長井検事の論述のつづき……。
なぜ、生糸だったのか?
鎖国下の日本は自給自足経済で、しかも、半世紀にわたった将軍家斉の放埓な治世で幕府の財政はどん底状態。すなわち、輸出も輸入も不可能だった。貿易ができなければ開国しても意味がない。しかし、生糸はそうした常識をひっくり返すほどの起爆力を持っていた。
ペリー来航当時、リヨンに生糸取引所を持つフランスが世界最大の養蚕国であった。そのフランスで微粒子病が蔓延し始めた。微粒子病は母体感染するため子孫まで根絶やしにしてしまうから、蚕にとってはまさに致命的な伝染病である。桑を栽培する土壌から消毒して養蚕を白紙に戻し、蚕種をよそから入れて、一からやり直すほかに対策がなかった。微粒子病蔓延により最低でも向こう十数年は欧米市場で生糸が払底に向かうのは必至だった。
フランス以外の生糸生産国は欧州ではイタリア、そのほかでは極東の清国と日本。清国はイギリスと第二次アヘン戦争の真っ最中で、鎖国日本は自給自足の生産しか行っていない。しかし、輸出向けに生糸を増産すれば膨大な外貨が日本にころがり込む。
結果として、横浜開港当時、輸出生糸の価格は国内相場の三倍以上に暴騰するのだから、いわゆる特需が生糸の起爆力であった。
すると、いつ、どこで、だれが増産したのか。
日本の開国も横浜の開港も生糸から始まったわけであるが、前述したように輸出用生糸増産に関する記録がない。記録されなかった事実を掘り起こさないと日本の開国史を語っても意味がないだろうから、歴史探偵を兼ねた検察官としては、ありとあらゆる方法を駆使して解き明かすほかないわけである。
さて、唐突だが、時の老中首座阿部正弘は、嘉永二(一八四九)年閏四月十四日、幕府、異国船打払令復活の可否を会津藩主松平容敬に諮問した。
同年閏五月五日、幕府、異国船打払令復活の可否を有司に諮問。
阿部正弘は何年か先に一筋の光明を見出し、確かな見通しを持って異国船打払令への方針転換を決意し、浦賀警衛を受け持つ会津藩主松平容敬ら海防に深く関係する有司にその可否を諮問したわけである。
水戸斉昭の尊王攘夷論に譲歩して異国船打払令に転換させたとしても、薪水給与令は先例として残るわけで、いつでも再転換できる。そこに「外面攘夷、内心開国」という阿部正弘の本心が透けて見えてくる。
鎖国下の日本で、しかも国論として広まった攘夷論を刺激せず、輸出用の生糸をどうやって増産するか。
ペリー来航まで残すところ四年弱。長崎のオランダを介した貿易では生糸の特需の旨みが半減してしまうから、フランスと直貿易できるようにしないといけない。
まず、生糸の増産開始時期であるが、弘化元年当時のフランスを描いた同国の小説の記述から、「フランスの微粒子病発生は弘化元年当時」だろうから、次の事実をモンタージュすればよい。
弘化三(一八四六)年六月八日、阿部正弘は薩摩藩家老調所広郷(ずしょ・ひろさと)を呼び、「琉球支配は薩摩藩に一任、やむを得ない場合は交易を許す。ただし、相手はフランスに限り手細く行え。そうする分には交易を結んでも幕府に異存はない」と告げた事実。これが私のいう長崎以外の「第一次開港」である。
当時、琉球は日本と清国が共同支配しており、鎖国状態にあった。琉球の那覇開港はイギリスもアメリカも強く働きかけてきていたのだから、フランスだけに限るのは、生糸の輸出を視野に置くからと解釈するのが自然である。
これで、生糸の増産開始時期が特定されたわけだが、微粒子病からの復活に十数年が必要なように、輸出のための増産にも五年ないし十年の歳月が必要である。だからこそ、「フランスに限り手細く」なのである。本格的な開国と通商開始は輸出用生糸の増産体制が確立されるまで待たなければならなかった。
以上の事情を念頭に置いて年表を読み解くと、ペリー応接にしても、ハリス応接にしても、あるいは英仏露に対しても、すべて阿部正弘が描いたシナリオ通りに事が運ばれ、ペリーも、スターリングも、プチャーチンも、水戸斉昭も、阿部正弘に手玉に取られた事実が浮き彫りになる。これらが私のいう「阿部正弘の奇手」であるが、具体的な個々の解説は先へいって述べることにしたい。
つまり、これまでの「幕府は無策」という認識と百八十度解釈が異なるわけであるが、朝日新聞の平成十九年六月二十五日付朝刊十四面のペリー来航に関連する記事で「幕府は無策ではなく、国力に応じた周到な準備をしていた」という北大井上勝生教授のコメントを引用した事例があることでもあり、大勢を占める従来の解釈が内容的に「阿部正弘の奇手」にひっくり返る日もそう遠くはないだろう。
これまでの展開は、農民出身の二宮金次郎が、幕府の再建を事実上、拝命した際に、生糸の増産に活路を求めたということであった。立案は二宮金次郎が行い、斉藤弥九郎と弟子の仲居屋重兵衛が活躍したというものであった。これからの展開は、漁師上がりのジョン万次郎の帰国がからみ、あっと驚くような歴史的背景が浮かび上がるはずであるが、それも「阿部正弘の奇手」に挙げてよい。
なぜなら、幕府には「処士横議の禁令」という祖法があり、幕臣以外、外様はもちろんのこと陪臣は政治向きにタッチできかったし、意見を述べることも許されなかったから、農民と漁師を出自にする二人を幕政の枢機に参画させることなどもってのほかであった。ところが、阿部正弘は涼しい顔で英断し、断行した。それがコチコチの旧幕藩体制復古派で溜の間の重鎮井伊直弼の逆鱗に触れていって、将軍継嗣問題、勅許なき調印(日米通商条約調印強行)、安政大獄、桜田門外の変(井伊大老暗殺)、統幕とつづく。
長井検事の論述が、ここまできたところで、秦野裁判長が「待った」をかけました。
「特需が生糸の起爆力で、いつ、どこで、だれが増産したのか、ということだが、フランスの微粒子病発生から、阿部伊勢守の琉球でフランスのみに限って薩摩藩に貿易を許すというお達し、実は将軍家慶の大英断なのだが、そこがいわゆる幕末開国史のヘソなんだよ。ひとつ、ここで、モリソン号事件、マンハッタン号の来日、二宮金次郎による幕府の財政再建計画立案の経緯など、一気に掘り下げてしまおう。そうすれば、これまでの幕末開国史が、いかに大事な事実に目をつぶってきたか、白日の下にさらされるだろう。そのうえで、長井検事の先祖・長州藩執政長井雅楽(うた)の名誉を回復できるだろうし、吉田松陰一派の出鱈目ぶりが明るみに出ようものではないか」
「は」
長井検事は、いうべき言葉もなく、黙ったまま、深々と頭を下げました。
「では、モリソン号事件から、いこうか」
こうして、幕末開国史の公判廷は、新たな展開をみることになりました。
