献上品は「ペリー艦隊の第一次来航」に間に合わなかった
ペリーが対日交渉に臨む前に、応接地の横浜で四分の一大の蒸気機関車を走らせた事実を知らない人のほうが、昔はめずらしかったはずなのですが、今では話題にもされなくなってしまいました。
「日本人に最先端の技術を見せて、外交交渉を有利に運ぼうとした」
この程度の理解レベルで解説が行われてきたのですから、文明が日進月歩を遂げていくのが当たり前の時代にあって、時が経つにつれて忘れられていくのは当然の帰結といえます。
しからば、ほかにどのような意味合いがあったのでしょうか。
本日の公判では、そのことに言及する論述書が長井検事によって代読されるはずです。
アメリカ東インド艦隊の日本遠征は、アメリカ側の都合からすれば二度に分けるより一度で済ませるほうが経済的である。したがって、「補給艦レキシントン号が第一次来航に間に合わず、嘉永六(一八五三)年十二月香港到着と遅れに遅れて、ペリーの来日艦隊への参加は明けて嘉永七年一月の第二次来航になったこと、そして、日本政府に進呈する進物の中に電信機や銀板写真機などのほか、実物の四分の一大の蒸気機関車と炭水車、客車および二キロメートル分のレールがあったこと。それらはすべてレキシントン号が本国から運んできたもの」という事実が先にあって、その結果として「ペリーの来航が二度にわたった事実と理由」が生じたのは明白だから、「補給艦レキシントン号がペリー艦隊の第一次来航に間に合わなかったのはなぜか」という疑問を解くのに必要な「踏まえるべき事実」を一つ、ここに掘り起こしたことになる。
すなわち、補給艦レキシントン号が間に合わなかったと考えるより、「実物の四分の一大の蒸気機関車」ならびに進物品の調達が「ペリー艦隊の第一次来航」に間に合わなかった、と、理解するのが妥当である。当然、調達を完了してからくるほうが賢明ではないかという疑問を伴うわけであるが、オランダ商館長が幕府に提出した嘉永五(一八五二)年の『別段風説書』で訪日を予告し、なおかつ〈少し延期もあるかもしれないが三月上旬あたり〉と時期まで伝えてあることを考えると、第一次来航の嘉永六(一八五三)年六月三日、それ以上の延期は経済的利害得失を考慮してもあり得ない選択肢だったのではないか。
マカオに基地を置くアメリカ東インド艦隊の司令長官が後述するようにオーリックからペリーに交替したタイム・ロスも考慮に入れる必要がある。
と、なると、
「日本政府に進呈する進物の中に実物の四分の一大の蒸気機関車は史実として厳然と存在したわけだが、それはいつどこで製造されたのか」
「実物の四分の一大の蒸気機関車は出来合いか、日本向けの進物用につくられたものか」
いずれの答えも自明になってくる。
出来合いなら遅延の原因になり得ないのだから、本国の工場で日本向けに新たに製造中だったことになる。それが間に合わないとわかった時点で、二度に分けて訪日することが決まったのだろう。本当は違うのだが、推理途上の現時点においては、ひとまず、そういうことにしておく。
秦野裁判長の論述書を代読したうえで、長井検事は次のようにいいました。
「四分の一大の蒸気機関車を、わざわざつくる理由は重大ですね」
「ほお、そうかね」
秦野裁判長が非常に満足そうに笑みを浮かべながら、わざと気のないふりをするのは、長井検事にもっとしゃべらせたいからなのでしょう。
「前回も、申しあげたように、蒸気機関車および鉄道一式の購入計画は、将軍家慶が老中首座水野忠邦に命じて実現させようとした事実の重大性に、ますます興味深く目を向けさせてくれるからです。アメリカ政府の立場からすると、実物の四分の一大の蒸気機関車および鉄道一式をわざわざつくって、なおかつ海上輸送の危険を冒してまで持参するほど、家慶の意向を重要視した事実を浮き彫りにして見せてくれるからです」
