デフォルメ仮説《A》を裏づける事実(その1)
昨日の公判廷で、秦野裁判長は長井検事にいった言葉を再現すると、次のようになります。
「状況証拠だけでも、丹念に積み重ねれば、実体的真実に限りなく近似させられることは、検察官だからわかると思う。これまでの論述(音吉の伝書鳩プロジェクトに結びつく一連の事実群)を仮説《A》とすると、《A》を事実とみなさないかぎり《B》という事実に合理的説明がつかなくなってしまう。《A》が事実であることを裏付けるには、そうした《B》という事実を提示すればよいわけだ。次回は、そうした事案《B》に当て嵌まる事実を切り取って提示することにする」
かくして、本日の公判廷で、事案《B》に当て嵌まる事実が提示される運びとなり、開廷同時に、秦野裁判長の論述書が、長井検事によって代読されることになりました。
マンハッタン号が来日する二年前の天保十四(一八四三)年、長崎出島のオランダ通詞森山栄之助が長崎奉行所から浦賀奉行所通詞となるべく派遣されてきた。古くから長崎奉行所通詞を務める家柄で育ったため、森山栄之助はオランダ人より正しい英語を話すといわれていた。そういうスペシャリストを、オランダ船が入るはずのない浦賀に転任させるというのもわからない人事であったが、森山栄之助の赴任に合わせたかのように、勘定奉行土岐丹波守頼旨が浦賀奉行に転任させられた。どこをどう叩いても、だれがどう解釈しても、町奉行に次ぐ高い地位の勘定奉行から浦賀奉行にするのは、明らかに左遷人事である。しかも、それまで吟味掛と地方掛しかなかった浦賀奉行所与力職の役目に、急遽、武器掛と応接掛を新設して、「いつでも異国船の来航に対応できるようにせよ」という指図まで行われたのであった。
一方、栄寿丸の漂流民で沖船頭だった善助と岡廻り(賄い方)だった初太郎が帰国したのは、天保十四(一八四三)年の暮れである。暮れというからには十二月なのだろうが、二人からマンハッタン号の来日などが伝わったとしか考えられない人事である。それだけだと、説明上、時間的に窮屈になるので、当該清国船に先行する別の清国船から、善助と初太郎がもたらす情報があらかじめ伝達されたのかもしれない。もう一つ考えられるのは、試験的に先乗りの日本人漂流民が送り込まれたということもあり得る。いずれにしても、以上の人事は、マンハッタン号の来日を事前に把握していないと、行われるはずのない人事であることに変わりはないのである。
マンハッタン号の来日は、弘化二(一八四五)年三月末のことであるが、時系列を逆にたどり、マンハッタン号が陸路から送り込んだ帰国漂流民由蔵および太郎兵衛に対する国内の対応ぶりの一端を先んじて再現しておこう。
さて。
時は弘化二(一八四五)年四月、浦賀在番の浦賀奉行大久保因幡守忠豊は由蔵を取り調べた結果、マンハッタン号は日本人漂流者を救助して送り届けてきただけで、ほかに野心があるわけではないことがわかったから、浦賀湊に引き入れたうえで取り調べたい旨の伺い書を老中に提出した。江戸在番の浦賀奉行土岐丹波守頼旨もまた、清水家家老曲渕甲斐守から太郎兵衛の身柄を受け取り、訊問のうえ、聞き書きに意見を添えて老中に提出した。日本人水主二十二人は難破したところをマンハッタン号に救助されており、異国に上陸した事実はないのだから特例で浦賀での受け取りを認めてはどうか、というのが頼旨の意見であった。
老中首座阿部伊勢守正弘は、浦賀奉行の報告を受けて評定所に意見を求め、マンハッタン号の扱いを勘定奉行松平河内守近直に一任した。
そうした経過に時を過ごすうちに、マンハッタン号の姿が見えなくなったという報告がきた。ひょっとすると難破したかもしれないという。
土岐頼旨の屋敷は溜池に臨む場所にあった。溜池は江戸城を囲む外濠の一部を構成する湧水群で、神田上水、玉川上水が完成する前は堤を築いて榎を植えて飲料水として利用されていた。埋め立てられる宝永以前はかなりの広さがあり瓢箪池と呼ばれたようだが、今は半分の面積もなくなり、こんこんと湧く水が池の面をわずかに盛り上げる光景が、江戸の上水として用いられた痕跡を残すのみであった。堤に植えられた榎の大木が、葉を落した枝を互いに交差させて連なり、青空に幾何学模様を描く光景が印象的である。
土岐頼旨は、そのために「榎坂の土岐家」とか「溜池の頼旨」と呼ばれているのだが、溜池と榎坂に挟まれたその屋敷を、いきなり筆頭勘定奉行松平河内守近直が訪れたばかりであった。頼旨はあまり歓迎しない顔色で、近直を客間に通した。
松平近直は座るより先に頼旨に質問を投げかけた。
