輸出用生糸の増産と輸出に関する時系列的考察(その2)


 輸出用生糸増産のために働いた人々(その1)

 

 輸出用生糸の増産に関するおさらいのうち、増産のために働いた人々についての解説のつづきです。

 

剣客斉藤弥九郎の意外な一面

 

 江川坦庵に代わって動いたと考えられるのが、斉藤弥九郎です。弥九郎は越中富山の山奥の農家の出身で、蘭学者として出世するため江戸に出ました。蘭学を修めるかたわら岡田十松の撃剣館で神道無念流を学び、同門の坦庵に韮山代官手代に取り立てられ、援助を受けて練兵館道場を開いたのです。韮山代官手代で蘭学者、剣客でもあったわけです。

 大塩平八郎が大坂で反乱を起こしたとき、弥九郎は坦庵の私的な隠密として急行し詳細な報告をもたらしています。代官手代は隠れ蓑で、坦庵の私的な隠密がその正体とみてよいでしょう。坦庵自身もおしのびで支配地を巡検することが多く、そのときには弥九郎が一人で従いました。生糸の増産方法の習熟と護衛を兼ねたと思われます。

ただし、韮山代官手代というだけでは行動範囲が限られます。しかし、弥九郎は剣客として全国諸藩の藩士を弟子に持ち、出張指南を行っていましたから、輸出用生糸の増産を持ちかける親藩に出入りするうえで口実を設けやすく、実行役としては最適任でした。まして当時の弥九郎は練兵館道場を息子の新太郎に任せて隠居していましたから、行動の自由が利いたのです。

 長州藩士桂小五郎を弟子にした縁で息子の新太郎が長州藩の剣術指南役を務めていました。そうした関係から、弥九郎もしばしば長州に出向いており、上方方面に土地勘があったことから紀州、尾張、越前の三親藩を受け持ったのではないでしょうか。

残る川越藩、川越藩前橋御分領、会津藩の受け持ちが弥九郎の弟子で砲術商の中居屋重兵衛でした。祖母が小田原出身で川越藩儒者杉村霞皐の妻でしたし、会津藩士とも交わりがあり、特に書家佐瀬得所と懇意にしていましたから、人脈からいっても打ってつけでした。

すなわち、斉藤弥九郎と中居屋重兵衛の師弟コンビにより、徳川親藩で輸出用生糸の増産が進められたとみる以外に考えようがないのです。

阿部正弘、松平近直、二宮金次郎のグループに江川坦庵に加えて斉藤弥九郎、ジョン万次郎、中居屋重兵衛が加わってきました。三人とも農民か漁民という出自です。井伊直弼にしてみたら、ますます許しがたい事態です。

 

殿中で「松平伊勢守」と呼ばれた男

 

しっかり考証しつくして判明した空白部に大胆な仮説を投げ込んで全体像を描き上げるのが、ジグソーパズル式シチュエーション組立法です。ジグソーパズル式にモンタージュ画像を完成させるため、ペリーの第二次浦賀来航に参加したレキシントン号にミスターXが乗っていたと仮定したらどうでしょうか。

もっとも、レキシントン号のことは、後述の「その47・ペリー来航に関して証拠事実をきちんと踏まえたうえでの考察(その1)」にならないと言及できないのですが、伏線のつもりでご記憶ください。すなわち、実物の四分の一大の蒸気機関車を進物に加えるようブキャナンとウィリアム・キングに意見具申したのは、実はミスターXだったのです。

もちろん、デフォルメ仮説です。そのつもりで、以下のことを記憶に留め置いてください。すなわち、ミスターXがアメリカへ渡って最初に目を奪われたのが、過去に言及したごとく「蒸気船」と「鉄道」でした。もちろん、電信という通信手段にも度肝を抜かれました。ただし、ペリーが持参した幕府に献上する進物のうち電信は出来合いを積み込むだけです。蒸気船はサスケハナ号とミシシッピ号が艦隊に編成されています。しかし、鉄道はそうはいきません。船に積むだけなら不可能ではないのですが、極東への輸送は大西洋航路のようなわけにはいかなかったのです。西まわりはホーン岬、東まわりは喜望峰という大荒れの海の墓場が待ち受けます。そこで、危険を小さくするため四分の一に縮小した蒸気機関車を新たに製造して持参し、応接地の横浜でデモンストレーションを行い、海の向こうの文明社会の一端を垣間見せたわけです。くわしいことは次回の公判で明らかになるはずです。

もう一つ付け加えるならば、浦賀来航に最後まで間に合わなかった大事なものがあります。スクリュー推進式蒸気軍艦で、ペリーが懇望して艦隊に編成したといわれます。しかし、故障して修理にまわったため、外輪推進式蒸気軍艦二隻になってしまいました。もし故障しないで参加していたら、どれほど日本人を驚かせたでしょうか。

最後に立てる仮説が、ミスターXの密航が松平河内守近直の発案だということです。ミスターXを音吉とすることができれば、仮説ではなくなるのですが、音吉には房総に土地鑑がありません。薩摩藩と幕府の微妙な関係に通じていません。デフォルメ仮説として音吉とは別人のミスターXを存在させないと、辻褄が合わなくなることが多いのです。そして、そのミスターXをアメリカへ送り出したのが松平河内守近直であったとすると、彼の人物をもっとよく知る必要があります。

時の老中首座阿部正弘によって勘定奉行に抜擢された松平河内守近直は伊勢守正弘の「懐刀」といわれ、「松平伊勢守」と異名を取った事実が伝わっています。

松平伊勢守と呼ばれるほどの懐刀ぶりは前述の土岐頼旨と森山栄之助の人事がよい例で、下位の者が働きやすいように上位の者を犠牲にして後ろ楯を務めさせるというパターンが随所に見受けられます。二宮金次郎がやりやすいように自分が後ろ楯となり、ジョン万次郎が帰国してくると江川坦庵を後ろ楯に指名しました。井伊直弼が大老就任の機会を虎視眈々とねらいすまし、「守旧の大剣」を研ぎ澄ましているとき、二宮金次郎やジョン万次郎の後ろ楯になるのは生命を危険にさらすことを意味します。

ましてや出世など絶望的です。

ペリー来航後の安政二(一八五五)年一月十六日に病没した韮山代官江川太郎左衛門坦庵の葬儀法要が浅草本法寺で営まれたとき、松平近直は「わが不明を悔ゆるも、泉下の霊に謝するに由なし、如かず、ただその嗣子と親交してわが丹心を表せんにはとて、その英敏を見ること、わが子のごとく……」と弔辞を述べ男泣きした、と記録されています。

 上役として坦庵の存命中に彼の能力を生かし切れなかったことを悔い、詫びようにも伝えるべき人は亡くなってしまった、このうえは遺子太郎左衛門英敏をわが子と思い、亡き父に代わって親しく交わるであろう。

 部下の葬儀でこれだけの弔辞を述べる上役が、今日、果たしているでしょうか。

松平近直は部下の能力を活かすことを専一に「それこそわが使命」と感じていた人のようです。それなのに江川坦庵という不世出の農政者・科学者であり、画人でもあった人の登用に常に反対してきました。そして、最後になって坦庵に押しつけたのがジョン万次郎です。弔辞を述べながら男泣きしたのは坦庵ほどの人物をより大きな目的のために犠牲にせざるを得なかった、大義親を滅すとは申しながらもうしわけない、そんな思いが松平近直の号泣する姿から伝わってくるようです。

          

 以上のようなことを予備知識として持っていただいたうえで、次回から「ペリー来航を再考証する公判」を開始することにします


(つづく)




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