ジョン万次郎の帰国航海の一部始終(その1)

 万次郎の運命を決めた桶と柄杓



 昨日の公判において、マクドナルドの偽装漂着が、ジョン万次郎の帰国航海に密接に関連し、重大な影響を及ぼしたという仮説が提起されました。本日の公判は、それを受けての審理となります。

 開廷と同時に、秦野裁判長がいいました。

「あれこれ理屈をこねるよりも、事実を述べたほうが早かろう。論述書を用意してきたので、検察官に代読を頼みたい」

「承知しました」

 以下は、長井検事による秦野裁判長の論述書の代読です。

          

 鳥も通わぬ絶海の孤島と謳われた鳥島に、時化に見舞われて漂流した万次郎たちが流れ着いたのは、天保十二(一八四一)年正月のことであった。嵐の中を鳥島に上陸する前日は、みぞれ交じりの雨のひどく荒れ模様の日だった。

鳥島は、まわりを岩壁が囲んでいて、波も荒く上陸できないため、船頭筆之丞以下、五右衛門、重助、万次郎の四人は、総出で錨を下ろして夜明けを待つことになった。

一夜明けて、いざ碇を上げようとすると、夜の間に碇が引きずられて何かに引っかかったらしく、びくともしない。やむを得ず筆之丞が斧で綱を切って落して出発した。錨をなくしたからには、もう上陸するほかない。東へ、南へ、櫓を操って進むと、ごろた石の積み重なった浜が見えてきた。もう少しというところに近づいたとき、船が座礁して大きく傾いた。反動で海に投げ出された万次郎たちは、必死で岸に泳ぎついた。次にきた大波で船は宙を舞うように持ち上がり、万次郎たちの見ている前で、ばらばらに砕け散った。そのとき、万次郎は波に漂う三斗樽を命がけで拾い上げて戻った。樽には紐で柄杓が結わえつけてあった。

万次郎は、その樽を崖の上に担ぎ上げて、岩の窪みに溜まった雨水を柄杓で汲んで満たした。

 船頭の筆之丞ほか三人がぐったりしている間に、万次郎が樽に雨水を汲みっておかなかったら、あるいはまた、上陸前日に降ったのが霙でなく雨だったら、火山岩でできた窪地に吸い取られて樽に汲めなかっただろう。

 その日からホイットフィールド船長の船に助けられるまで、およそ三ヵ月の間は雨が一滴も降らなかったのだから、万次郎は筆之丞以下三人の命の恩人となった。そのうえホイットフィールド船長の養子になったというのだから、ますます船頭ならびに先輩水夫は、万次郎のいうことを尊重せざるを得なくなったわけである。

          

 ここまで読み上げたところで、長井検事は論述書から目を上げて、秦野裁判長を見やりました。

「論述書は、これだけですか」

「ちょっと、考えがあって、ジョン万次郎の漂流記の中で、見落とされてきた桶と柄杓の存在をクローズアップするために、あえて、鳥島漂着の部分のみ切り取ったかたちにした。一を聞いて十を知る長井検察官のことだから、わしの意図は察してもらえたと思う」

「そういうことでしたら、お安い御用です。私は前々から、船頭筆之丞以下、五右衛門、重助、万次郎の四人の中で、出稼ぎの炊事係見習いにすぎない万次郎が、ホイットフィールド船長の船に助けられてから帰国するまで、まるで彼がリーダーであるかのように、ことごとくイニシアチブを発揮することに違和感を覚えていました。理由というか、原因は一つではないと思いますが、まさか桶と柄杓とは……

 長井検事が感動のあまり言葉もないという感じで絶句するのを満足げにながめながら、秦野裁判長がいいました。

「上陸前日の天候が《霙》だったのが、天運だったんだな。寒さに震えただけでなく、万次郎は鳥島上陸後の生活を考えて、みぞれなら桶と柄杓で水を得られると考えたものと思う。こまことが物語るのは、万次郎の状況判断能力と先を読み、必要な対策を講じる能力の高さなんだよ。船頭筆之丞、五右衛門、重助にしてみたら、万次郎はまず第一にいのちの恩人であり、頭も切れるし、アメリカ捕鯨船の船長の養子になるほど、英会話の習得も早かった。しかし、何といっても、ホイットフィールド船長をして万次郎を養子にと望む最大の原因となったのが、先々の苦難を読み切って、ワンチャンスで桶と柄杓を確保した万次郎の機転だったということだ。こうした万次郎なら、わしだって養子にしたくなる

ホイットフィールド船長が万次郎を養子に望んだ最大の原因とまでは、読み切れませんでした。確かに、そう考えると、説明として説得力を持ちます

「まず、そのことが一点。次に仮説として提起したいのが、ホイットフィールド船長の養子になってジョン・マン・ホイットフィールドを名乗り、アメリカ人となった万次郎が、勇躍、帰国の決断をしたか、ということを問題にしたい。本人は年老いた母が気になってといっているわけだが、それにしては帰国航海の規模が大きすぎるし、ジョン万がホイットフィールド船長宛てにグアムに留め置きした手紙の文面の目的《ここより北、そして西へと航海し、琉球上陸を試みます。うまく帰国できれば捕鯨仲間のための避難港を開くべく努力します》と、あまりにもかけ離れた理由づけであるから、本人のいう理由は頭から無視してかからないといけないだろう」

「すると、次は?」

「ここで、一気に、万次郎とホワイトハウスの接点となった出来事について言及し、《ここより北、そして西へと航海し、琉球上陸を試みます。うまく帰国できれば捕鯨仲間のための避難港を開くべく努力します》という万次郎の言葉の真意に迫るつもりだ」

「いよいよ、ですね」

 長井検事の瞳が期待で輝きました


(つづく)




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