「森山の件はどのような進み具合か」
松平近直のいう森山の件というのは、二年前の天保十四年三月に長崎奉行所から派遣されて浦賀奉行所通詞になった森山栄之助のことである。古くから長崎奉行所通詞を務める家柄で育ったため森山栄之助はオランダ人より正しい英語を話すといわれていた。その男をオランダ船が入るはずのない浦賀に転任させるのもわからない人事であったが、森山栄之助の赴任に合わせたかのように頼旨は勘定奉行から浦賀奉行に転任させられた。どこをどう叩いても、だれがどう解釈しても、明らかに左遷人事である。しかも、それまで吟味掛と地方掛しかなかった与力職の役目に武器掛と応接掛を新設して、「いつでも異国船の来航に対応できるようにせよ」という指図までされたのだから屈辱的というほかなかった。しかし、頼旨は近直に誠実に答えた。
「長崎から持参した英蘭辞書と首っぴきでエゲレス語の習得に努めております」
「そうか。中嶋のほうはどうか」
浦賀奉行所武器掛与力中嶋三郎助のことである。
「荻野流砲術指南桜井貞三殿を招いて番船に大砲を据える工夫をさせております」
近直は顔をしかめた。
「そこまでやることはない。海軍創設は視野に置くとしても、実現には莫大な予算を必要とすることだから、あまり早いうちから、その気になられても困る。金次郎に命じて幕府を挙げて報徳仕法に取り組んでいるさなかじゃでの。海防対策をやっているな、と、周囲を納得させるだけでよい。そんなことより森山のほうを急がせて欲しい」
勘定奉行としてではなく評定衆の一人としていうのだろうが、いずれにしても近直が口を差し挟むことではなかった。近直が一任されたのは今般の異国船渡来の件だけだったはず。ましてや、日本人漂流者の受け入れを長崎のみに限定してオランダ、清国以外の国からは受けつけないと法令を発したばかりであるから、浦賀奉行所に応接掛を新設したことといい、長崎で働かせたほうが生きるはずの森山栄之助に英語の習得をさせるのは、矛盾以外のなにものでもなかった。頼旨はさすがに苦笑して問い返した。
「今般の異国船渡来の件に関しましては森山を招いたのは慧眼であったと感心させられるばかりですが、昨年、通達のありました法令に矛盾するように思われます。むしろ、中嶋を勉励させるべきと存じますが、いかがでしょうか」
「金次郎の件は承知であろう」
「はあ」
承知しているから筆頭勘定奉行の近直を迎えても茶菓のもてなしをしないでいるのだ。近直の屋敷は江戸城の向こう側の小川町にある。不意の訪客とはいえ遠来の近直に茶も出さないでいるのは禁止されているからだ、と頼旨は暗に伝えたつもりであった。
松平近直はつづけた。
「名目は日光御神領の財政再建だが、実際は幕府の財政再建のため働いてもらっている。金次郎が来客を一切拒んで屋敷に籠もって書いているのは『富国方法書』すなわち幕府財政再建論で、脱稿の暁には全八十巻を超す大著になるようだ。日光御神領うんぬんはそのための隠れ蓑にすぎない」
頼旨は真摯な眼差しで近直の意見に耳を傾けた。
二宮金次郎が「日光御神領村々荒起返方見込み」の作成を命じられたのは、弘化元(一八四四)年四月五日のことであった。
「日光御神領は長年にわたって荒廃し、領民の困窮ぶりを座視できないので、ただちに現地をよく調査し、これを復興し、領民を安んじ、慈しむ方法を答申すべし」
小川町にある勘定奉行役宅で「日光御神領村々荒起返方見込み」の作成を拝命した金次郎に、近直の下僚が現地調査を促すと、彼はその必要はないとして断り、相馬藩の富田高慶、烏山藩の多賀文助、谷田部藩の大島勇助、吉良八郎らのほか、長男弥太郎、小田原から脇山喜藤太、小路只助、川副家の荒川泰助、韮山代官所の町田時右衛門などを集めて引き籠り、答申書の作成に着手している。復興しようとする現地の視察を行わないという姿勢は、これまでの金次郎には考えられないことであった。今、その金次郎と幕府の財政再建に二人三脚で取り組んでいるのが目の前の近直であったから、「日光御神領うんぬんは隠れ蓑にすぎない」という発言になるのだろう。
ところで。
天保十四年に老中に就任した阿部伊勢守正弘に、徒目付という低い身分から勘定吟味役に抜擢を受け、弘化元年二月、伊勢守が老中首座に就任すると同時に勘定奉行となり、人事案件の一任を受けて近直が断行する人事はどのようなものであったかというと、百姓出身の金次郎には近直本人が後ろ盾となり、ともすれば噴出しがちな批判の矢面に立っていることからもわかるように、森山栄之助には勘定奉行だった頼旨を左遷してまで働きやすい環境をつくることに努めるなど、能力のある下位の者のために上位の役職者を犠牲にしてかかる傾向が読み取れた。だから、頼旨は勘定奉行から浦賀奉行への役目替えを左遷と取らず、むしろ誉れと感じているわけであるが、伊勢守と河内守がやることと法令の矛盾はどのように理解しようと努めてもわからない。
