ペリー来航後の日米外交モラトリアム(その6)
幕末史における大きな過ちは、ペリー来航のシチュエーション理解と、井伊直弼の人物認識にあるということは、これまでの公判でかなり鮮明になってきたと思います。しかし、それで十分というわけではありません。徹底して分析して紛れの入り込む余地のないレベルまで煮詰めたいと考えます。
本日も、長井検事による秦野裁判長の論告書代読が行われます。
調印なって、逆風吹いて、逆波立って
大老の御用部屋にいて一人で憮然とする井伊直弼のもとへ、越前侯松平春嶽がぶらりと顔を出した。
「日米条約が調印されたそうな」
「うむ」
井伊直弼は苦虫を噛み潰した表情で顔をそむけた。
御家門は大老職に就けない決まりになっているのに、松平春嶽は水戸斉昭や岩瀬忠震らにかつがれて、政事総裁(事実上の大老)候補として井伊直弼と権力の座を争った相手、しかも一橋慶喜を将軍継嗣に立てようとして、いまなお家臣の橋本左内を奔走させている男である。
松平春嶽は何喰わぬ顔で探りを入れた。
「ところで、独断で条約調印に踏み切った海防掛の不遜の輩を、掃部頭殿はいかに御処置なさるおつもりか」
岩瀬忠震の切腹だけは何としても未然に防ごうと、みずから各方面に働きかけているのが当の松平春嶽なのである。
「差し当たっては、対外的に難問山積の時期でもあるし、処分はいたさぬ。あの者がおらぬと困る」
「左様か。お邪魔いたした」
越前の狸め……。
井伊直弼は飄々と去ってゆく松平春嶽の背中をはたと睨みつけた。
岩瀬忠震の処分を見送ったことからもわかるように、井伊直弼は勅許を得ずに行われた条約の調印を軽く考えて、朝廷に対する報告も一片の書き付けだけで済ませようとした。
六月二十三日、一橋慶喜がそれを知って登城してきた。
「このたびの致しようは違勅の咎めを免れぬ。如何なさるおつもりか」
「はて」
井伊直弼は顎に手をやって、あらぬ方を見つめ、また視線を慶喜に戻した。
「思いもかけぬ日にお目にかかる。公こそ御定法に背き不時にご登城あるとは、いかなる御存念か承りたい」
御三家三卿、諸大名の登城日はあらかじめ決められており、それ以外の日に断わりなく登城すれば譴責される。
「御公儀のためを思えばこそ、御定法は御定法と承知のうえで参った。瑣末なことを気に掛けているときではなかろう」
「御承知のうえでとは、一橋公ともあろう御方が奇態なことを申される」
「さようなことは、別の筋の詮議じゃ。まずは余の質問に答えよ」
「公が違勅といわれたことにござるか」
「左様」
「違勅とは何を指していわれるのか。違勅、違勅と申されるが、朝廷からはまだ何のご返事もない。違勅呼ばわりは心外にござる。むしろ、公のほうこそ、御定法を曲げての不時の登城、このままでは相済みませぬぞ」
井伊直弼はあくまでも御定法違反を問題にして、逆に一橋慶喜を恫喝した。
翌日になって、今度は水戸斉昭・慶篤父子、尾州家徳川慶勝の三人が揃って井伊直弼の御用部屋に押しかけた。水戸斉昭が激怒していきなり井伊直弼に喰ってかかった。
「天皇が下された勅旨は、なお衆議をよく尽くせというもので、調印せよとのお言葉はなかった。然るに今般、無断調印をなしたるは不届至極、到底、違勅の咎めは免れぬ」
「違勅かどうかは朝廷がお決めなされること。一橋公に申したごとく、朝廷よりまだ御返事もないのに、違勅呼ばわりされるいわれはござらぬ」
井伊直弼は将軍継嗣に紀州侯慶福が決定したことを明二十五日に発表するつもりだった。だから井伊直弼は水戸斉昭の追及を強気にはねつけたのであろう。水戸斉昭らにしてみれば、それを察知したための不時の登城だった。
「朝廷の御返事は待つまでもない。御返事を待ってから対処するというのでは、天皇に対しあまりに失礼である。むしろこの際、貴殿は御返事のあるまで謹慎し、継嗣君の発表を延期するのが本当ではないか。そのうえで越前侯を大老に据え直し、一橋慶喜様を西の丸へお迎えせよ」
「老府公と仰がれるほどの御方が何をおっしゃいますのやら。して、本日のご登城のご趣旨やいかに」
「将軍家にお目通り願い、ご意見つかまつらん」
「上様はただ今、ご病中につき、目通りは罷りなりませぬ。御取り次ぎも致しかねる。本日の不時登城の不始末に対し、追って沙汰がありましょう」
水戸斉昭と徳川慶勝の二人は、今にも斬ってかかりそうな形相で唇をわななかせた。しかし、殿中である。井伊直弼は新心流居合から一派を興したほどの手だれでもあった。
六月二十五日、井伊直弼は病中の将軍家定に代わり継嗣君は紀州家徳川慶福公に決まったと発表した。徳川慶福はまだ十二歳の少年、家定は明日をも知れない命……。
井伊直弼はそれをよいことにして臨終寸前の将軍家定に決裁を請い、水戸斉昭らの不時登城に対し次のような処分を断行した。
前副将軍 水戸斉昭 急度慎
尾州侯 徳川恕徳 隠居慎
越前侯 松平慶永 隠居慎
副将軍 水戸慶篤 登城停止
一橋慶喜 登城停止
隠居は大名家の当主を退くこと、慎は謹慎のことで昼間は外出できない。不時登城の処分といえば譴責がせいぜいであるのに、掃部頭は不時登城というわずかな瑕疵にこじつけて御三家のうち二家の当主、御三卿のうちの一卿の当主を含めた徳川家の柱石に対し前代未聞の処分を下したのだった。
安政五年七月四日、将軍家定死去……。
将軍家定が亡くなり、次期将軍家の慶福(家茂)はまだ数え十三歳、幕政は大老井伊直弼の思いのままになった。
次いで注目すべきは、越前侯松平春嶽の処分であった。
松平春嶽は不時登城に該当しない。理由は陪臣の橋本左内を奔走させ、一橋慶喜の将軍継嗣君就任を朝廷に働きかけさせて「処士横議の禁を犯したため」というものであった。
松平春嶽を政事総裁に推した薩摩藩主島津斉彬の処分も取り沙汰されたが、本人が直前に病死したため罪を免れた。これを契機として、開国政策を推進してきた海防掛解体、橋本左内、吉田松陰らの処刑など、多くの有能な人材を処断する狂気の「安政大獄」が始まった。
外面的には、これぞ「消滅」であるが、これまで、「喪失させられた勃興の部分」が研究されてこなかった。まるで失われたのが「井伊直弼」であるかのように、のほほんとして受け止め、伝承されてきた。
本年最後の回となりました。一年間お付き合いくださいまして、本当にありがとうございました。来年一月からの再開となります。どうぞ、よいお年をお迎えください。
