ペリー来航に関して証拠事実をきちんと踏まえたうえでの考察(その4)


 ペリーの第一次来航と第二次来航の背後に、あっと驚くような事実が隠されていることを、本当の意味でよく理解してもらうために、アメリカ政府の伝統的対日外交方針を、もう一度、おさらいすることにします。

 いつものように秦野裁判長の論述書を長井検察官が代読して公判が始まりました。

 

 微笑外交に徹するジャクソン・ドクトリン

 

艦隊を後ろ楯にした砲艦外交よりも文官を全権公使として派遣し進物と交渉で成果を挙げようという第七代大統領アンドリュー・ジャクソンの対日外交方針を、私は「ジャクソン・ドクトリン」と呼んでいる。いわゆる「微笑外交」である。この事実をほとんどの日本人が理解していないということが、私としては残念でならない。

さて。

 アメリカ東インド艦隊の派遣は嘉永三(一八五〇)年の『オランダ風説書』で予告済みで、嘉永五(一八五二)年の『別段風説書』では《少し延期もあるかもしれないが三月上旬あたり》と時期を決めたことが幕府に伝わっていた。すなわち嘉永三年を起点とすると、第一次来航の嘉永六(一八五三)年時点でも二年前後遅れたことになる。したがって、嘉永三年の時点では「実物の四分の一大の蒸気機関車」は進物リストになかったのだと思う。しかし、「少し延期もあるかもしれない」という延期の原因をいわゆる消去法で絞っていくと、「進物リストの追加品」になる。追加が検討されたのは、もちろん、「実物の四分の一大の蒸気機関車」である。問題はなぜアメリカ政府が「実物の四分の一大の蒸気機関車」を艦隊の訪日を二度に分けるほど重要視したかである。

「実物の四分の一大の蒸気機関車はジャクソン・ドクトリンの最大の目玉であり、日本に開国を決断させる何よりも雄弁な物的決め手」

「第一次来航の嘉永六(一八五三)年六月三日より先への延期は経済的利害損得を考慮してもあり得ない選択肢」

本当はもっと複雑な事情がからむのだが、当座、理由はこの二点ということにしておく。

しからば、どうしてそういう判断になるのだろうか。

ここで問われるのが、アメリカ政府首脳の判断の土台になったであろう対日認識である。だれもがそれを共有しなければならない。

 

 日本を賛美する気風ジャポニスモ

 

 ペリーが事前に日本に関する文献を読み漁って日本研究に没頭したことはよく知られている。そういう皮相的な知識より大事なのが、それによってどういう知識を得たかということだ。エンゲルベルト・ケンペルの『日本誌』とカール・ツンベルクの『日本植物誌』『江戸参府随行記』の三冊も当然含まれていた。

ケンペルも、ツンベルクも、オランダ商館付きの医師で、植物学者だった。ケンペルは二年、ツンベルクは一年しか長崎に滞在しなかったのだが、カペタンの参府に同行したときの見聞録を帰国してのちに残した。ケンペルの『日本誌』には切り絵図などよりずっとリアルな江戸の地図が掲載されており、「日本には聖職的皇帝と世俗的皇帝ともいうべき二人の支配者がいて国を統治している」というようなことが書かれている。

ツンベルクの『日本植物誌』には六百種もの日本の植物が絵入りで記載されており、それらのうち、フランツ・フォン・シーボルトの目を釘づけにしたのが西欧では絶滅していた公孫樹だった。当時、公孫樹の木が日本に生えていたという事実がヨーロッパで衝撃的に受け取られて、〈生きた化石〉として話題をにぎわせた。シーボルトがケンペルやツンベルクから百年以上も後れて日本へ渡ったのは公孫樹を見たいがためだったということである。

 それはさておき。

ケンペルの『日本誌』はゲーテ、カント、ヴォルテール、モンテスキューなどが愛読し、ディドロの百科全書の日本に関する項目はすべて同書の記事を要約したものだという。そして、フランスを中心にルネサンスに強い影響を与えて、フランスでは「ジャポニスモ」として日本を賛美する気風を醸成した。

 

オーリックからペリーに提督が交代した原因

 

嘉永三(一八五〇)年の『オランダ風説書』はアメリカ政府の日本への艦隊派遣を予告し、さらに同五年の『別段風説書』は司令官がジョン・オーリック准将からペリー准将に変更されたこと、艦隊の規模、艦船の名まで知らされていた。しかし、ここで補足するのはオーリックからペリーに提督が交代した原因である。

