には、会津屋におかしな動きが見受けられるから、是非、探索してもらいたいと頼むだけでよいのですから、その程度の感触でよかったということですね」

「結局、ものをいうのは、林蔵の名声なんだろうな。林蔵が潜入したというだけで、相手は自分たちが丸裸にされたように錯覚してしまう。発見しても、闇に葬れば問題になりそうだし、早く出ていってくれと願うだけで、手が出せない。人間心理をうまく利用すれば、そういうことが可能になるということだ」

「密偵は発見されると厳刑に処せられるということですが、薩摩藩は幕府と蜜月の関係ですから、その心配もなかったわけですね」

「問題は、加州侯と松平康任がいつ老中首座を入れ替わったかということだ。そのことに関しては、次回の公判で考証することにして、本日は閉廷」

 それでは次回の公判で、また、お目にかかりましょう


(つづく)




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