開廷宣言につづいて、秦野裁判長がいいました。
「対日微笑外交主義を仮にジャクソン・ドクトリンを命名しておこう。いわゆる音物(プレゼント)外交だから、ジャクソンとしては、差し当たって幕府が何を欲しがっているか知りたい。そのために、対日情報通になったロシア公使ブキャナンの帰国を待ち、彼を上院外交委員長につけた。ジャクソンは、モリソン号事件が起きた年に大統領職を退くのだが、モリソン号事件はそうしたジャクソンの努力をぶちこわしかねない暴挙であった。前回は口にこそ出さなかったが、モリソン号事件の背後には、チャールズ・キング殺人事件があったと、わしは睨んでいる。それと、もう一つ、イギリスの監視下にあるはずの音吉が、モリソン号事件の翌年、なぜかアメリカへ渡った記録があるが、『はい。そうでしたね』と受け流してしまってよいことなのかどうか、わしはこれを重大関心事として、早くから問題視してきた」
「それは、また……」
戦国史に強い長井検事ですが、幕末史はそれほどでもないのか、秦野裁判長のいうことに驚いてばかりいるように見えます。
「証拠はあるのだろうなと、だれもが疑うが、ジョン万次郎の漂流渡米とマカオの音吉が、同じく漂流民善助、初太郎の帰国によりもたらされた情報によって、一つの線で結ばれてくる。それにラナルド・マクドナルドの偽装漂着に音吉が関与しなかったという判断より、関与したという解釈のほうに、断然、説得力がある。こうしたことと照らし合わせると、第三のデフォルメ仮説『伝書鳩プロジェクト』が信憑性を帯びるてくる。すなわち、日本史は、アメリカにも、埋もれている。と、いうよりも、アメリカにこそ、埋もれている。日本だけでなく、アメリカにも目を向けるべきなんだ」
「おっしゃる通りと存じますが、どういうことでしょうか」
「デフォルメ仮説ということで、また小説風にまとめてみた。これを読んでもらえれば、わかりが早いはずだ。また、代読を頼む」
「承知しました」
かくして、秦野裁判長の論述を長井検事が引き続き代読……。
モリソン号で浦賀へ行ってマカオへ引き返した音吉の渡米を、ジャクソン元大統領に召還されたものとすると、デフォルメ仮説という設定という流れになり、次のような場面が考えられる。
舞台はホワイトハウスの一室である。ジャクソン元大統領は、最初こそ椅子の背もたれに身を沈めて足を組んでいたが、音吉がモリソン号で日本へ行ったことを語り終わると、弾かれたように姿勢を正し、指を折り曲げて数え上げた。
「レッドリバーのアカデミーで上級教育を受けるべくフォート・バンクーバーを去ったマクドナルドと別れ別れになったのは、一八三五(天保六)年のことだろう、すると、一八三六年、一八三七年、わずか二年後に、モリソン号で日本へ行ったことになるが、相違ないか」
「はい。閣下のおっしゃる通りです」
音吉が肯定すると、ジャクソンはいった。
「わけを聞こう」
「は?」
問い返すような表情を見せる音吉に、ジャクソンは鋭く畳みかけた。
「モリソン号事件が起きたのは昨年の一八三七年、マクドナルドと日本での再会を約束して別れたのは一八三五年、マクドナルドがレッドリバーの学校を卒業するのは一八三九年のはずじゃから、今頃はまだ教室で学んでいるはずだ。物事の運び方として、少し拙速に過ぎないかというちょるんじゃよ」
「お言葉を返すようですが、拙速は結果論です。そのために、ギュツラフ師も、私も、チャールズ・キングに、いいように利用されました。私たちは広東で放り出されて陸路をマカオに向かったのです。そういうわけで、ギュツラフ師が編纂した聖書は日本人のだれにも渡ることなく終わってしまいました。しかし、チャールズ・キングに対して、私たちに何ができたでしょうか。私たち漂流難民にとっては、何もかも、すべてが、あくまで事のなりゆきなのですから」
「そのなりゆきとやらは聞いた。利用するだけ利用されて、ぽいと放り出されて、あやつだけが、今、民間人の身で、政府を出し抜いて、よくやったと、アメリカで時の人になっている。日本は忠臣蔵の国と聞くが、このまま、キングを見過ごしにしてよいか、と聞いているのだ」
「ですから、私は漂流難民ですから、どうにもなりません」
「質問を変えよう。問題は、これからだ。また、機会を求めて日本へ帰るのか、それとも……」
音吉は、手でジャクソンの発言を制止した。
