長井検事の論述のつづき……。
泰平の眠りを覚ます
上喜撰
たった四はいで
夜も眠れず
この狂歌を文字通りに受け取って、ペリー率いる黒船が浦賀へきただけで日本が開国したと解釈するのは早計である。
ロシア、イギリス両国との摩擦が文政八(一八二五)年の異国船打払令の発令を招いたのであるが、水野忠邦が老中首座でいた天保八(一八三七)年六月二十八日、アメリカ商船モリソン号が日本人漂流民七人を送還しに浦賀へ来航した。モリソン号には商館員、医師、宣教師が乗り組んでいたから、ねらいは通商にあったと思われる(皮相的には、そのように受け止められるが、アメリカの土俵で調査を進めると、計画があまりに杜撰で、行き当たりばったりすぎて、本当のねらいは本国向けのパフォーマンスだったようだ。別の機会にくわしく検証する)。しかし、時の浦賀奉行太田運八郎資統(すけのり)は平根山砲台からモリソン号に向けていきなり砲撃を敢行した。発射された一貫目砲弾は命中しなかったのだが、モリソン号は驚いて退散、薩摩湾に向かい、七月十日、湾内に投錨した。
二日後の十二日、薩摩藩は異国船打払令に従ってモリソン号に砲撃を加えた。非武装の船舶に攻撃するのは国際公法違反である。これがモリソン号事件として世界に伝わり、欧米列強は対日戦時体制と認識するようになった。
従来からのイギリスの外圧に加えて、これまで鳴りをひそめていたアメリカまでもが攻勢に転じたため、天保十三(一八四二)年七月二十四日、幕府は外圧に屈して異国船打払令を廃止し薪水給与令に改めた。
弘化二(一八四五)年三月十二日、アメリカ捕鯨船マンハッタン号が浦賀港に日本人漂流民二十二人を送還してきた。浦賀奉行土岐頼旨(とき・よりむね)は感謝して漂流民を受け入れ、直ちに薪水食料品を供給したばかりでなく、友情の気持ちを表す和歌さえ贈った。
諸と母(もろとも)に漕や出づらん我も人も同じ三浦の海士の友ぶね
マンハッタン号の来日こそは、明治維新政府がひた隠しにした歴史的事実であり、その経緯は公式に記録されている。これも、のちに詳述することになろう。
翌三年五月、アメリカ東インド艦隊司令官ビッドルが大小の軍艦二隻で浦賀に来航、正式に開国して通商に応じるよう幕府に求めた。ビッドルの旗艦は大砲八十三門、小銃・短銃各八百挺、乗組員八百人、もう一隻は大砲二十四門、乗組員二百人である。
一年前に老中首座に就任した阿部伊勢守正弘は浦賀奉行から急報を受けると迷わず拒否の決断を下した。自給自足経済下で鎖国令を廃止してまで通商に踏み切っても意味がないからである。ビッドルは拒否の回答を友好的に受け止めて引き返した。ビッドルの浦賀来航から退去までわずか十日、土岐頼旨の友好的心情を吐露した和歌がアメリカ政府に大きな影響を与えていたことをうかがわせる。
ビッドルとペリーの違いはアメリカ政府の方針に従うか対立するかの違い。アメリカ政府とイギリス政府の違いは日本に対して友好的か交戦的かの違いである。
今後のために以上の構図を脳裏に描いておいていただきたい。
蒸気機関車の購入をオランダに打診
正確な海外情報をどれだけ把握するか、その差が外交重視になるか、内政重視になるか、そこに日本の開国史の切り口がある。
海外情報のレベルは産業革命前と後では格段の違いが生じていた。水野忠邦以前の欧米は産業革命前夜だったから、海外情報を知っている場合と知らない場合の差に開きはあまりなかった。しかし、水野忠邦の時代すなわち産業革命以後の文明の進歩は日進月歩だったから差は段違いになった。
最新の海外情報に接する幕閣首脳は開国論にますます傾き、情報に乏しい立場に置かれた者は攘夷論に傾いていくという構図がここに生まれた。
あたかもその頃、ナポレオン戦争に端を発する緊迫したヨーロッパ情勢はようやく落ち着きを取り戻し、欧米列強の黒船が再び鎖国の扉を叩き始めていた。
武士道精神が謳われた時代、精神論レベルでいうと、外圧が強まれば開国論は公言しづらくなり、逆に攘夷論が台頭する。
時の老中首座水野忠邦は開国論者、老中堀田正睦に至っては一藩一港開港論者である。二人は協議して海外情報を公開し、鎖国をつづければどういうことになるか、だれにでもおのずと判断がつくように図った。
天保十一(一八四〇)年七月、長崎奉行田口加賀守喜行(よしゆき)がオランダ商館長から知らせを受けて、清国とイギリスの間で起きた阿片戦争の結末を幕府に報告してきた。阿片戦争はイギリスのジャーディン・マセソン商会が莫大な利益を上げている阿片の持ち込みを清国政府が禁止したことから、天保十年に勃発し、イギリス艦隊が舟山列島を占領、広東・アモイ・寧波(にんぼう)の諸港を封鎖するに至ったことに端を発する。清国は貿易業務が完全に麻痺し、軍事力に物をいわせてイギリス艦隊を排除しようとしたが、逆に艦砲射撃を受けて全面的に敗北した。
水野忠邦は幕府儒者塩谷宕陰(しおのや・とういん)に「阿片戦争の一部始終を記録に残せ」と命じ、後日、『阿芙蓉異聞』(あふよういぶん)としてまとめさせた。
水野忠邦は外国で当たり前になっている蒸気仕掛けの軍艦や汽車を日本に導入し、内にも外にも強い国をつくり、鉄道によって諸国の物産が滞りなく江戸に供給される仕組みにする考えで、オランダから製鉄関係の書籍を買い付け、蒸気機関車の購入を持ちかけた(最新の考察では、水野忠邦は将軍家慶の命令に従っただけとわかった)。ところが、製鉄関係書籍の注文には快く応じた長崎商館長がなぜか汽車の商談にはよい返事をしない。正式に開国して貿易できる体制にしないと目的は実現しないわけで、攘夷論者にも海外情報を与え認識を改めさせる必要があったわけである。
これを受けての異国船打払令から薪水給与令への転換であり、水野忠邦(実は将軍家慶)の大きな功績であった。
