デフォルメ仮説《A》と《B》を同時に裏づける仮説《C》(その1)

 武家身分の密航者ミスターXのキャラクター



 

 昨日の公判廷では、マンハッタン号来日の真相を明らかにするには、デフォルメ仮説《A》と《B》を同時に裏づける仮説《C》が必要であるという、思いもよらない展開になりました。

 秦野裁判長の開廷宣言により、いよいよ本日の公判が始まりました。

「仮説《C》を理屈で説明するよりも、武家身分の密航者ミスターXのキャラクターがわかるように、前日の論述書を土台にして、ミスターXを佐倉藩士平野縫之助(仮名)の名で登場させた小説的記述による論述書というかたちを取りながら、説明したほうが、わかりが早いと思う。では、長井検事、頼む

 本日の公判廷もまた、長井検事による秦野裁判長の論述書代読から始まりました。

          

 弘化二(一八四五)年のはじめ、捕鯨船マンハッタン号のクーパー船長は鳥島に到着して日本人漂流者十二人を救助し、翌日、今度は近海を漂流中の漁船から十一人を収容した。クーパー船長は二日間たてつづけに二十三人の日本人を救助したわけであるが、鳥島で救助した十二人の中に大小の刀を差した侍がいた。着ているものこそうす汚れて襤褸になってしまっているが、立ち居振舞いがきりっとして一人際立つ存在であった。刀は物騒だから預るというと、男はあっさりと寄越した。もちろん、身振り手振りによる会話である。その男がクーパー船長を見かけて近づいてきて、桐油紙にくるんだ手紙を差し出した。

 クーパー船長はその場で桐油紙から手紙を取り出して開いた。文面はオランダ語で書かれていた。クーパー船長は浦賀で交渉するときのために連れてきたオランダ語通訳を呼び寄せた。

「この手紙を訳してくれないか」

 通訳はその場でざっと目を通してクーパー船長にいった。

「この男は密航者ですね。文面は以下の通りです」

 それがしは侍ゆえ二度と日本へは戻れません。戻れば主君に大きな迷惑がかかり、それがしも無事ではいられません。どうか、このまま御国へ連れ戻っていただきたい。そのうえで日本を開国させるにはどうしたらよいか、ご相談申しあげたい。

「内容は以上です。書名上の名前はヌイノスケとなっております」

「どうして鳥島にいたのか聞いてくれないか」

 通訳はクーパー船長の質問をオランダ語にして縫之助に伝えた。縫之助は首を傾げて答えた。

「それがし、オランダ語は話せない。書くだけです」

 通訳は英語とオランダ語ができるだけで日本語は理解していなかった。

「船長、縫之助はオランダ語が駄目なようです。これでは会話ができません。いかが致しましょうか」

 縫之助は身振り手振りで通訳に紙と筆を要求した。

「それがし、オランダ語は話せない。書くことなら可能である」

「船長、筆談ならオッケーのようです」

「よし。だったら、船長室へ降りよう」

 クーパー船長は縫之助と通訳を連れて船長室へ行き、テーブルにペンとメモ用紙を揃えて向かい合った。縫之助は通訳と並んで座り、ペンを取ってメモ用紙に書いた。通訳が読み取ってクーパー船長にいう。

「船長、ご質問をどうぞ」

「これから浦賀へ行って救助した漂流民を引き渡す予定でいるが、日本政府は浦賀で漂流民を受け入れるかどうか、このように聞いてくれ」

 通訳は船長の質問をオランダ語でメモ用紙に書いた。以下は縫之助との筆談を元にした通訳とクーパー船長のやり取りである。

「返事をする前に縫之助は自分をアメリカに連れて帰ると約束して欲しいといっております」

「なぜ、日本に帰らないのですか」

漂流民は漁師、船乗りですから、嵐という不可抗力のために国を出たもので、ご禁制に背いたのはかたちだけのことだから許される。しかし、武士は陸上を往来するのが常であり、故意でなければ出国する理由はないのだから、戻れば必ず死罪に処せられる。ただし、死罪を恐れるから帰国しないのではなく、目的があってやったことだから、目的を遂げない段階で戻されたら出国した意味がなくなってしまうし、手紙に書いたように主君に迷惑がかかる。以上のように書いております」

