デフォルメ仮説《A》を裏づける事実(その2)
いよいよ、マンハッタン号来日の真相が、本日の公判廷で、秦野裁判長によって明らかにされるときがきました。
「まず、公式記録に残されたマンハッタン号関係の事実のみをもとにまとめた論述書から紹介していくことにする」
秦野裁判長が宣言して、こうして本日も、長井検事による裁判長の論述書代読が始まりました。
アメリカの捕鯨船マンハッタン号のオーナー船長マイケーター・クーパーが鳥島で日本人漂流者十一人を救助したのは西暦一八四五年三月十五日(弘化二年二月六日)のことであった。翌日も海上を難破船で漂流する日本人水主(かこ)十一人を救助して、わずか二日の間に都合二十二人の日本人漂流者をマンハッタン号に収容した。そして、三月二十四日、日本人漂流者を送還する目的で房総沖に接近し、うち二人を守谷村へ上陸させてのち南下、野島崎付近からさらに二人を送り込んだ。
徳川家御三家御三卿のうちの一卿清水家の知行地がある守谷村に上陸した二人は、難破した幸宝丸の由蔵と千寿丸の太郎兵衛であった。村役人はクーパー船長の目論見通り由蔵を忍藩が警衛を受け持つ富津陣屋に送り、太郎兵衛を清水家の代官役所に出頭させた。かくして由蔵は富津陣屋を経由して浦賀奉行所に移送され、太郎兵衛もまた清水家家老の取り調べを経てのち江戸在番の浦賀奉行土岐丹波守頼旨に身柄を託されたのであった。あとから野島崎近くに上陸した二人も富津陣屋から浦賀奉行所へ移送されていった。そして、マンハッタン号は州崎沖に碇泊して、浦賀奉行所の出方を見守った。途中で時化のため津軽沖まで流されるハプニングはあったが、数日を経て、マンハッタン号は再び州崎沖へ戻ってきた。
マンハッタン号の停泊地が、なぜ常に州崎沖であったかというと、州崎と城ヶ島を結ぶ線から江戸湾内への進入は禁止されていたからである。クーパー船長が試みた幕府へのアプローチ法は、これ以上のやり方はないという超優等生的なものであった。
当時、幕府は先のモリソン号事件を受けて、無二念打払令をかつての薪水給与令に改め、日本人漂流民についても「通信のない国々が連れ来る漂流人は受け取らず、長崎にて清国、オランダを通じて受け取るべし」と方針を明らかにし、オランダ政府を通じて各国に周知させていた。それを楯に取って評定所が見解を述べた。
「今般の異国船の態度はまことに殊勝であるが、決まりは守らねばならない。浦賀では受け取らず、あくまでも長崎へ回航させるべし」
評定衆勘定奉行が一貫して法令遵守を主張したのに対し、江戸在番の浦賀奉行土岐頼旨は、次の私見を述べ立てた。
「清国・オランダ以外の異国船が漂流人を送り届けても受取ってはならないという書付もあることではあり、以前にも諸国への漂流人を送り届けてきた時は長崎へ差しまわしたこともありましたが、今般の件は、海上で難風に遭った船を助けたものであり、外国へ渡った者を送って来たのとは異なります。どこの異国船か未確認ですが、西洋の、それも鯨漁船のようですから、異国の漁民が日本人を助けるために、捕鯨を中断して誠実に送ってきたものを浦賀で受け取らなければ、自国の民草を棄てたことになり、非人道的なことに相なりましょう」
勘定奉行に対して下位の役職の浦賀奉行が楯突くことなど、幕府の職制では考えられないことであった。しかしながら、なぜか時の老中首座阿部伊勢守正弘は、土岐頼旨の主張を容れて次のように裁断した。
「一昨年卯年に外国に通達を出してあるが、今般の異国人はこの通達を受けず、知らずにやってきた可能性がある。したがって、このたびにかぎり、一時的に権道を用いて、漂流者を浦賀で受け取り、異国船には必要な食料ならびに薪水を与えて帰すよう手配すべし」
勘定奉行も決して頑なだったわけではなく、「通信のない国々が連れ来る漂流人は受け取らず」という点で、すでに譲歩していたことでもあり、老中首座の権限により今回に限って浦賀で受け取るという裁断に、だれ一人として異論を差し挟む者はなかった。
以上、異例中の異例ともいうべき幕府の配慮により、州崎沖で待機するマンハッタン号は、江戸湾進入を認められて浦賀をめざすことになった。しかし、その日はあいにく風がなく、マンハッタン号が自力で航行できないため、三浦、富津両海防陣屋の番船が総出で牽引し、相州および房総の漁船も加わって、ようやく浦賀沖へ招き入れた。時に一八四五年四月十八日(弘化二年三月十二日)のことであった。