「ペリーが持参した実物の四分の一大の蒸気機関車と将軍家慶が水野忠邦にオランダから蒸気機関車を買い付けさせようとした事実を結びつけて考えると、あるわ、あるわ、類似の事実がほかに二つもあるんだよ」
「えっ。ほかに、二つも?」
「驚いたかね、明智君」
秦野裁判長の十八番が出ました。
「日本人に最先端の技術を見せて、外交交渉を有利に運ぼうとした、などという従来の解釈がいかに浅薄な理解のうえに行われているか、もはや、あらためて説明するまでもなかろう」
そういってから、秦野裁判長はもう一枚の論述書を長井検事に手渡して、代読を指示しました。
ロシア使節プチャーチンも模型の蒸気機関車を持参した
ロシア使節プチャーチンは、実は嘉永六年の長崎交渉前に広東へ行って、アメリカ領事に「アメリカと共同で対日交渉をやらないか」と持ちかけていた。そのときペリーは第一次浦賀来航で出払っており、共同歩調を断念して単独で長崎へ行き、海防掛川路聖謨、大目付筒井政憲、長崎奉行水野忠徳、組頭永井尚志らと交渉した。そのとき、プチャーチンはロシア最優先の約束を取りつけたこともあり、ペリーが国書を渡しただけでマカオに引き返したと聞くと、翌年の再来航のときこそ共同作戦を取ろうと決意した。プチャーチンが幕府側から約束を取りつけただけで満足したのはそのためである。
長崎から退去すると、プチャーチンはマカオへ急行、浦賀再来航の準備を進めるペリーに「ロシア最優先」の約束を伝え、共同作戦を持ちかけた。しかし、ベリーはトルコと戦端を開いているロシアが近くイギリス、フランスから宣戦されるのは必至と見通し、プチャーチンの申し出を拒絶した。予定では一年後であるはずのペリー浦賀再来航が早まったのは、何としてもプチャーチンより先に交渉に入る必要があったからである。ペリーが最恵国条項に特にこだわったのはこのことも一因だった。
プチャーチンは他力本願ながら函館が開港されたことを歓迎したが、あくまでも開国イコール通商と考えて、開港されたばかりの下田へ来て幕府と交渉に入った。だが、ペリーが残した最恵国条項が大きな壁となって立ち塞がった。おまけに、下田の町並みを押し流すほどの大津波に襲われた。震源地は紀伊半島南端で揺れはそれほどでもなかったそうだが、家屋の流失した下田は泥の海と化し、当然、被害はロシア艦隊にまで及んで、プチャーチンが乗る旗艦ディアナ号が座礁、船底を大破するなどまさに踏んだり蹴ったりとなった。結果として、日米和親条約に準じた日露和親条約を結ぶことを余儀なくされてしまった。
嘉永七(一八五四)年十一月二十七日、安政と改元。
安政元(一八五四)年十二月二十一日、幕府、日露和親条約に調印。
フランスは日本の輸出用生糸の増産待ちの姿勢だったからだろうか、日仏和親条約の締結は安政二(一八五五)年十月十五日と、ひどくのんびりしたものだった。
さて。
プチャーチンの長崎来航で注目させられるのは、本国から持参した蒸気機関車の模型をテーブルに敷いたオモチャのレール上を実際に走らせたという事実である。
長崎警衛の佐賀藩主鍋島直正はこれに興味を抱いて、精錬方の中村奇輔を派遣、模型の構造を調べて各部を図面に落とさせた。そして、中村が持ち帰った図面を田中久重らにつくらせたことはかなりよく知られている。と、いうのは、模型の蒸気機関車をつくった田中製造所が東芝の前身であり、田中久重こそ「からくり儀右衛門」「東洋のエジソン」と呼ばれて、東京芝浦製作所の創業者だったからである。