「鳥島にいたのはどうしてか」

「舟で沖に漕ぎ出して外国船を待つうちに時化に襲われ、漂流する五百石船に拾われてほかの十二人と一緒に鳥島に漂着したのだそうです」

「あまりに無謀ではないか。助かったからよいようなものの、死んだら何もならない。死を恐れずにそういうことをする一方で、死にたくないというのはどうしてか」

「目的のために死ぬのは恐れないが、犬死はいやだといっております」

「確かにな」

 クーパー船長は縫之助の言い分に共感を覚えていった。

「もちろん、約束する。決して犬死などさせないつもりだ」

「日本の政府は漂流民を長崎に限って受け入れると決めたばかりだそうです。だから、いきなり浦賀へ行ったら受け入れないかもしれない。あらかじめ二人ずつ二回に分けて漂流民を上陸させ、マンハッタン号が残り十八人を浦賀で引き渡したいといっている、と先触れさせれば浦賀で受け入れるかもしれないとのことです」

「しからば、そうするとしよう」

「縫之助は自分に人選その他指図を任せてもらえれば、間違いなくやってみせる自信があるといっています」

 縫之助は椅子に座りなれたように自然な感じであった。彫りのないのっぺりした顔は他の日本人と同じだが目の表情に深みがあった。クーパー船長は縫之助の人品を評価し信じて、思い切って決断した。

「わかった。ミスター・ヌイノスケに任せる」

「ただし、浦賀では甲板に出ない、自分の存在は決して明かさないでほしい、彼はこのようにも申しております」

「約束するといってくれ」

 クーパー船長は思わぬ拾い物に気をよくして、ボーイに命じて縫之助に服を与えて着替えさせた。すると、縫之助はみずから剃刀を所望して髷を落した。クーパー船長は服装、容姿ともアメリカ人になりすました縫之助を感心して眺めた。

「あと一週間もすれば江戸湾の入り口に着く。アメリカへ帰るのに途中で鯨の群れに出会ったりもするだろうから半年はかかると思う。その間、英語を覚えてはどうか」

「是非ともお願いしたいそうです」

「名はジョセフとしよう。ジョセフ縫之助……」

「本人は気に入ったと申してます」

 クーパー船長は船長室に縫之助と通訳の三人で起き伏ししながら英語の特訓に取り掛かった。

 

 火事場の馬鹿力ではないのだろうが、必死なせいか縫之助の学習能力の高さは賞讃に値した。クーパー船長が忙しいときは非番の乗組員、手のすいている船大工、鍛冶屋、桶屋などを相手にして縫之助は会話を試みた。

 縫之助はそうするうちにマンハッタン号にフランス人が八人も乗り組んでいることに気がついた。そのうちの一人が、「フランス人が八人も乗り組む理由」を説明した。

「八人とも農夫が本業で、養蚕で暮らしてきたんでがすが、五年前からフランス中に微粒子病が広まってきて、とうとうわしらの村も全滅してしめえました。困っていてもしようがないので、捕鯨船で稼ぐのが手っ取り早いから、陸の兎が河童に化けて海に出たわけでがす」

 微粒子病のことを執拗に問い質して、縫之助は小躍りせんばかりにしてフランス人水夫の手を握り締めた。

 こうして日を重ねるうちに、房総半島と三浦半島が見えてきた。箱根から伊豆へ連なる山並みの向こうに富士山が姿を浮かべている。突出した高さだ。鳥島でマンハッタン号に救助されたのが弘化二(一八四四)年二月八日、今日は二月十七日だから九日目に当たる。縫之助は船長にいって刀を返してもらって腰に差すと、まわりに漂流仲間の船頭・水主を集めた。

「船長はこれからみんなを浦賀に送り届けるという。もちろん、全員、身の安全は保証される。そのことは、それがしが請け合う。ただし、それがしのいうことに従えばの話じゃぞ」

 船頭や水主が手を取り合って喜びの声を挙げる姿を、縫之助はしばらくの間じっと眺めていた。

 縫之助が伝馬船で鳥島に渡って上陸したのは、昨年の十一月初旬であった。伝馬船には半年くらいは暮らせるだけの食料と身のまわりの品があったから漂着といえないのだが、荷揚げしてすぐ時化で伝馬船を流してしまったから、漂流したのも同然であった。水は雨が降ると持参した桶を並べて受けるのだが、それだけでは命を保つことは不可能だったかもしれない。縫之助の命を救ったのは、島の岩屋に何者かが残した樽と柄杓であった。縫之助が生き延びられたのは、発見した柄杓で岩のくぼみに溜まった水をすくい取って集め、命をつなぐに十分な量を溜めることができたためであった。持参した食料は米と野菜が主であったから、魚を釣り、海にもぐって貝を採って補った。水があったればこそ、それらも生きた。

