ペリー来航に関して証拠事実をきちんと踏まえたうえでの考察(その8)


 このへんで、そろそろ、幕末史上の「勃興と消滅」というキーワードに向かって舵を切ることにします。くわしい内容については、次回の公判あたりから立ち入ることになると思いますが、現状は「消滅」したままですから、勃興の部分はエアポケットみたいに空白になっておりますので、「勃興」に当たる内容はこれから掘り起こすことになります。

いきなり「勃興」とか、「消滅」といったキーワードを持ち出した意図がおわかりになりにくいと思いますが、「勃興があるから消滅がある」とお考えいただければ、感触程度のご理解は得られると存じます。いずれにしましても、すでにこれまで述べたことばかりなので、それらを別の角度から見つめ直す作業になります。

 仮に消滅の原因となった二大障害を前門の狼、後門の虎と表記することにしますと、前者が井伊直弼、後者が水戸斉昭ということになります。

 それでは、いつものように長井検事による秦野裁判長の論述書代読から始めましょう。

 

松平伊勢守と呼ばれたほどの男が生没年不詳

 

 視線を前門の狼に戻すと、井伊直弼が大老となって開明政権をつぶしにかかるまで、ただでさえ限られた時間をさらに削ったのが安政大地震であった。後門の虎、前門の狼に加えて、三大阻害要因といいたくなるくらい安政二年の大地震は阿部正弘政権に大きなダメージを与えた。

さらに加えるならば、江川坦庵が内海台場の築造に、横浜村におけるペリー応接に、ジョン万次郎の庇護にと尽瘁した結果、風邪をこじらせて安政大地震前に他界してしまったことも、阿部正弘政権には大きなダメージとなった

安政二年に起きた大地震によって、水戸斉昭のブレーキ役を果たしてきた藤田東湖が落ちてきた梁の下敷きになって圧死したことも、致命的な出来事であった。ペリー来航を受けて、「自分を使節としてアメリカへ渡らせてほしい」と阿部正弘に願い出たほど軟化した斉昭が、彼の死後、糸の切れた凧同然にコントロールを失うからである。地震の直後には二宮金次郎が亡くなり、安政四年になると、震災の復興に奔走してきた阿部正弘が過労死に近い死に方で世を去ってしまう。

さて。

 安政大地震が起きたことで、阿部正弘が復興に専念することになり、ペリー以後の対外問題の処理は下総佐倉藩主堀田備中守正睦(まさよし)が外国事務取扱専任の老中として返り咲き、重職平野縫殿(ぬい)が補佐することになった。ところが、阿部正弘以下三人がいずれも過労死に近い死に方をし、「この手で始末してやりたかったのに」とばかりに悔しがりながら、遅ればせに井伊直弼が大老となって登場してきた。

溜の間詰というスタッフの長であるばかりか、大老というラインのトップにもなり、さらに次期将軍の継嗣君に幼君の紀州侯慶福を立てれば、井伊直弼の独裁が完璧に実現する。そうした見通しは幕閣内では周知の事実で、共通の認識であった。

こうした直弼の専横を斉昭が黙って見ているはずがなかった。ましてや、斉昭の子の一橋慶喜が将軍継嗣君候補になったとあれば、紀州侯慶福を担ぐ直弼との衝突は不可避とだれの目にも映った。

ところで。

松平河内守近直は筆頭勘定奉行として「松平伊勢守」と呼ばれたという事実がある。その事実に基づけば、阿部正弘の政策イコール松平近直の献策を暗喩しているわけで、それでいながら表の顔の阿部正弘が他界したとなれば、井伊直弼が黙って放っておくわけがない。徒目付といった最下位の警察官吏が勘定奉行のトップに据わって幕政を牛耳るなど、直弼にしてみれば言語道断である。それがまた、百姓上がりの二宮金次郎の後ろ盾となって、大いに能力を発揮させたとあっては、二重にも、三重にも、許しがたいことで、万死に値する。生きていても何もできない、死んだのも同然なら、気持ちとしては、近直には殉死しか選択肢はなかったと思われる。

松平近直のことを調べようとしても記録の上では生没年不詳である。と、いうからには、末をよくしなかったと理解せざるを得ないわけで、安政二年以前の江戸切絵図を見ると、小川町に松平河内守近直として役宅が、道路を隔てたすぐ目の前に私宅があるのだが、万延元年以後は役宅が講武所に変わり、私宅も別人の屋敷になってしまっている。ならば、安政大地震のために場所が変わったのかというと、松平近直の役宅と私宅以外はほとんど変わっていないのだから、理由はほかにあるわけだ。考えられるのがご禁制の殉死で、御家断絶、屋敷は没収、身内も連座という非業の末路である。

 松平近直が阿部正弘に筆頭勘定奉行に取り立てられる以前は徒目付という幕府警察機構の中でも軽い身分だったといわれる。警察組織の下僚にすぎない者がどうやって阿部正弘の目にとまったのかというと、仮説ではあるが、松平近直がまず隠密の間宮林蔵を介して加州侯に近づき、改革策を建言し、死期を覚っていた加州侯が改革延命のため老中を辞職した阿部正精に身柄を預けたというシナリオが考えられる。

 加州侯と阿部正精が策したのは阿部正弘の家督だけでなく、その補佐役まで早くから担保していたわけである。今となっては確かめようがないわけであるが、松平伊勢守が後世のわれわれに教えてくれたこと、そのすぐれた治世を思うとき、史実を云々することなどばかばかしくなってくる。