 ジョン・オーリック准将は、嘉永四(一八五一)年二月、アメリカ東インド艦隊の司令官として香港に到着したのだが、航海中、旗艦サスケハナ号の艦長インマン大佐と折り合いが悪く、寄港地リオデジャネイロで更迭して帰国させてしまった。アメリカ海軍省グラハム長官は、サスケハナ号の艦長を解任されて帰国したインマン大佐から事情を聴取して、オーリック司令官が海軍兵学校生の息子を秘書にして同行したり、その他、公私混同の事実をいくつか把握した。サスケハナ号にはシュバリエ・マセド駐米ブラジル公使、ロバート・シェンク駐ブラジル米国公使、ペンデルトン駐アルゼンチン米国公使の三人がリオまで同船し、そのうちシェンク公使が国務長官ウェブスター宛に「オーリックは私費で私たちを送ったといっている」と手紙で知らせたため、フィルモア大統領はグラハム海軍長官に指示してオーリック司令長官を十一月十八日付で更迭、ペリー准将を新たに司令官に任命して香港に派遣した。

 

ペリーは日本と日本人に畏敬の念を抱いてきた

 

アメリカ政府が対日外交の全権大使を目的地入り直前になって交替させた事実は、司令官の人格をいかに重視したかの表れである。実物の四分の一大の蒸気機関車という進物の目玉を欠いて、艦隊だけで折衝するわけだから、旗艦の艦長と折り合いを欠くようでは困るわけだ。

また、オーリックを司令官に任命した時点で、第一次浦賀来航と第二次来航が事前に計画されていたことも、間接的に証明された。

ゲーテ、カント、ヴォルテール、モンテスキューなどがケンペルの『日本誌』を愛読、ディドロの百科全書の日本に関する項目はすべて同書の記事を要約したものであること、そして、フランスを中心にルネサンスに強い影響を与えて、フランスではジャポニスモとして日本を賛美する気風を醸成したというシチュエーション事実に、オーリックからペリーに司令官を交代させたアメリカ政府の見識を重ね合わせると、ケンペルの『日本誌』を読んできたペリーが日本と日本人に対して畏敬の念を抱いていたことは疑いようがない。

新任の遣日使節にペリーが決まったとき、日本を追放されたシーボルトが自分を使節団のメンバーに加えるよう強く働きかけたといわれる。しかし、ペリーは一蹴した。理由は日本を開国させるには軍事的圧力以外の方法はあり得ないといい張ったためといわれる。まったく逆に強硬姿勢のペリーにシーボルトがアメリカの伝統的対日方針である微笑外交に徹するようアドバイスしたため忌避されたとするまったく逆の説明に接することがあるが、「ペリーの強硬姿勢」という日本人の伝統的誤解が招いたガセネタの一種と本講座は理解することにしている。それにつけても、日本から追放を受けた身でありながら、遣日使節に自分を加えろというシーボルトの見識の低さはどうしたことだろうか。本当は自分がヨーロッパに持ち帰って法外な高値をつけるに至った日本産の百合根で莫大な利益を得ようとした疑いが濃厚である。未遂に終わったため、何も知らない世間に気づかれなかっただけだから、ペリーが検討に値せずとシーボルトの売り込みを一蹴したのは当然というべきであろう。

少し、くわしく解説を加えると、日本を追放されるときにシーボルトが持ち帰った百合根は、赤道を二度も通過する過酷な航海のためほとんど腐敗死してしまったのだが、辛うじて蘇生の可能性のある一、二球が懸命の手当てで蘇り、花を咲かせたところ熱狂的な反響があって、投機的な価格で欲しがる好事家・園芸家が続出した。園芸に対する嗜好性は日本人の理解するレベルをはるかに超えていることをここではきちんと認識して理解する必要があるわけで、好事家・園芸家の競り合いで天文学的高額に達した蘇生株から増やした子株が、しばしば盗難の被害に遭っている事実を思えば、ヨーロッパの園芸熱の程度が少しはイメージできると思う。今日でも盆栽熱の高まりが本国日本の比ではないことも判断材料の一つになるだろう。日本人は値段を見て買うか買わないかを決めるのだが、欧米の好事家は欲しいとなると全財産をはたいても欲しいと思い、欲しいと思わなければ見向きもしない。明治期の前半に日本の百合根の輸出が貿易商にどれほどの利益をもたらしたかを考えれば、シーボルトの遣日使節参加要請の動機は事業欲だったという解釈になる(百合根貿易は副産物的薀蓄として、これ以上の解説は脇に置くことにする)。

 親日的素養を得たペリー准将であったとするならば、第二次来航時、日米交渉の場を横浜にするよう強硬に迫ったかに見えたのは、実は第一次来航のときに江戸沖まで侵入し、たっぷり二キロメートルはある砂嘴の存在を確認したためであり、なおかつ実物の四分の一大の蒸気機関車を走らせるためのレールを敷くのは「久里浜よりも江戸に近い横浜村しかない」と判断したためと思われる。

 以上のような認識を欠いてしまうと、「幕府は黒船の圧倒的な軍事力とペリーの威嚇に屈した」などというとんでもないデマゴーグが生まれたり、幕府に白旗を掲げるよう伝えるペリーの『白旗書簡』が存在するとされたり、ペリーの砲艦外交の証拠として『白旗伝説』が唱えられたり、こうした噴飯物の主張や論争が横行してしまう。もって戒めとしたいものである


(つづく)




ブログランキングに参加しています。
↓ポチッとお願いします↓
人気ブログランキング