ペリー来航に関して証拠事実をきちんと踏まえたうえでの考察(その7)


 長井検事による秦野裁判長の論述書代読のつづき……。

 

英仏が条約の改正を迫るのは不利益をこうむっているから

 

嘉永七年から安政二年にかけて、幕府は日米和親条約に引き続いて日英和親条約、日露和親条約、日蘭和親条約、日仏和親条約の順に締結していった。程なくして、アメリカを除くイギリス、ロシア、フランスが条約条文の改正を幕府に激しく迫ったという事実がある。

あらためていうまでもなく、条約の改正を迫るのは不利益をこうむっているからである。すると、和親条約締結時の幕府と五カ国とのせめぎあいはどういうことになるのだろうか。

日米和親条約調印を勝ち取ったアメリカのペリーより半年も遅れて艦隊を派遣してきたイギリスは、スターリング来航から日英和親条約調印までたったの一ヵ月強しかかけていない。一見、イギリスが二度にわたって来航して手間隙かけたように見えるアメリカよりうまく立ちまわったように受け取れるが、それなら幕府に条約条文の改正を迫るいわれはないわけである。「はてな」の思いで日米交渉、日英交渉の中身を煎じつめていくと、幕府とアメリカの巧妙な手際ばかりが目立ち、イギリスはまんまと一杯食わされたという結論に落ちつく。

フランスには生糸特需という特殊な事情があるから除くとして、利益側を日本とアメリカ、不利益側をイギリス、ロシアとすると、後者は前者にまんまとしてやられたことになってしまう。つまり、通商条約に照らして考えると、改正を迫る側と受けて立つ側が攻守ところを変えているわけで、すなわち、アメリカだけが和親条約の改正を幕府に働きかけなかったのはなぜかというと、アメリカと英露が幕府に求める条件が異なるのが原因ということがわかる。

 一八四四年七月三日、アメリカ政府は清国と通商条約(望厦条約)を締結して調印し、太平洋横断航路を開く決定を下した。アメリカ全権公使ケーシブ・クッシングは清国滞在中からジョン・タイラー大統領に対日条約交渉開始を提案、それを受けるかたちでアメリカ下院特別統計委員長プラットが日本に国交樹立と通商を求める使節を派遣するよう提案した。しかし、対日交渉開始はいつも掛け声だけで終わってしまう。その原因を次のデータが物語っている。

アメリカ 輸出額   一、三二〇、一七〇ドル

       輸入額   六、六八六、一七一ドル

  英  国 輸出額  三五、九二九、一三二ドル

       輸入額  一七、九二五、三六〇ドル

  その他  輸出額     四〇一、〇二五ドル

       輸入額     八九五、八九六ドル

 アメリカの対清貿易は五、三六六、〇〇一ドルの入超、イギリスは一八、〇〇三、七七二ドルの貿易黒字である。しかし、アヘンの貿易額はトータル二千万ドル、それを差し引いて、まっとうな貿易額に限ると二百万ドル弱の赤字へと落ち込んでしまう。アメリカがイギリスの偉大な競争者といわれるのは、次の数字の物語る現実が原因である。

  一八三五年    一七二、〇〇〇ドル

  一八四〇年    三六一、〇〇〇ドル

  一八四三年  一、〇〇三、〇〇〇ドル

  一八四四年    五四七、〇〇〇ドル

数字は一八三五年から一八四四年にかけて十年間の清国向けアメリカ産綿製品の輸出額である。イギリスの綿製品輸出は百四十万ポンド前後で頭打ちの状態だが、少なめに見て半分をアメリカ製品が取って代わるとすると、どういうことになるだろうか。

逆説めいたいい方になるのだが、貿易額でイギリスに大きく及ばないのがアメリカの強みであった。なぜなら、イギリスの輸出品からアヘンを除くと残りの大部分は綿製品である。イギリスが清国に輸出している綿は英領インド産でアメリカ産に比べて品質がかなり劣り、耐久性がない。取って代われる余地が膨大なだけ今後のポテンシャルに期待が持てるわけだ。すなわち、綿製品を清国に運ぶことができればいくらでも売れる。そのためにも太平洋航路を整備しなければならない。綿製品、捕鯨、どちらにも共通する喫緊の要請が石炭補給地の確保であった。三、〇〇〇トン級の蒸気船が主力になると見られていた時期だから、そうなると石炭の消費量はもっと多くなる。したがって、日本に石炭の補給地を持たなければ就航できないのである。三、〇〇〇トン級の蒸気船を就航させることができなければ綿製品の輸出は増やせないから、対日交渉の落しどころはすでに実現をみている薪水給与令を条約に変えるだけでよかった。