「何度も申すようですが、漂流難民にとってはあくまでも事のなりゆきですから、と申し上げたはずです。マカオに残りたいと願っても、なりゆき任せですから、お答えのしようがないのです」
「しからば、身の置きどころをつくれば、アメリカのために汗を流すか」
「はい」
音吉は素直にうなずいて、それを期待してきたという感じでつづけた。
「私が日本に帰国してしまったら、それきりです。今回の航海の失敗で、今、日本に必要なのは、日本の将来につながる有益な情報だと感じました。マカオといわずアメリカにも、私のような漂流民が何人もおります。彼らに私から日本の政府に伝えるべき必要な情報をいい含め、送り込むことができれば、日米お互いのためになると考え、自分のアイデアに伝書鳩プロジェクトと名づけました」
「ほお、伝書鳩プロジェクトとな」
ジャクソンはいたく感じ入って、つづけた。
「そこまで考えてのことなら、当方としても事を図るにやぶさかではない。それには、まず、忠臣蔵だ。音吉がキングをどうにかしたければ、したいようにできるよう図るつもりだ。即ち、イギリス国籍が取れるように計らおう」
「アメリカ国籍でなく、イギリス国籍ですか?」
「耳を貸せ」
ジャクソンは音吉の耳に口を寄せて、長々と囁いた。
このとき、ジャクソンが音吉に囁いたのは、歴史的事実に語らせることにして、チャールズ・キング殺人事件なるデフォルメ仮説について、以下、開陳しておきたいと思う。
艦隊を派遣して鎖国の扉を破壊すべしというアメリカの世論
一八三八(天保九)年秋のアメリカ合衆国首都ワシントンDCはどのようであったかというと、今日ならばバージニア州側から満々と水を湛えたポトマック河を隔ててワシントン記念塔が緑深い森の上に聳える姿が遠景として眺められるのだが、当時、ワシントン記念塔はまだ建立されておらず、キャピトル・ヒルに建つ白亜の殿堂・連邦議会議事堂のドームにも今日のようにブロンズ製女神像も、天窓もなく、ちょっと見た感じでは黒い帽子を載せたような形であった。そうしたシンプルな眺めのキャピタル・ヒルの地続きに建つアメリカ合衆国大統領府は、一八一二(文化九)年の米英戦争でイギリス軍に攻め込まれた際、石積みの外壁を残して焼け落ちた歴史を持ち、再建のとき、焼け焦げて残った外壁を隠すために全館が白く塗られて「ホワイトハウス」の名がついたのであるが、ここも今日に比べると、ずっとこぢんまりした感じである。黒い帽子の連邦議事堂からスマートなたたずまいのホワイトハウスへ馬車で駆けつけてきて、見学者で賑わうエグゼクティブ・レジデンスを抜け、ウエストウイングにあってオーバルオフィスと呼ばれる大統領執務室に、二人のキングの姿が消えたのはつい先ほどのことであった。
一八三八年がどういう年であったかを日本を基準にしていうと、浦賀に現れたアメリカ商船モリソン号に浦賀奉行太田運八郎資統が無二念打払令を初めて発動させ問答無用で追い払った事件の翌年である。そのモリソン号事件がアメリカ国内に伝わり、「難破という不運に遭い、運よく助けられながら、今はホームシックに泣く自国民の船乗りたちに、日本政府の役人はなぜにかくも無情なのか」という非難の声が起きたのは昨年のことであった。非武装の船を予告なしに攻撃するのは重大な国際公法違反だから、それから一年を経たというのに対日非難の声は収まるどころか、合衆国政府の対日交渉着手の遅れにまで飛び火して、「艦隊を派遣して鎖国の扉を破壊し、即刻、開国させるべし」という世論として高まり、どうにも手がつけられない状態になっていた。日本でもモリソン号事件の真相を知った蘭学者が、当時の幕府の対応を批判したのがもとで弾圧され、蛮社の獄へと発展していくのであるが、アメリカでも似たような事態の推移をみているわけである。
それはさておき……。
ホワイトハウス大統領執務室に入った二人のキングは、貫禄十分な初老の男と一世代下と見受けられるもう一人の男にあいさつした。二人のキングの一人はウイリアム・キング上院仮議長で、もう一人がモリソン号事件を起こし国内世論に火を点じたチャールズ・キングであった。二人ずつ椅子にかけて向かい合うと初老の紳士がチャールズ・キングを見据えて決めつけた。
「アメリカ合衆国の国益を損なう者は合衆国国民の敵とみなす。招かれざる客に儀礼をつくすほどジャクソンは寛大ではない。そのつもりで控えておれよ、よいな」