 明けて今年一月十三日、蜂須賀家の持ち船幸宝丸が漂着した。乗組員は船頭の徳之丞以下十一人。彼らは縫之助の指図に従って一緒に暮らし、家族のように心を通わせてきた。しかし、彼らと鳥島に滞在したのはわずか二十五日でしかなかった。マンハッタン号に救助されたためである。異国船にこれほど早く救助してもらえるとは思わなかったというのが縫之助の正直な思いであった。

 マンハッタン号に拾われた翌九日には、舵と帆柱を失って漂流する難破船を発見し、クーパー船長に頼んで救助してもらった。難破船は下総国銚子湊幸太郎の持ち船千寿丸で、南部藩が借り上げて宮古湊から浦賀へ向かう途中時化のため難破、漂流したものとわかった。乗組員は宮古湊の船頭勇助以下十一人、うち一人は十歳の少年であった。

みんなが静かになるのを待って、縫之助はつづけた。

「ただし、通信のない国々が連れ来る漂流人は受け取らず、長崎にて清国、オランダを通じて受け取るべし、と、かような掟が昨年出されたばかりである。いきなり浦賀へ行ったら、むずかしいかもしれない。だから、あらかじめ安房国と上総国に幸宝丸から由蔵、宮古の千寿丸からは太郎兵衛を選抜して上陸させる。残り二十人は十日ほど間を置いてから浦賀で引き渡すことにする」

 再びがやがやとしだして、由蔵がいった。

「お侍さんに申しあげます。二人引くと残りは二十一人じゃありませんか」

「それがしは、たった今から、ジョセフというアメリカ人になる。日本には戻らない。浦賀に上陸して何か聞かれたら、こういってくれ。侍が一人、ジョセフと名乗ってアメリカへ渡ったと。ただし……」

 縫之助は上陸を命じた由蔵と太郎兵衛にいい聞かせた。

「そのほうら二人に限っては、今、申したことを口外してはならぬ。いえばそれがしの身柄引き渡しが先になり、残り二十人については受け入れを拒否されてしまうであろうから、仲間を思うなら口外せぬことだ」

「わかりました。仰せの通りに従います」

 由蔵が応じると太郎兵衛がいった。

「なぜ、上総国なのでしょうか。相模国のほうが浦賀に近いと思いますが」

「江戸を経由するというのが味噌なのだ。いってもわからないだろうが、江戸城には松平伊勢守というとてつもない切れ者がいる」

「阿部伊勢守様ではないので?」

「松平河内守が本来だが、阿部伊勢守様が二人おられるという意味で、松平伊勢守と比喩的に呼ばれている。江戸を経由すれば、当然、松平伊勢守の内聞に達するだろう。情の深い土岐丹波守が江戸在番でもあるから、掟の一つや二つ、どうにでもなろう。したがって、全員、受け入れてもらえるし、身の安全も保証されるというものではないか」

「へえ。そのようなお武家らしからぬお武家さまがおられるんですか」

 太郎兵衛は半ば驚き半ば感心してから、「承知しました」と頭を下げた。

 マンハッタン号はクーパー船長の操船命令で房総半島に接近していった。縫之助が勝浦沖と見当をつけてクーパー船長に合図すると、直ちに船長用のボートが海に吊り下ろされた。縫之助は漕ぎ手のアメリカ人二人、由蔵、太郎兵衛と一緒に下船してボートに乗り移った。

