実物の四分の一大の蒸気機関車、レールほか鉄道一式が物語る驚天動地の日米幕末交渉史
本日の公判廷のテーマは「ペリー来航に関して証拠事実をきちんと踏まえたうえでの考察(その1)」です。日本史法廷を指揮する秦野裁判長にとっても、過去の定説を訴追する立場の長井検察官にとっても、ようやくここまできたかと感慨一入であろうと思います。
これまで、ペリー来航に関しては、証拠となる事実も何のその、史料の片言隻句をとらえて空想・妄想を逞しくして、好き勝手なことが論じられてきました。日本史中、最も非科学的、非論理的な記述が公然と行われてきた無法地帯のような領域ですから、秦野裁判長、長井検察官が、揃って気合を入れて臨むのも無理はないのです。
しかし、余のことはさておき、本講座は真面目に証拠となる事実を提示し、あるがまま素直に解釈する姿勢に徹して参ります。
開廷に先立って、秦野裁判長はいいました。
「傍聴人にお願いしたことは、間違っても、これまで聞いた日本史と違う、ということを基準に考えないでいただきたい。明治維新政府の意向を受けた御用学者が事実曲げて解釈したのが教科書日本史ですから、それを判断の基準にされたら、知らない者が間違ったことをいう人間の解釈を鵜呑みにするだけのことで、考えるだけばかをみることになるからです。あくまでも、事実を踏まえて、自分ならその事実から何を教わるか、そういう姿勢に徹していただきたいのです」
裁判長が傍聴人に対して、このような注文をつけるのは、極めて異例中の異例なことですが、そうすることに深い意味があるのだろうと素直に受け取って、まず長井検察官による秦野裁判長の論述書朗読から始めることにします。
ここに一枚の絵がある。幕府応接掛の面々が再び来航してきたペリーを横浜村で応接している場面で、アメリカ政府が幕府に献上する実物の四分の一大の蒸気機関車が陸揚げされたところである。蒸気機関車の煙突の高さは応接掛の幕臣の背丈ほどだから、それから類推して、実物は今日のSLほどには大きくなかったようだ。
陸揚げされたばかりの蒸気機関車のミニチュアを間に置いて、二人の武士が手振りで語り、周囲でも三々五々話題の花が咲いているように見受けられる。このあと、応接地に四分の一規格のレールが円形に敷設され、炭水車、客車を牽引して、話題の蒸気機関車が煙突から煙を吐いて走った。線路の円周は二〇〇メートル、その上を実物の四分の一大の蒸気機関車、炭水車、客車が一連となって時速三〇キロで驀進したのである。汽車の屋根に幕臣が一人またがり、必死の形相でしがみつくポンチ絵があったように記憶する。
それから一世紀半以上を経た今日、最新式の蒸気機関車でさえ過去の記念物となり、それよりもっとレトロな実物の四分の一大の蒸気機関車のことなど話題にする人もなくなった。
しかし、本法廷の裁判官としては「はてな」と思わざるを得ない。
「どうして、あんなものを持ってきたのか。あのときの蒸気機関車は何だったのか。そして、なぜ、二度目だったのか」
ペリーは嘉永六年と七年の二度来航していて、これもおかしな話なのだが、当座、そういったことは不問に付すことにして、ここではあくまでも蒸気機関車に注目していくことにする。プレゼンターのアメリカ大統領が蒸気機関車を実物の四分の一大の模型にしたのは、海上輸送の安全と陸揚げの都合からだというのは容易に推測がつく。電信機や銀板写真機、五連発式スミス&ウェッソンなど他の献上品は嵩も小さく重量も大したことないから、海上輸送の安全面に問題はなさそうだし、陸揚げも容易である。それだけに、なおさら実物の四分の一大の蒸気機関車だけが重量と嵩の面で突出して目につく。これがあるとないでは、輸送艦レキシントン号の船体バランスが大きく違ってくる。当時は本国ボストン軍港ないしはニューヨーク港からアメリカ東インド艦隊の基地マカオまでの航路は、荒れることで知られるホーン岬経由か喜望峰まわりだったから、実物の四分の一大の蒸気機関車のような嵩張った重量物はなるべくなら積みたくないはずである。にもかかわらず運んできたということは、それなりに重要な役割を担っていたと推認せざるを得ない。
踏まえるべきは「ペリーの来航が二度にわたった」という事実
幕末史、開国史というと判で押したように黒船来航、ペリー来日が真っ先に取り上げられる。踏まえるべき事実の違いを楽しむためにも、本書もまた時系列を無視して黒船来航、ペリー来日から始めることにしたい。
さて。
ペリー准将率いるアメリカ東インド艦隊の浦賀来航は二度にわたり、「遅れて第二次来航に参加してきた補給艦レキシントン号の積荷に実物の四分の一大の蒸気機関車と二キロメートル分のレールがあり、進呈のセレモニー兼デモンストレーションとして横浜に線路を敷設し試走が行われた」という事実が厳然として存在する。後述のように重大かつ意義深い背景を秘めているにもかかわらず、過去に一度も問題にされたことがないのはどうしてか、という疑問についてはすでに言及した。
だれも着眼してこなかった次の事実から、とてつもなく重大な背景が紡ぎだされる。
「ペリーの来航が二度にわたった事実と理由」(A)
「補給艦レキシントン号が第一次来航に間に合わず、嘉永六(一八五三)年十二月香港到着と遅れて、ペリーの来日艦隊への参加は明けて嘉永七年一月の第二次来航になった。そして、日本政府に進呈する進物の中に電信機や銀板写真機などのほか、実物の四分の一大の蒸気機関車と炭水車、客車および二キロメートル分のレールがあった。それらはすべてレキシントン号が本国から運んできたものである」(B)
以上の事実をモンタージュすると、
「Aの事実が先にあって、それゆえに補給艦レキシントン号の参加が第二次に見送られたのか」
「あるいはBの事実が先で、やむを得ずペリーが二度に分けて来航することになったのか」
「さらには実物の四分の一大の蒸気機関車一式は出来合いなのか、日本向けに新しくつくられたのか」
以上、三通りの疑問が解ければ、「レキシントン号の香港到着がなぜペリーの第一次浦賀来航後で、第二次来航直前の嘉永六年十二月になったのか」という疑問はおのずと解けるはずである。
呆気ないほど短い論述書ですが、読み終わった長井検察官の顔色はただごとではありませんでした。驚愕と呆然がない交ぜになったような驚きの表情というのも妙ですが、驚くのも無理はないのです。
この厳然たる事実が示す意味は歴然としていて、これまで、なぜ、考えようとしなかったのか、と、だれもがその迂闊さに気づいて驚くのですから。
まず、第一に、以上の事実は、将軍家慶が老中首座水野忠邦に命じて、オランダから蒸気機関車を買い付けようとした事実の重大性に目を向けさせてくれます。残念ながら輸送手段がないために実現しませんでしたが、大西洋航路を使って蒸気機関車をイギリスから輸入できたアメリカが、その後、急速に鉄道網を張りめぐらせた事実に照らせば、その意図するところの重大性が容易に理解できるはずです。
こうした動きを受けての異国船打払令から薪水給与令への転換であったという点についても、大きな意味を持つといえます。
