ペリー来航後の日米外交モラトリアム(その1)
開国維新の大局観を表すキーワードは「勃興と消滅」です。政権が運営されている間は、これまで述べたごとく、嘘のように見事な動きを見せておりながら、あるときを分岐点として呆気なく消滅してしまうのです。
しかし、そこへ向かう前に、「ペリー来航に関して証拠事実をきちんと踏まえたうえでの考察」に関する重大な推理の帰結を述べて、それを「ペリー来航後の日米外交モラトリアム」公判のプロローグに代えたいと思います。
すなわち、第四十七回公判では、以下のように考えましたが、当座の結論は推論にとどまっておりました。
《だれも着眼してこなかった次の事実から、とてつもなく重大な背景が紡ぎだされる。
「ペリーの来航が二度にわたった事実と理由」(A)
「補給艦レキシントン号が第一次来航に間に合わず、嘉永六(一八五三)年十二月香港到着と遅れて、ペリーの来日艦隊への参加は明けて嘉永七年一月の第二次来航になった。そして、日本政府に進呈する進物の中に電信機や銀板写真機などのほか、実物の四分の一大の蒸気機関車と炭水車、客車および二キロメートル分のレールがあった。それらはすべてレキシントン号が本国から運んできたものである」(B)
以上の事実をモンタージュすると、
「Aの事実が先にあって、それゆえに補給艦レキシントン号の参加が第二次に見送られたのか」
「あるいはBの事実が先で、やむを得ずペリーが二度に分けて来航することになったのか」
「さらには実物の四分の一大の蒸気機関車一式は出来合いなのか、日本向けに新しくつくられたのか」
以上、三通りの疑問が解ければ、「レキシントン号の香港到着がなぜペリーの第一次浦賀来航後で、第二次来航直前の嘉永六年十二月になったのか」という疑問はおのずと解けるはずである》
本日の公判で結論を得たいのは、「実物の四分の一大の蒸気機関車一式は出来合いなのか、日本向けに新しくつくられたのか」という疑問の答えです。これまでは、「日本向けに新しくつくられた」という認識でしたが、それを「日本向けに新しくつくられたもののアメリカの政権交代によって日本政府に献上するタイミングを失った」というふうに訂正したいということなのです。
本日の公判は長井検事による秦野裁判長の論述書代読で始まりました。
狂わされたペリー来航のタイミング
阿部正弘のビッドルへの対応はすでに述べた。国論化した尊王攘夷論が海防強化策につながり、薪水給与令撤廃の要求、異国船打払令復活の要求になってくるのは避けられない状況になった。外国が最も必要とする産物は何か、長崎のオランダ商館から入る海外の最新情報を分析しながら的確な対応を模索し始めた阿部正弘は、イギリス植民地インドのダッカに関する情報に接して愕然とした。
インドのダッカは綿業都市として栄え、世界でも有数の綿織物の生産地だった。そこに蒸気機関を用いた織機で大量につくられるイギリスの安価な綿製品が入ったため、人口二十万のダッカがわずか二万の街にさびれてしまった。外圧を緩和するという場当たり的な動機で薪水給与令を継続したら無策のまま開国することになり、日本はダッカの二の舞になってしまうだろう。
輸出用生糸の増産まで、どうやって時間を稼ぐか。
阿部正弘は隠密裏に生糸の増産を進めなければならなくなった。なぜなら、輸出用生糸の増産は開国と通商開始につながる証拠事実だから、増産という事実を築くまでは、尊王攘夷論と対決してもならず、さりとてペリー来航があるとするなら、通商開始は増産達成とほとんど同時でないと困るのだった。そういうピンポイントのシチュエーション下で、開国しなければならなくなったのだった。
ベリーの来航は、そうしたピンポイントのタイミングに合致していたのかというと、残念ながら遅きに失した。その原因となったのが、一八四八(嘉永元)年のアメリカ大統領選挙である。
一八四八(嘉永元)年のアメリカ大統領選挙は、ジェームズ・ポーク大統領が再選を求めないという公約に基づいて降板した後の候補に、民主党とホイッグ党の双方が、後継候補にメキシコ戦争の勝利でアメリカ国民から英雄視されたザカリー・テイラー将軍を担ごうとした点にある。ポーク大統領もメキシコとグアダルベ・ヒダルゴ条約を締結、戦争を終結、アメリカにテキサス州、コロラド州、アリゾナ州、ニューメキシコ州、カリフォルニア州、ネバダ州、ユタ州の全域およびワイオミング州の一部をもたらしたことで抜群の人気があったのだが、退任後わずか四ヵ月で他界してしまったように、最初から立候補の意思がなかったため、民主党はテイラー将軍に食指をのばしたわけである。しかし、ホイッグ党に後継候補としてさらわれてしまい、仕方なくルイス・カスを大統領候補、副大統領候補にはウィリアム・キングを抑えたウィリアム・バトラーを選んで選挙戦に臨んだのだが、テイラー候補の抜群の人気に屈してしまった。そして、ザカリー・テイラーが当選して大統領になり、フィルモアが副大統領に就任することになった。その後、テイラーが就任後一年四ヵ月で他界したため、フィルモアが大統領に繰り上がることになる。
日本側の都合からすると、マンハッタン号の来日からほぼ三年を経て、輸出用生糸の増産に見込みが立ったこの時点で、ペリー来航が実現して欲しかったのだが、ジャクソン・ドクトリン政権が政権の座から追われてしまったため、実現できなかった。
すでに日本側は、弘化三(一八四六)年六月一日、将軍家慶が島津斉興と斉彬に接見し、「琉球はその方の一手に委任のこと」と告げており、六月八日になると、阿部正弘が薩摩藩執政調所広郷を江戸城に呼びつけ、「琉球支配は薩摩藩に一任、やむを得ない場合は交易を許す。ただし、相手はフランスに限り手細く行え。そうする分には交易を結んでも幕府に異存はない」と告げて、受け入れ体制を調えていたのだが、来航したのがビッドルの旧式軍艦二隻では物足りなかったため、早急に浦賀から退去させるしかなかった。
以上の経緯から結論づけると、「実物の四分の一大の蒸気機関車一式は出来合いなのか、日本向けに新しくつくられたのか」という疑問の答えは、「日本向けに新しくつくられたもののアメリカの政権交代によって日本政府に献上するタイミングを失った」と訂正せざるを得ないのである。
長井検事は論述書の代読を終えると同時にいいました。
「来日艦隊の司令官がペリーではなかった公算が大きいわけですが、タイミングとしては、まさにこのときという感じがしますね」
「そういうこっちゃ。だから、一八四八年の選挙のとき、実物の四分の一大の蒸気機関車はすでに用意されていた。政変のため、それがペリー来航の第二次まで先送りされてしまった、ということではなかったか。あるいはまた、ジョン万次郎の第一次航海のとき、ホイットフィールド船長、筆之丞(伝蔵)と五右衛門らが一斉に航海を取りやめたのも、当然、アメリカ政府の動きに関係してくると思う」
「この年に孝明天皇が即位したことも、大きな障害でしたね」
「そうだ。これまでの幕末史は井伊直弼、水戸斉昭などの壊し屋を中心とした《消滅》部分を本流にしてしまって、本流とすべき《勃興》部分を見落としてしまっているわけだよ。そこに既存の幕末史の最大の欠陥があるということだな」
「うーん、なるほど」
感銘を受けてうなる長井検察官に、秦野裁判長は告げました。
「本日は前置きだけにして、明日からは幕末史から、これほどの事実群が、なぜ、カポッと抜け落ちてしまったのか、順序だてて究明する」