「旦那も行きなさるので」

「あれに見える漁船に引き渡すところまで同行する。話が食い違うといかんのでな」

 縫之助はにっと白い歯をみせて答えた。大小は船長室に残してきた。服装だけ見ればアメリカ人そのものである。日本語を使わなければばれないという自信があった。

 海は凪いで、うねりが規則正しく繰り返されるだけ。オールが水を掻いてボートは小気味よく進んでいった。陸から狼煙が打ち上げられた。浜に人が群れているのが見える。

「二人とも、よく聞けよ」

縫之助は由蔵にまずいい聞かせた。

「由蔵は上陸したら直ちに村役人のもとに出頭して、忍藩の陣屋に案内してもらい、あとは忍藩の指図に従え。次に太郎兵衛」

縫之助は太郎兵衛に視線を移した。

「このあたりは清水家の領地のはずだから、太郎兵衛は村役人にいって清水家の江戸屋敷に案内してもらえ」

「断られたら、どうしましょうか」

「拒絶したら村役人がお咎めを受ける。念のため申すが、そのほうらを助けたマンハッタン号は、アメリカという国の鯨を獲る船だということ、交易とかキリシタンの布教という目的ではないということ、救助した漂流者を届けにきただけだということ、これだけは間違いなく伝えるように。行く先々でいろんなことを聞かれるだろうが、一度いったからもういいだろう、相手が代わりに伝えてくれるだろうと考えたりしないで、相手が代わったときは必ず以上のことを几帳面なくらい伝えるように。何度でも、くどいと叱られてもよいから、必ず伝えるように」

漕ぎ手のアメリカ人船員が漁船にボートを横づけにすると、縫之助は由蔵と太郎兵衛を乗り移らせ、迷惑そうな顔を見せる漁船の船頭に習ったばかりの英語でしばらくの間まくしたてた。

「何をしゃべってるのか、ちんぷんかんぷんでわからねえ」

 漁船の船頭が困って由蔵に聞いた。

「日本人みてえなのに、いっていることがまるでわからねえ。どういうことなんだね」

「俺たちは蜂須賀様の船の者なんだ。難破して助けられて戻った。異国船にまだ二十人ばかし残ってる、だから、浦賀のお奉行様に上陸のお許しをいただきに行くんだ。すまないが船を浜に寄せてもらえないだろうか」

 由蔵がそこまでいうのを確認すると、縫之助は異人気取りで「グッドラック」と漁船に乗り込んだ二人に声をかけて、潮風を胸いつぱいに吸い込みながらマンハッタン号へ引き返した。

          

 縫之助が乗るボートが遠ざかると、漁船はあらぬ方へ進み始めた。由蔵と太郎兵衛は、人だかりのする浜から漁船が遠ざかるのを見て船頭に文句をいった。

「どこさ行く、浜へつけてくれろよ」

 船頭はもとより覚悟の行動とばかりに突き放した。

「とばっちりは御免だでな。悪いが、俺たちには関わりのないことだ」

 地元の漁師は異国船と係わり合いになるのを恐れているのだ。漁船は人のいる浜からどんどん遠ざかっていく。やがて、小さな岬をまわり込むと、砂浜が現われた。由蔵と太郎兵衛はまるで人気のない浜に放り出される感じで上陸するほかなかった。しばらくは地面が揺れる感じだったが、すぐに慣れるとどちらからともなく「さあ、どっちへ行こう」ということになった。

「随分きたようぜ。戻るのは大変みたいだぞ」

「だけど、人家があるとわかっている方角へ行ったほうが確実だべ」

「違えねえ」

 相談はすぐにまとまった。

 二人は小走りになって、マンハッタン号から見えた浜のほうへ向かった。ひさしぶりに踏む地面のせいか、足が地につかない感じであった。半刻ほどかけて、ようやく人の集る守谷村の浜に着いて、縫之助にいわれた通り村役人徳右衛門に訴えると、徳右衛門が二人に相談を持ちかけるようにしていった。

「守谷村は清水様のご領地だで、太郎兵衛さんとやらには御館のほうに出向いてもらい、由蔵さんとやらは、これから忍藩の富津陣屋に同道してもらうが、よいだかね」

 縫之助のいった通りなので、由蔵と太郎兵衛は顔を見合わせた。これほど土地の事情に通じているからには、この界隈の周辺にある藩の侍だろうと二人同時に気づいたのである。

 由蔵は徳右衛門に答えた。

「はあ、すぐにでも。よろしゅうお願いしますだ」

「これからだと夜道になるが」

「みんな待っておりますから、夜道になっても構いません」

 こうして二人は別々に行動することになり、由蔵は太郎兵衛を守谷村に残し、徳右衛門に連れられて江戸湾側にある富津陣屋に向かった。

 すでに陽は西に傾きかけていたので、由蔵は提灯を渡された。

 そうか、夜通し歩くのか。

 由蔵はぶるっと大きく武者震いした。見知らぬ土地にきて、夜っぴて道を行く気負いもあったのだろうが、一人になったために急に使命感がひしと胸に迫ったのである。

「歩きながら腹ごしらえすべえ」

 徳右衛門が用意してきた握り飯を頬張りながら歩くうちに早くも日が沈み、あたりが真っ暗になった。徳右衛門は火打石で自分の提灯に手際よく火をつけてから、由蔵の提灯に火を移した。

