キーワード「勃興」と「消滅」を再現させるための踏まえるべき事実、見えてくる事実の実例(その3)


ペリー来航後の日米外交モラトリアム(その3)

 

 前回の公判は秦野裁判長の次の発言で幕を閉じました。

「聞いているだけで嫌になる。幕末史はこうした気色の悪い事実ばかり穿り返してきたわけだよ」

 よくよく考えると、後世の史家が何を根拠に、ペリー来航時の幕府を「無能で、何の対策も持たなかった」などといった出任せをいうのか、まったく理解に苦しむところでしたが、ようやく根拠の一端に触れたような気がします。

 と、いうのは、ハリスに対するぶらかし、井伊大老と水戸斉昭の対立、将軍継嗣にまつわる争闘、安政大獄、桜田門外事変という一連の出来事にばかり目を向けたら、実に非生産的で、時間の無駄遣いで、こうした時期があること事態が恥ずかしく思えてきて、だれだって「時の幕府は無能の極み」と思ってしまうでしょう。こうした偏頗な歴史認識もまた「消滅」の一因であり、「勃興」の部分を隠蔽してしまったからくりの一つなのです。

 さて。

 表題の「ペリー来航後の日米外交モラトリアム」は、来日したハリスに関するこれまでの記述を覆す可能性を孕んでおります。説明するよりも事実の提示が先という方針に従い、早速、公判を開始することにします。

 長井検事が秦野裁判長の論述書を代読します。

 

 政変への鳴動がつづく中、ハリス着任

 

 安政三(一八五六)年七月三日、アメリカ総領事ハリス、下田に着任……。

 アメリカ総領事ハリスは日米和親条約に基づいて下田に着任してきたものの幕府が安政大地震からまだ復興途上にある江戸出府を認めなかったため、交渉に入れず、玉泉寺に足止めを食ってしまう。アメリカが派遣した軍艦サン・ジャシント号はハリスと通訳のヒュースケンの二人を下田に上陸させると、すぐに立ち去ってしまった。ヒュースケンはハリスが雇ったオランダ人通訳で、アメリカ政府の役人ではない。ハリスはたった一人で、言葉も通じなければ事情もわからない異国の地に放り出されてしまったわけである。

アメリカで南北戦争が勃発するのは、五年先の文久元(一八六一)年なのだが、その原因の一つとされる奴隷制支持派が反対派を襲撃した「流血のカンサス」事件が安政三年のこの年に起きており、内戦の機運が醸成されつつあるさなかのハリスの着任は、対日通商の開始を目的とするというより、日米和親条約で勝ち取ったイギリス、フランス、ロシアに対する外交上の優位を確保する(失わないようにする)のがねらいだった可能性がある。南北戦争勃発を目前にしてアメリカの対日外交は完全にモラトリアム状態に陥っていた。この事実は重要な意味を持つので、踏まえるべき事実の一つに認定しておきたい。

安政三年十月十七日、阿部正弘は老中堀田正睦を外国御用取扱いに専念させる処置を講じた。さいわいなことに全国各地の徳川親藩で進められた輸出用生糸の増産が進捗をみていたこともあり、正弘は自分の死期を覚って、開国通商の事務を加速させようと計った。

アメリカ総領事ハリスの下田着任、老中堀田正睦の外国御用取扱い専念を打つ手として実行して以後、阿部正弘の歴史的役割はすっかり舞台裏に隠れてしまう。

安政三年十月二十日、二宮金次郎死去……。

二宮金次郎七十歳の死は老衰とみなすべきと思われるが、安政大地震で壊滅した江戸復興に専心する阿部正弘の顧問役として働いたのは確かだし、突発的な出費で幕府財政計画に狂いが生じたため、ますます輸出用生糸に活路を求めるほかなくなった。したがって、江川坦庵同様、過労が死を早めたとみるべきであろう。出自を農民とするゆえに二宮金次郎晩年の大事業が、日光御神領復興事業、安政大地震復興事業という隠れ蓑によって、後世の史家の視界が遮られてしまったのは返す返すも残念でならない。これも、「消滅」の事実証拠の一つに認定しておく。

安政四(一八五七)年六月十七日、老中首座阿部正弘死去……。

少壮の頃から体質的に寝込みがちであったといわれる阿部正弘の直接の死因は病死ということだが、その死を決定づけたのは安政大地震の後始末からくる過労であったことは疑う余地がない。藤田東湖という舵取りを欠いた水戸斉昭、大老就任へ牙をむき出した井伊直弼、この二人から加えられたストレスも死をかなり早めたはずである。残された老中堀田正睦は考え方では通商オンリーの人で、任務においても外国御用取扱に専念する立場である。それはそれで納得するとして、阿部正弘三十九歳の生涯で唯一の心残りは、内政の後継者を用意できなかったことではなかったか。

阿部伊勢守正弘の死で「松平伊勢守」といわれたほど腹心として内政外交に敏腕を発揮した筆頭勘定奉行兼海防掛松平河内守近直の記録上の消息も、ここでぷっつり途絶え、後世に「生没年不詳」として扱われてしまうのである。阿部正弘が亡くなっても海防掛は健在なのだから、「松平伊勢守」と呼ばれたほどの人の消息がここで途切れるのは不可解でならない。江川坦庵、二宮金次郎、そして阿部正弘の相次ぐ死去で心身とも打撃を受け、権力の基盤も働く意欲も失ってみずから進退を決したのだろうか。殉死は有用な人材の働きをいたずらに失わせるものとして禁止されて久しく、当時、いかにも時代遅れなものとしてほとんど影を潜めていたわけだが、禁止令のみは生き残っており、それを犯せば罪が一族に及ぶほどの厳罰が課されるのは避けられなかった。

松平近直は下僚の江川坦庵一人を失ってさえ大乗法経を書写し、「わが不明を悔ゆるも、泉下の霊に謝するに由なし」と嘆いた人である。江川坦庵はもとより阿部正弘、二宮金次郎とも一体だったから、三人の死が持つ意味の重さをだれよりも痛感したであろうし、「すでに二人を失い、今また掛け替えのない人を失う。三人とともにあった日々こそみずからの本生涯、このうえ余生を送るのは無意味」と感じて、有終の美を飾る思いから、阿部正弘の死出の旅路の道連れとなる出処進退を選んだとしても不思議はない。

阿部正弘が存命であるうちは阿部シンパの海防掛が存分に腕を揮い、反阿部派の水戸斉昭と井伊直弼の動きが封殺されていたのだが、前者は目的に向かって急進的に外交案件を処理しようとする目付系と模様眺めの穏健路線を取る勘定奉行・大目付系に内部分裂し、後者は一橋派と南紀派の激突を招きながら、朝廷を巻き込んでの権力闘争に発展していくのであった。松平近直はそうした時流の動きを嘆き、「わが事、終れり」という思いを強くしたことも、消息を不明にさせた原因の一つに違いない。

          

 長井検事が論述書を代読と終わると、秦野裁判長が宣言しました。

「以上の事実を、日本史上《消滅》の証拠事実として認定する」

 いわゆる踏まえるべき証拠事実は、これからもこうして積み重ねられていくのでしょう。このことは、また別の切り口から検証することにします


(つづく)




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