 

アメリカは二港開港が対日要求のすべて

 

マンハッタン号の対日派遣で日本政府の反応は「ゴー」とわかっていたから、アメリカ政府にとっては「太平洋航路の開設」が対日交渉開始にゴーサインを送るタイミングだった。ところが、太平洋航路の開設が実現をみたとき、直後に政権がアンチ・ジャクソンドクトリン派のホイッグ党に渡ってしまい、そうした認識なくペリー艦隊が派遣されてしまった。

ジャクソン・ドクトリン派が政権を取り戻したのは、ペリー艦隊派遣の直後だ。

「アー、ペリー君、喧嘩腰では駄目だよ。ジョン万情報を裏づけるプレゼントを急送するから、当座、国書を手渡す以上のことは差し控えるように」

 もちろん、アメリカの本国政府がそのようないい方をするわけがない。しかし、意味する内容は同じである。だから、第一次来航のときのペリーが喧嘩腰だったと解釈するのはわかるとしても、第二次来航のときのペリーはまるで「別人二十八号」だったということを見抜けないと、日本史を見る目はどんどん曇っていってしまう。

 すなわち、アメリカは二港開港が対日要求のすべてで、日本海捕鯨のために函館、太平洋航路の石炭補給地として下田、ジョン万次郎が手紙に書いた二港を開くだけで満点だったのである。

 日米和親条約について付け加えることがあるとすれば、日本がアメリカに先んじて貿易を開始しないようにするブレーキを仕掛けることくらいだったであろうか。いわゆる最恵国約款の締結にペリーがことのほか熱心だったといわれるのは、そのためである。すなわち、他日、日本が第三国とアメリカより有利な条約を結んだ場合、直ちにそれをアメリカにも認めるというもので、こうした事実の向こうに新しく政権の座に就いたジャクソンドクトリン・ホワイトハウスの本音が洩れ聞こえるようである。

 鎖国日本は自給自足経済で通商条約を締結しても意味がない。輸出する商品の用意がないばかりでなく、二宮金次郎の分度仕法による厳しい倹約生活は輸入品を必要としていない。好戦的と誤って伝えられるペリーを背後で操る本国政府は「開国」という実を取り、「通商」という名分は最初から捨ててかかっていたのだった。

幕府はつづけて同年八月二十三日、日英和親条約、同年(十一月二十七日に安政と改元)十二月二十一日、日露和親条約、明けて安政二年十月十五日、日仏和親条約を締結。神奈川条約第八条の最恵国条款を楯にとって、いずれの国にも通商を認めなかった。「開国」は最早必至、「通商の先送り」を最大の課題と心得、アメリカを防波堤にしたわけである。

アメリカのジャクソン・ドクトリン政権もまた日本の国情をよく見極め、確信犯的に通商条約締結を先送りし、後続の英仏露に対し打つべき手を講じたのである。

それでも、

「ペリー艦隊を迎えた幕府は何の対策も持たず周章狼狽するだけだった」

 こんなことがいわれつづけるのだろうか。

          

 長井検事が代読を終えると、秦野裁判長がしみじみと述懐しました。

「日本史だから、日本を中心に見て、考える。必ずしも、それを悪いとはいわんが、外交の相手国を研究しないというのはまずいやり方だな。アメリカは綿花と綿織物の国だったから、一番有力な貿易相手国は清国だった。しかも、清国向けの綿製品の輸出は、イギリスとの競争に勝って、急速に伸びていた。したがって、日本との貿易よりも太平洋航路の開設と整備が優先した。太平洋航路のためには下田、日本海を漁場とする捕鯨船のためには函館、以上の二港の開港で当座の成果としては十分だった。こうした、シチュエーション事実というものをだな、もっと正確に掘り起こすくせをつけにゃいかんな」

「私は中世史が受け持ちですが、せいぜいこころがけるように致します」

「まず一人起ての精神でいこうか」

 こうして、本日の公判は幕を下ろしました


(つづく)




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