「足許に気をつけてな」

 徳右衛門は、そう声をかけてから、黙々と歩き通した。口は利かないが、ときどき振り向いて、由蔵が無事に歩く姿を確かめた。由蔵は徳右衛門についていくのと、足許を注視するのとで、口を利くゆとりもなかったが、徳右衛門の無言の気遣いにどれほど元気づけられたであろうか。

夜だというのに、鳥の鳴き声がしてみたり、急に飛び立つ羽音に驚かされたり、いかにも人里離れた闇の中にいるという感じで、由蔵は思わず確かめるように頭上を眺めた。黒い茂みの間から無数の星が見えた。自分たちの提灯以外、それが唯一の光であった。由蔵は、ほっとしたものを感じて、また足許を注視しながら歩を進めるのだった。

 ふと気づいて振り向くと、いつの間にか、東の空が白み始めていた。ぽつぽつと起こり始めた鳥の声を聞き、二人は提灯の火を吹き消した。陽が昇ると、行く先々で鳥の鳴き声を聞くようになった。まだ奥深い山の中なのである。峠を越えて海が見えたときには、もう陽はかなり昇っていた。

 むしろ、明るくなってからの道のほうが、遠く感じられた。結局、湊川沿いに湊村に出て、富津陣屋から出張してきていた忍藩の衛士石田市右衛門に訴え出たのは、正午に近かった。

 由蔵は、石田市右衛門にも、縫之助にいわれた通り訴えた。

 聞き終わると石田が徳右衛門にいった。

「そのほう、大儀であった。戻ってよいといってあげたいところだが、それがしは直ちにこの者を浦賀お奉行所へ届けなければならぬ。疲れておるところ、まことに相すまぬが、それがしに代わって富津のご陣屋まで、注進に及んではもらえまいか」

「承知つかまつりました」

 徳右衛門と別れる段になって、由蔵は胸に熱いものがこみ上げた。礼をいおうと思うのだが、喉がつまり、涙がどっとあふれた。徳右衛門は行きかけたが、振り返って、後戻りしてきて、由蔵の肩をいたわるように軽く叩いた。

「首尾よう参るよう、祈っているでな。じゃ……」

「庄屋様もお気をつけて」

「俺は名主じゃねえよ、組頭だよ」

 徳右衛門は笑みを残して富津の方角へ立ち去った。

 富津陣屋の船は、江戸湾を矢のように横切って浦賀へ向かった。どこを向いても、廻船乗りの由蔵には、見慣れた眺めである。冬でも明るい浦賀の山の緑を見て、また、涙がこみ上げた。

          

 長井検事の代読を中断させて、秦野裁判長がいいました。

「上陸させたのはなぜか二人だった。一人では心細かろうから、これはわかる。だが、なぜ守谷村なのか。一人は浦賀奉行所、もう一人は清水家を経て江戸在番の浦賀奉行に振り分けられて、一人ずつ別々の行動を取ることになった。仮に百歩を譲るとして、これも偶然のなせるわざとしよう。すると、惣戸村に上陸させた追加の二人は、どうしてなのか。まさか、偶然ではあるまい。ここまで偶然が重なると、必然の意志が、どこかに働いているとみなさざるを得なくなってくる」

「おっしゃる通り、あまりにも完璧すぎます」

「舟運にたずさわっただけの音吉の智恵ではないぞ。さりとて船頭や漁師から出た知恵でもない。侍の、しかも、房総の地の理に、相当くわしい者のアイデアだ。侍でありながら、密航して、マンハッタン号の船長に智恵を授けた者がおるに違いない。わしはそのように睨んだのだが、長井検事はどう思うか」

「仮説であったとしても、とてつもない考えなので、せめて、一晩、お時間をいただけないでしょうか」

「よかろう。本日は、これにて閉廷」

 かくして本日の公判廷は、中断する恰好で閉廷しました


(つづく)




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