アメリカ世論の寵児チャールズ・キングを国民の敵呼ばわりする初老の男の脇に、もう一人の男がいた。チャールズ・キングだけが二十八歳と若く、ほかの三人は祖父か父親に当たる年配者だ。
「お言葉を返すようですが……」
孫のように若いチャールズ・キングが反駁しようとすると、ジャクソンとみずからを呼んだ初老の男がカミナリを落とした。
「ひよっ子は黙れ」
「黙りません」
オーバル・ルームに出入りするジャクソンといえば、前大統領のアンドリュー・ジャクソン以外ではあり得ない。任期中の強権ぶりから「アンドリュー一世」と揶揄された人である。退任してからも、今を「エイジ・オブ・ジャクソン」と呼ぶ声がある。そういうジャクソンに口答えするのだから、チャールズ・キングの強心臓ぶりは相当なものだ。
「私は召喚されたから来たんです。呼び出しておいて、黙れはないのではありませんか。たとえ相手がアンドリュー一世と呼ばれ、アメリカ政界を一世風靡したジャクソン前大統領閣下であろうとも、いわずにはおれません。むしろ、当のご本人が目の前におられるとは好都合です。ここで会うたが百年目、現職のときに閣下がロバーツ氏を使節とする信任状を交付してから、七年、八年、九年……」
チャールズ・キングはあてつけがましく指を折り曲げながらいい募った。
「すなわち、時のアメリカ合衆国大統領アンドリュー・ジャクソン閣下がエドモンド・ロバーツ氏を使節に任命して、清国、コーチン・チャイナ、シャム、アラビア半島のマスカットと条約交渉を進めさせ、日本と条約交渉を行うための信任状を与えたのは九年前のことでした。しかし、清国、シャム、マスカットとの条約交渉が優先され、対日交渉は見送られてしまいました。それから三年を経て、アンドリュー一世は再びロバーツ氏に対日交渉に着手するよう訓令しましたが、ロバーツ氏はアメリカ・シャム和親条約を締結してのち、マカオで急死してしまい、昨一八三七年にはアンドリュー一世が大統領を退任してしまわれた。われわれは八年近くも待たされて、結局、一歩も先へ進めなかったのです。もう待てないというのが私の気持ちでした。しかるに、自分の落ち度を棚に上げてひよっ子は黙れとは、そのようなお言葉を当事者たる前大統領閣下の口から聞くことになろうとは思ってもみませんでした。実に心外です」
「ひよっ子は黙れというちょるろう」
ジャクソンが土佐弁を使うはずはないのだが、翻訳者の特権としてお許しねがいたい。実はチャールズ・キングを召喚するようビューレンに命じたのはジャクソンなのだが、それでいながら彼を無視するつもりのようであった。チャールズ・キングが反発して、なおもつづけた。
「私のどこがひよっ子なんですか」
「ぴよぴよ鳴いて餌をねだる、うるさくてかなわん。これ以上ほざくと命にかかわるぞ」
「仮議長、お聞きになりましたね。脅迫です。脅迫ですよ。立派に脅迫です。アンドリュー一世ともあろうお人が一介の商人を、善良なアメリカ国民を、いのちにかかわると脅したのです。これはもう立派な犯罪です」
「脅しではないぞ。ひよっ子をひよっ子と侮って放置しておけば害鳥に育つでな。害鳥に育ってしまってからでは遅い。国家国民のためやるべしと決断したときには断固として断行する」
言葉つきからすると、どうやらジャクソンは本気のようだ。今から八年後、マンハッタン号が凱旋帰国した年、ジャクソンが病気のため他界すると、直後にチャールズ・キングが原因不明の死を遂げるのであるが、八年という歳月が過ぎてからわかることであって、今のチャールズ・キングはそうとも知らずほくそ笑み、ジャクソンの脇に控える男に念を押したのであった。
「お聞きになりましたか、大統領閣下。アンドリュー一世はまだ現職のつもりでおられるようです。ならば、それなりにお振る舞いなさればよろしいのに、まるでやくざ者ですよ。ならず者です。よろしいですか。今後の推移によっては告訴も辞しませんよ。そのときは大統領閣下に証人になっていただきますから、そのおつもりで」
チャールズ・キングはどうやらトラブル好きの若者のようである。ジャクソンは声を張り上げた。
「何様でもあるまいに、おまえがどれほどのことをしたというのだ。今、アメリカのチャンスはどこにある、ニッポンか、違うだろう。では、どこだ。わかるか、わからなければ教えてやろう」