 さて。

松平伊勢守と呼ばれた男、すなわち、松平河内守近直のやったことが、幕末史の中でカポッと抜け落ちてしまっているのだが、再現しようと思えばやれないことではない。たとえば、二宮金次郎との関係から類推する方法がある。

 老中首座水野越前守忠邦は天保改革を将軍家慶に建策しておきながら、二宮金次郎を生かして使うことができずにすべて失敗して、天保十四(一八四三)年九月、失脚した。そのとき、金次郎の上役の勘定吟味役根本善左衛門も罷免されたが、金次郎本人はお咎めなしだった。

 二宮金次郎が幕臣に取り立てられたのは天保十三(一八四二)年十月二日のことであった。八月二日に勘定奉行岡本近江守正成の役宅に赴き、面接を受けて推挙を受けており、三日、水野忠邦がそれを受けて「普請役格」という役名で幕臣に取り立てた。幕臣登用からわずか一年で幕府の政策トップ水野忠邦、直属上司の勘定吟味役根本善左衛門が罷免されてしまったわけであるが、金次郎が連座させられなかった点が重要である。すなわち、二宮金次郎を生かして使うことができなかったのが、忠邦失脚の一因(ほかにも三方領地替えの失態などがあるが)だったであろうから、彼にお咎めがあるはずがなかったのである。

 果たして、弘化元(一八四四)年四月四日、金次郎は小川町の勘定奉行役宅に呼び出され、「日光御神領村々荒地見分致し起返方仕法付見込之趣委細可申上候」と命じられた。そのときの勘定奉行が新任の松平河内守近直である。

 日光御神領の村々を視察のうえ復興策を提言するようにという命令でありながら、三戸岡道夫著『二宮金次郎の一生』によると、金次郎本人は勘定奉行所の役人がその手配をしようとするのを次のように断っている。

《日光神領はかしこくも神君家康公の鎮座まします御領ですから、復興事業といっても、最高の仕法でなくてはなりません。すなわち仕法の理想、仕法の基本となるもの、他のあらゆる仕法のお手本となるものです。そのためには個別的なものではなくて、普遍的なものでなくてはなりません。現地を調査して、仕法書を作ったのでは、個別的なものになり、普遍的なものはできません(後略)」

 その金次郎の考え方に役人も賛意を示し、いよいよ日光神領仕法書作りの作業がスタートした》

 これは明らかに命令違反であり、奉行ならいざ知らず、役人が独断で賛成できる筋合いではないから、勘定奉行松平近直に相談のうえ「賛意」を示したと解釈すべきである。また、現地視察を拒否するくらいだから、日光神領復興事業はあくまでも幕府財政再建事業の隠れ蓑なのである。

《金次郎はこの仕事に専念するために、以前から頼まれていた各藩の復興事業からはいっさい手を引いた。そして、いっさいの来客を断って、日夜努力した》

《こうして出来上がった日光神領復興仕法書、すなわち『富国方法書』は、弘化三年(一八四六)六月二十三日に完成し、幕府に献上した。金次郎六十歳のときである。

しかし金次郎が、生涯の仕法の集大成として、二年三ヵ月の歳月をかけて心血を注いで書き上げたこの仕法書も、すぐには幕府によって実行されなかった。

それが実現されたのは嘉永六年で、七年間も待たねばならなかった》

 ちょっと、同書の解釈部分に疑問を呈すると、金次郎の仕法書は実行に移されたわけで、著者は「実現された」と表現している。実現されたのなら七年間は、むしろ迅速なくらいで、驚異的である。着手まで七年かかったのだとしても、仕法書の内容のスケールを考えたら、上々である。さらには金次郎が必要とする分度の計算と仕法の具体化に要する期間としては、それぐらいの歳月がかかるのは当然である。幕末史を研究する人たちの頭には、よほど「時の政権は無能だった」という先入観が抜き難く刷り込まれているようである。

          

 長井検事が代読を終えると、秦野裁判長が解説を加えました。

「三戸岡道夫著『二宮金次郎の一生』は事実がくわしく、よく調べられていて、文献資料としては好個の書物で、二宮金次郎について書かれた書物の中では、調べもののときには最も便利なのだが、ときとして解釈や解説の部分になると問題のある書き方になる。この『二宮金次郎の一生』の著者に限らず、白旗伝説の提唱者、ほか、すべての研究者には、なぜかよからぬバイアスがかかっていることは確かだ。頭から当時の幕府は無能無策と頭から決めつけて取り付くから、事実と解釈が食い違って、これまで述べたような二宮金次郎の偉業の数々が見えなくなってしまう」

「事実に反する記述が多すぎるということですね。そしてまた、そうした事実無根の記述が、「一犬虚に吼えれば万犬実をいう」のたとえで、思いがけず日本史にエアポケットをつくり出すわけですね。しかし、証拠となる事実やシチュエーションを積み重ねて判断すれば、記録にない事実を再現・再構成するのは可能だということですね」

「そういうこっちゃ。証拠能力の高い《踏まえるべき事実》を積み重ねていくと、《見えてくる事実》が現われる。日本史の考証法にそれが取り入れられたら、劇的に日本史の質が改まるだろう。しかし、つづきは次回の公判でやることにして、本日はこれにて閉廷」

 明日は何が飛び出してくるのでしょうか


(つづく)




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