輸出用生糸の増産に関する長井検事の論述のつづき。

 剣客斉藤弥九郎のもう一つの顔


 輸出用生糸増産の実行役はだれだったのだろうか。その前に増産がどのように行われたか、それがわかれば実行役もわかる。

 輸出用生糸の増産は焦眉の急ではあるが、五穀制度の制約があるからおおっぴらにはやれない。土佐藩が行っていたように家臣の屋敷の庭に桑を植えるよう義務づけるほかないわけだが、そうした方法では量的に限界がある。本田畑を桑畑に転換するのが最も効果的で、しかも隠密裏に増産を進められるのは徳川親藩しかない。

川越藩、川越藩前橋御分領、紀州藩、会津藩、尾張藩、越前藩などは、いずれも養蚕が盛んで、しかも徳川親藩であった。生糸の増産を問題なく速やかに進めるには、これらの親藩に働きかけるのが最も合理的である。

 さて。

 これまでの考証で、江川坦庵と二宮金次郎が輸出用生糸の増産に関係したことが類推できたわけであるが、ペリー応接などの外交案件で二人とも身動きが取れない。そこでまず江川坦庵に代わって動いたと考えられるのが、斉藤弥九郎である。

 斉藤弥九郎は越中富山の山奥の農家の出身で、蘭学者として出世するため江戸に出た。蘭学を修めるかたわら岡田十松の撃剣館で神道無念流を学び、同門の坦庵に韮山代官手代に取り立てられ、援助を受けて、九段に練兵館道場を開いた。韮山代官手代で蘭学者、剣客でもあったわけだ。

 大塩平八郎が大坂で反乱を起こしたとき、弥九郎は坦庵の私的な隠密として急行し、事件について詳細な報告をもたらしている。代官手代は隠れ蓑で、坦庵の私的な隠密がその正体とみてよいだろう。坦庵自身もおしのびで支配地を巡検することが多く、そのときには弥九郎が一人で従った。護衛も兼ねたと思われる。

韮山代官手代としては行動範囲が限られるが、弥九郎は剣客として全国の藩士を弟子に持ち、出張指南を行っていたから、輸出用生糸の増産を持ちかける親藩に出入りする口実を設けやすく、実行役としては最適任であった。まして当時の弥九郎は、練兵館道場を息子の新太郎に任せて隠居しており、行動の自由が利いた。

 以上、いずれも状況証拠でしかないわけだが、記録がないのだから、弥九郎を最有力の実行役とみなすほかないわけである。記録があろうと、なかろうと、考える筋道としては、必須のコンセプトである。これを避けたら、幕末史は話にならなくなてしまう。

 長州藩士桂小五郎を弟子にした縁で、息子の新太郎が長州藩指南役を務めた関係から、弥九郎もしばしば出向いており、上方方面に土地勘があったため紀州、尾張、越前の三親藩を受け持ったのではないか。

残る川越藩、川越藩前橋御分領、会津藩の受け持ちが弟子の中居屋重兵衛であった。祖母が小田原出身で川越藩儒者杉村霞皐の妻だったし、会津藩士とも交わりがあり、特に書家佐瀬得所と懇意にしていたから、人脈から打ってつけであったし、彼が以上の藩と交渉を持った記録がある(『昇平日録』)。

すなわち、斉藤弥九郎と中居屋重兵衛の師弟コンビにより、徳川親藩で輸出用生糸の増産が進められたとみてよいだろう。

 

 横浜開港の恩人中居屋重兵衛

 

輸出用生糸の増産の実行役と増産方法が表裏一体で順調に進められたはずであるが、安政二(一八五五)年から同四年にかけて思いがけない異変が生じた。江川坦庵、二宮金次郎、阿部正弘の相次ぐ死である。

 江戸にいたときの中居屋重兵衛は砲薬商で、黒岩撰之助が本名であった。商人だったから、中居屋重兵衛も行動の自由が利く。しかし、韮山代官手代の斉藤弥九郎は後ろ楯の江川坦庵を失って身動きがとれなくなった。

したがって、江川坦庵死後、斉藤弥九郎の受け持ちを継承し、すべてを統括したのが中居屋重兵衛であったと考えられる。

推測の根拠は佐佐木杜太郎著『開国の先覚者中居屋重兵衛』(新人物往来社)に収録される「昇平日録」で、中居屋が交渉を持った相手先が川越藩、川越藩前橋御分領、紀州藩、会津藩、尾張藩、越前藩とわかっているからである。昇平日録に斉藤弥九郎が受け持った紀州藩、尾張藩、越前藩との取引が記録されていることからもわかる。

 中居屋重兵衛は若いとき練兵館の門弟で、道場主の弥九郎は蘭学の師匠でもあった。当初、砲薬商であった重兵衛は、江川坦庵から西洋流砲術を学ぶかたわら砲薬製造で協力していた。しかし、紀州藩、尾張藩、越前藩などには縁故がなかったし、中居屋が生糸商として世に出るのは横浜開港のときで、本業は砲薬商と書籍商だったから、最初は弥九郎の代理として動き、江川坦庵らの死を契機にすべてを受け継いだと考えるのが自然である。

中居屋重兵衛が生糸売込商に転じたのは、横浜出店直前の安政五(一八五八)年だったといわれるから、生糸の増産に関与しないで一年足らずの短期間に商売替えして、おかつ得開港直後の横浜で「浜の門跡様」とまで呼ばれ、しかも、幕府海防掛の中心的人物岩瀬忠震、永井尚志らとすでに行き来さえあり、生糸貿易を一手に牛耳るといった芸当は不可能である。

以上、帰納的に状況証拠を積み重ねてきたわけであるが、演繹的にも斉藤弥九郎・中居屋重兵衛の連携説が確認できたといい切ってよいだろう。

 輸出用生糸増産の発端と結末は、目下、以上のような筋書きしか読めないのだが、斉藤弥九郎・中居屋重兵衛の連携説以外の仮説が提起されるとしたら、開国期の歴史解釈は色彩を増し、ますますおもしろくなるだろう。

 さて、ところで。

 輸出用生糸の増産を横浜開港史の横糸とすると、横浜村におけるペリー応接が縦糸、井伊直弼と海防掛との確執が、表現は適切でないかもしれないが斜め糸になってくる。

 次回から述べる縦糸、斜め糸にも間接、直接に関係するのが実は中居屋重兵衛なのである。しかし、今は予告に留め、次回から横浜開港に至る縦糸の筋を追うことにしよう


(つづく)




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