高島流西洋砲術指南役を許されたばかりの江川坦庵が、幕府鉄砲方を罷免されたのも、考えてみればおかしな話だ。対外窓口を長崎に一本化することを再確認したかにみえる法令の趣旨からすれば、中嶋三郎助の努力を賞すべきであり、江川坦庵についても逆に重用して、浦賀警衛の衛士を指導させるのが本筋である。そうした一連のおかしな人事と同様に、むしろ、森山栄之助の浦賀転勤のほうこそ無用の人事というべきではないか。
こうした頼旨の疑問を知ってか知らずか、近直はさらにつづけた。
「だが、金次郎は幕府の財政がこうまで傾いては報徳仕法だけでは間に合わない、田沼時代に行われたように清国との貿易を拡大して金銀を稼ぐかしないと再建は困難だという。けれども、清国相手の交易はかの国がエゲレスとにらみ合いをつづけて拡大どころか先細りであるし、オランダも今では年に一隻くるかどうかで、これまたどうにもならない。しからば、いかにすべきか。正直、見通しが立たない、というのが金次郎とそれがしの間における目下一致した意見でのう。このように申せば勘定奉行を務めた経験からいって、あるいはまた一を聞いて十を知る丹波殿ならわかるであろう」
頼旨はようやく理解の糸口を見出した思いであった。
「開国の、ご方針でございますか。相手はアメリカにござりますな」
「その質問には答えられない。攘夷論者がおるでな。攘夷論者は尊皇主義者でもある。仁孝天皇に万一のことがあろうものなら、唯一の見通しすらどうなってしまうか」
皇位を継承する立場にある東宮(のちの孝明天皇)は「紅毛人と聞くだけで身の毛がよだつ」という極端な生理を持つ人であった。そうした東宮が即位しようものなら尊皇と攘夷が一体化して、現東宮が存命である間は開国通市の勅許など望むべくもなくなってしまう。頼旨は近直から示唆を受けて完全に十まで理解した。
「ならば、なおのこと、今般の異国船対策が重要になりますな」
「うむ。だが、勘定奉行は浦賀奉行の意見には賛成しかねる」
頼旨は、また、わからなくなった。
「と、おっしゃいますと?」
評定所に関係する勘定奉行は松平河内守近直、石河土佐守政平の二人、勘定吟味役が羽田新助、佐々木侑輔、立田客太郎、関保左衛門の四人、合計六人である。これだけの人数に反対されたらどうにもならない。さすがに頼旨は気色ばんで近直に詰め寄った。
「それで、どうせよと……」
「勘定方は全員が反対にまわるが、伊勢守様が浦賀奉行の意見をお取り上げになる」
攘夷論対策として勘定奉行が浦賀奉行の意見に反対するということは、浦賀奉行に対しては勘定奉行が悪役になり、攘夷論者に対しては阿部伊勢守が悪者になることを意味した。頼旨は遠くからわざわざそれを告げにきてくれた近直に頭が下がる思いだった。
長井検事がそこまで読み進むと、秦野裁判長がいいました。
「弘化二年に起きたマンハッタン号の来日事案が、幕末開国史解明にとっていかに重要な出来事であったかは、今、こうして国内の対応の一端をのぞいただけでも実感されると思う。ましてや、このとき、クーパー船長は日本人漂流民から入手した海図を持ち帰ってホワイトハウスに献上し、のちに来日するペリーがその海図を使って航海した事実さえあるのだから、マンハッタン号来日の事案ほかが大々的に議論されないことのほうが、不思議であり、面妖ですらある」
それに対して、長井検事が応じました。
「私は、常々、思うのですが、議論の前提として、もっと、もっと、仮説を立てて、それが正しいかどうかを議論する前に、仮説を《踏まえるべき事実》を掘り起こす手段として活用する必要があると思うのです」
「そうなんだよ。犯罪捜査のノウハウを幕末開国史解明に援用すると、いわゆる状況証拠が長井検事のいう仮説に当たるわけだ」
「この際、考えられ得るかぎりの仮説を立ててしまおうではありませんか」
「その前に、極めつけの仮説というものをだな。この際、堂々と提示しておきたい」
「ほお」
長井検事の瞳が期待で輝きました。
「そのためにも、日本人漂流民の送還が、どのような手順で行われたか。次回の公判廷で明らかにしたい。本日は、これにて閉廷」
いよいよ、マンハッタン号来日の一部始終が明らかになります。次回の公判廷が待たれます。