マンハッタン号が浦賀沖に現れると、クーパー船長らの応接を江戸在番の浦賀奉行土岐頼旨が仰せつかり、翌十三日(四月十九日)、マンハッタン号に進呈する薪水食料品を調達して、品川湊から船で浦賀に急行、夕刻、浦賀奉行所にて当番の浦賀奉行大久保因幡守忠豊に老中の指示を伝え、役宅で一夜を過ごした。そして、明けて十四日(四月二十日)朝、衆人環視の中で、漂流民の残り十八人を奉行所に引き取り、次の品を謝礼としてマンハッタン号に積み込んだのであった。
白米 四斗入二十俵
松薪 二百把
春麦 同
椀 十個
小麦粉 二升
染付皿 十個
大根 百二十把
薩摩芋 十三俵
胡蘿萄(にんじん) 二十把
茶 五斤
鶏 五十羽
水 相当量
玉條魚(平目) 二枚
鮪 壱本
杉 長七間廻三尺程 三本
マスト補修用の杉 長十一間一尺中程丸三、四尺、一本
この日の浦賀の光景を記録の許す範囲で再現すると、湾口に停泊する三本マストのマンハッタン号のまわりを無数の番船が取り巻いて、不審な船が近づかないよう厳重に警戒しており、海を望む道にはまだ陽が昇らないうちから集まり始めた人だかりが見えていたし、野次馬の行列がほかにも陸続と浦賀へ向かってきていた。頼旨は忠豊と相談して、急遽、奉行所、武器庫周辺を除いた西浦賀一帯を、民間人に開放することに決した。そして、クーパー船長と相談して、望む者にはマンハッタン号に自由に乗船を許した。マンハッタン号の甲板上において、かくして図らずも史上初の日米両国民の交歓が実現をみた。
マンハッタン号の乗組員のうち、乗船した群集の人気を最も集めたのが、黒人操舵手のピラス・コンサーであった。コンサーはクーパー船長の父親の奴隷であったが、その死により他家に売られた経歴がある。まだ幼く相続を後見人に委ねるほかなかったクーパー船長は成人して正式に財産を相続すると、コンサーを買い戻して自由の身とし、彼に操舵手という職を与えるためマンハッタン号を購入した経緯がある。したがって二人は主従というより親子のように親密で、深く信頼し合っていた。二人の人柄を表すには、その事実を明かすだけで十分であろう。コンサーは、クーパー船長の意向を受けて、乗船してきた日本人大衆に黒人霊歌を披露して、心から歓迎の意を表した。
ヒューマニズムとともに音楽もまた国境を持たない言語である。一度に二十二人もの日本人漂流者を救助し、捕鯨のチャンスを犠牲にしてまで送還してきてくれたクーパー船長のシーマンシップとコンサーの歌う黒人霊歌が、結局、説明無用の国際言語の役割を果たして日本人群集の心を打った。コンサーの歌声に感動し、涙を浮かべた群集から、自然発生的に伊勢音頭など日本の民謡が歌われだしたのが何よりの証左である。
江戸在番の浦賀奉行土岐丹波守頼旨が、クーパー船長にそこまで心を許したのは、彼が漂流者の送還の見返りを最後まで要求しなかった、その姿勢に原因があったものと思われる。
もろともに漕ぎや出ずらん我も人も
同じ三浦の海士の友舟
感激した頼旨は、その思いを歌にして、クーパー船長にその場で進呈した。
長井検事が事実のみに基づく論述書を代読し終わると、秦野裁判長がおもむろに発言しました。
「モリソン号事件のアプローチ方法と比べると、マンハッタン号のアプローチ方法は段違いに見事なやり方で、評価すると百点満点、しかも、舟運関係者か、漁師にかぎられていた当時の漂流民は持たないはずの知識が働いた事実が、絶対的に存在する」
「裁判長のおっしゃる『絶対的に存在する事実』というのは、資料に文字で書かれていないだけで、一連の事実から生じざるを得ないシチュエーション事実のことですね」
「その通り。長井検事が、最も得意とする分野だ。すなわち、マンハッタン号来日事案に関係する一連の事実をひとまとめにしてくくると、デフォルメ仮説《A》と《B》を同時に裏づける仮説《C》が必要であるという、驚くべきシチュエーションが浮き彫りになるんだ」
「マンハッタン号来日の真相を明らかにするには、デフォルメ仮説《A》と《B》を同時に裏づける仮説《C》が、さらにまた必要であるということですね。状況証拠を積み重ねると、また別の状況証拠が必要になり、行き着くところまで突き詰めると、実態事実としても万に一つの矛盾もなくなるということは、今般の事案のみならず、日本史の考証では頻繁に起こり得ることなのです」
「そういうこっちゃ。われわれが伝承という方法論しか用いようとしない史家ではなくて、犯罪捜査の専門家でよかったと、つくづく思う。次回は、仮説《C》について審理する。本日は、これにて閉廷」
秦野裁判長の閉廷を宣言する力強い声が、余韻を帯びて、静まり返った廷内に快くひびきました。