ジャクソンは言葉とは裏腹にチャールズ・キングを見ようともしないで、むしろビューレンにいって聞かせるようにつづけた。
「つい、この間まで、インドはすぐれた綿製品の生産国で輸出国だった。大都市ダッカは綿工業で好景気に沸き立ち、人口二十万人を誇る世界有数の工業都市だった。ところが、ナポレオン戦争当時の大陸封鎖令で持って行き場を失った大量生産によるイギリスの綿製品が、強権的にインドに持ち込まれ、手工業によるインドの綿製品に大打撃を与えた。安いだけで粗悪な大量生産品が優秀なインドの綿工業を滅ぼし、綿製品の生産国、輸出国から輸入国、消費市場に転落させてしまった。今やダッカの人口は二万人にすぎず、イギリス東インド会社はベンガルでつくられるアヘンを清国に輸出することで赤字に転落した貿易の帳尻を合わせるという体たらくである」
ウィリアム・キングは聞きほれた。現職時代を彷彿させるジャクソンの情熱的で有無をいわせない口調は健在なのだ。チャールズ・キングはじめ心無い世論がジャクソンは日本政府に対して何の働きかけもしてこなかったと非難しているのが心外でならないのだろう、ジャクソンはとうとう立ち上がって三人のまわりを円を描いて歩きながらいった。
「清国にしてみれば、良質のインド綿がなくなり、代わりに粗悪な大量生産品が入ってくるようになっただけでなく、アヘンまで売りつけられて、今やイギリス東インド会社とは手を切ろうかという思いである。アメリカがその気になれば、イギリスに取って代われるのに、今、ニッポンをつついてもよいことは何一つない。そういうわしの思いを知るからロバーツは二の足を踏んだ。そして、それが正解だった。ニッポンに手をつけるのは清国市場でアメリカ製品のシェアをもっと拡大して太平洋航路を開く必要に迫られたときでよい。むしろ、そのときを待つ気構えで下準備に努めるべきである。なのに貴様は広東で貿易商を営む身でありながら読みを誤って太平楽にのこのこニッポンに出かけて大砲の弾を浴びせられた。鎖国をしていて自給自足のニッポンは需要がないし供給に余力のあろうはずもなく、貴様が犯した行為は百害あって一利もない国賊的暴挙である。ましてや、最初から世論に訴えるのが目的であったとするならば、アメリカ合衆国政府に宣戦布告するに等しい反逆行為というほかない。かくなるうえは広東まで無事に帰れるとは思うなよ」
大統領執務室オーバルオフィスに前大統領ジャクソンと現職のマーチン・ビューレンが顔を揃えて二人のキングを迎えているのだが、どうやらチャールズ・キングに無言の圧力を加えるためらしい。それを知ってか知らずかチャールズ・キングはますます勝ち誇った。
「いいがかりもよいところです。あれほどの国民世論の叫びが、どうやらここには聞こえないようですね」
「何が世論なものか。どこに世論があると申すか。貿易上の利害の問題を人道問題と履き違えて、ヒステリーを起こしているにすぎん。そんな声のどこが世論なのだ。正しい事実を踏まえ、確かな見通しのうえに立って行うのが政治じゃぞ。そんな声に惑わされるほど合衆国大統領は間抜けではない」
思いもよらぬジャクソンの反撃であった。だが、チャールズ・キングの目的はどうやら大統領を挑発することにあったらしい。帰り道に気をつけろとまでいわれながら、エスコートしてきたキング仮議長を満足そうに見た。
「引き揚げましょう。こんなところに長居はご免です」
大統領ビューレンが苦々しげに応じた。
「今日の席は仮議長に話すことがあってもうけたのだから、帰るなら、余計者のおまえだけ帰れ」
「まあ、そう、おっしゃらず」
ようやくキング仮議長が口を開いて二人の間に割って入り、返す刀でチャールズ・キングをたしなめた。
「チャールズ、おまえ、ジャクソン前大統領閣下、ビューレン大統領閣下に対して失礼じゃないか」
むっとしてそっぽを向くチャールズ・キングを見て、キング仮議長は顔をしかめ、ジャクソンとビューレンに向かっておもむろに一礼した。
「彼を送ったら、すぐに戻ります。しばし中座をお許しください」
キング仮議長はチャールズ・キングの肘をつかまえ連行するようにしてオーバル・ルームから退出していった。かくして、オーバルオフィスにはジャクソン前大統領とビューレン大統領の二人が残った。
