前回の公判で、秦野裁判長が「向こう側の真相が明らかになったら、日本の史家は腰が抜けるほど驚く」といったことをご記憶と思います。「モリソン号事件のこっちには蛮社の獄があり、向こうには音吉とラナルド・マクドナルドの出会いと交流があり、マカオに戻ってオットソンと改名した音吉とジョン万次郎ら日本人漂流民のネットワークが編まれていく」ということでもあったわけですが、それらに先んじて、「こちら側」と「向こう側」の真相をおさらいしておく必要がありそうです。
秦野裁判長が開廷を宣言して、次のように述べました。
「音吉の乗る宝順丸の難破漂流が始まった天保三(一八三三)年から二年後の天保五(一八三五)年には、加州侯の名で呼ばれ、幕臣から一身に期待を集めた小田原藩主大久保加賀守忠真が、老中首座に就任した。二宮金次郎の幕臣登用のためのプログラムは、すでに進行中であり、それとワンセットの将軍家斉退隠プロジェクトが本格的に始動した」
「裁判長がよくいわれるところの『加州侯の改革』ですね」
「長井検事の論述書(本講座・その7)で、将軍家斉を引退させたやり方は明らかにされたと思う。しかし、それだけでは、単なるクーデターでしかなくなってしまうから、改革の具体的なプログラムがなければならないんだ。ところが、家斉が大御所政治を敷いて、家慶はイエスマン『そうせい公』に甘んじて、手も足も出ない。一つは、二宮金次郎の幕臣登用プログラムとして進行中であるが、まだ、この時点では『輸出用生糸の増産計画』も成り立ちようがないわけで、唯一、考えられるのが、『蒸気機関車輸入計画』なんだな。実際に、オランダに輸入のオファーを出すのは、加州侯の死後なんだが、それも家慶が水野越前守忠邦に命じたからで、加州侯存命のときに計画されたものと、わしはにらんでいる。根拠は、文化十一(一八一四)年十一月に、当時、大坂城代だった加州侯がゴローニン事件にかこつけて大黒屋光太夫から意見聴取を試みているからだ。蒸気機関車も、鉄道も、大黒屋光太夫が滞在したときのロシアにはまだなかったが、イギリスで商用鉄道がそのときすでに発足しており、ロシアでも一八三七(天保八年)年にサンクトペテルブルクとツァールスコエ間に鉄道が開通をみるのだから、大黒屋光太夫が鉄道や蒸気機関車の知識を得ていた可能性がなきにしもあらずで、結果が目的の法則に照らすと、そういうことにならざるを得ない」
「私も同感なんですが、『蒸気機関車輸入計画』は幕府の財政再建に矛盾するんですよねえ」
「しかし、実際、オランダにオファーされているんだからね。矛盾よりも事実のほうがものをいう」
「確かに、事実は曲げられません」
「肝腎なのは、そういう幕府に対して、海の向こう側のアメリカの政権担当者でね。ロシア駐在公使だったブキャナンが任期満了となってアメリカ本国に帰任したのが天保四(一八三四)年で、時の大統領がアンドリュー・ジャクソンだった。とりわけ、ロシアから対日情報を得て、ブキャナンがアメリカに帰国していめるのが大きい。逆にいえば、ブキャナンに伝わった日本に関する知識は、ロシアの域を出ないわけだが、しからば、どの程度の知識だったかというと、論述書にまとめたので、長井検事に代読を頼みたい」
「承知しました」
以下は、長井検事による秦野裁判長の論述書……。
アメリカに帰国して「伝書鳩プロジェクト」を発案したブキャナンの脳裏に真っ先に思い浮かぶのが、ロシア駐在公使時代に知己を得たエフィム・ワシリエビッチ・プチャーチンのことであった。現在はロシア海軍少将に昇進しているが、当時は知日家の海軍大佐であった。
プチャーチンが対日交渉を視野に置くに至ったきっかけが、彼が若いときに読んだアダム・ラクスマン著『ラクスマン日本渡航日記』だった。ある日、プチャーチンはパーティーの席でブキャナンに『ラクスマン日本渡航日記』の内容をかいつまんで話して聞かせた。駿河沖で難破して七ヵ月後にアリューシャン列島アムチトカ島に漂着した大黒屋光太夫は、自分よりも先に漂着していたロシア人からロシア語を学びながら四年を過ごし、在り合せの材料で船をつくってカムチャッカに渡り、ガラス工場の建設を担当しながら自然研究に余念のなかったキリル・ラクスマンとイルクーツクで出会った。キリル・ラクスマンは、光太夫から日本に関する知識を貪欲に吸収して、なお足りない部分を自分の目で補うべく、日本人漂流民を送り届けるのを口実に日本へ行こうと企てた。キリル・ラクスマンは、年来の願望を実現させるため、次男のアダムと力を合わせて、光太夫をエカテリーナ女帝に拝謁させるべく手配を尽くし、行幸先で待ち受けてとうとう拝謁を実現させた。光太夫は日本人として初めてエカテリーナ女帝に拝謁したのみでなく、ロシア語でやり取りをして、帰国を願い、許しを得た。だが、大黒屋光太夫を送還する遣日使節となって函館に赴いたのは、息子のアダム・ラクスマンであった。
しからば、なぜ、キリル・ラクスマンが、日本にそれほどの情熱の火を点したのかといえば、長崎のオランダ商館に赴任した経験を持つ博物学の師ツンベルクの影響であった。キリル・ラクスマンはツンベルクに学び、その著書『日本植物誌』と『ツンベルクの日本紀行』を読み、自分も日本へ行き学問に新分野を開拓したいという学問的野心を抱いたのである。
今、プチャーチンは、皇帝ニコライ一世に極東地域の貿易拡大の重要性を説き、みずから願い出て清国、日本の担当官に就任したと聞く。ニコライ一世が対トルコ政策を優先させたため、プチャーチンの日本派遣は実現をみるに至らないようだが、引き続いて対日交渉の機会を虎視眈々と狙っているはずである。そのプチャーチンと面識を得たのがきっかけで、ブキャナンはツンベルクの『日本植物誌』と『ツンベルクの日本紀行』を読み、ケンペルの『日本誌』『江戸参府旅行記』と深みに嵌まり、伝書鳩プロジェクトを思いついたのであった。あれから十二年、長かったのか、短かったのか……。
もちろん、ブキャナンの「伝書鳩プロジェクト」は仮説である。
ブキャナンが「伝書鳩プロジェクト」を持ちかけた相手が、対日微笑外交主義者アンドリュー・ジャクソン大統領であった。
長井検事が代読を終えると、秦野裁判長がいいました。
「天保五年が、なぜ、日米双方のエポックメーキングかというと、こちら側では徳川家慶・加州侯政権が始動し、とてつもないプロジェクトが生まれようとしていること、あちら側ではラナルド・マクドナルド(九歳)と音吉(十六歳)が日本語と英語の交換授業を行い、『伝書鳩プロジェクト』の主催者とプレーヤーが揃ったこと、以上の理由による」
「とてつもないプロジェクトと申しますと?」
「ひとことでは説明がつかん。それを、これから、結果が目的の法則に照らしながら、一つひとつ、状況証拠を積み重ねて、おのずと明らかになるようにやっていくほかない。そういうことで、本日は、ひとまず閉廷」
さあ、これから、どういうことになるのでしょうか。
