改革倒れで世の中が改まった天保改革の不思議


 長井検事の論述のつづき。

          

水野忠邦が進めようとする印旛沼干拓とワンセットになった利根川分水路疎通普請は総費用十五万両もの一大工事である。お手伝い普請に駆り出される藩、印旛沼周辺農村の疲弊が当然のように予想された。その手当を怠って着工すれば、壮大な普請だけに途中で頓挫するのは結果を待つまでもないことであった。

ところで、普請役格という役職は文字通りだと土木普請を担当するように理解されがちだが、武士以外の民間人を登用するための受け皿に用いられた格付けで、職務の内容は必ずしも名称が意味するものと一致しない。二宮金次郎に限らず、享保改革に働いて代官にまで取り立てられた川崎宿名主田中休愚の最初の身分が普請役格であり、のちに漁師から幕臣になり軍艦操練所教授になったジョン万次郎もまた普請役格だった。

当然、鳥居耀蔵は内心おもしろくない。

 二宮金次郎は水野忠邦の思惑も鳥居耀蔵の密かな反発も知らないで、しっかりとした計画書を提出した。困窮した百姓を救済するために普請費用の一部を「三才報徳金」として貸付けながら労働力を維持し、疲弊した農村を立て直しつつ工事を完成させるというもので、これぞ改革手法という完璧な内容であった。

しかし、長期にわたるのが失政つづきの水越侯の目には大きな難点としか映らなかった。つまるところ、水野忠邦は計画の実現などより人気挽回につながる結果が欲しかったわけである。極論すれば、内容はどうでもよかった。世紀の普請に着工したという事実が欲しかった。だから、二宮金次郎の計画を受け入れず、こともあろうに鳥居耀蔵に普請の進行を委ねてしまった。

以上の推移を顧みれば、水野忠邦がみずからの信ずるところに従って二宮金次郎を起用したわけではなかったことがわかる。小田原藩の事情と水野忠邦の差し迫った立場が偶然に一致をみて二宮金次郎の登用を実現させたわけである。

 鳥居耀蔵は「それみたことか」とばかりに、二宮金次郎の計画を無視して場当たり的に工事を進め、水野忠邦に煮え湯を呑ませた「三方領地替え」の当事者・庄内藩をお手伝い普請に駆り出し、藩財政に一大打撃を与えることで忠邦の歓心を買おうとした。

 三方領地替えというのは、大御所家斉の第二十四子斉省を養子に迎えていた川越藩主松平斉典が財政破綻を裕福な出羽庄内藩への転封によって取り繕おうとしたことに端を発する「幕府権威失墜事件」である。水野忠邦は大御所家斉に取り入ろうとして、いずれはその血につながる子を藩主に立てるであろう川越藩の望みを叶え、庄内藩を越後長岡藩に、長岡藩を川越藩に移すことで、移封によるマイナスを長岡藩と折半させることにより、庄内藩を納得させようとしたわけである。これがかえって裏目に出て、幕閣内でも論議を呼び、庄内藩は農民を動員して参府し猛烈に反対運動を展開した。水越侯は大御所・将軍のお膝元で起きた騒ぎに恐れをなし、早々に命令を撤回せざるを得なくなった。老中が一藩の藩主・領民の示威を鎮圧できずに命令を撤回するなど、まさに前例のないことであった。幕府の威信と一緒に水越侯の改革人気は凋落の一途であったから、庄内藩に対して恨み骨髄に達していたということではなかったか。

 超目玉政策の印旛沼普請は無策の鳥居耀蔵に任せ切り、水越侯はもう一つの起死回生策「上知令」を発令した。上知令というのは、江戸・大坂近辺の大名領、旗本領を天領に組み入れ、給米に切り替えるというもの。重税にあえぐ農民にとっては天領になれば年貢が軽くなるわけだから歓迎すべきことではあったが、利害が最も大きくからむ老中次席土井利位が先頭に立って猛烈に巻き返しに出た。

 結局、これも撤回……。

 こんなことばかり行われて、改革が成功するはずがない。水野忠邦はとうとう上知令で蹴つまずいて、対立した土井利位に詰め腹を切らされ、二宮金次郎もまた利根川分水路疎通計画が用いられなかったばかりでなく、なまじ幕臣になったことで許可なくこれまで引き受けた仕法を進めるわけにもいかず、さりとて当座の役目もなく飼い殺し同然の境遇を余儀なくされてしまった。

 歴史の推移というものが理想を追い求めて一貫した流れで動いていると思う人はいないと思う。どこからどこまで一貫した流れで、どこで中断したか、明確に見極めたうえでないと、理解も解釈も歪んでしまう。同時代にも主力と反対勢力が底流で争っているわけで、その見極めも大事である。

 水野忠邦が二宮金次郎の計画を採用していれば、天保の改革は歴史に燦然と輝いたはずだったのに、鳥居耀蔵に任せたために「天保の改革」の形骸化が進み、金次郎は懲罰同然に更迭されてしまったわけで、結局、天保改革はマイナスばかりで何の功績もなく終わった。つまるところ、水野忠邦の天保改革は詳細な事実には言及しない年表式記述が生む蜃気楼にすぎないわけである。

 過去に「改革」の語を冠した世直しで成功したといえるのは、将軍吉宗が陣頭指揮した享保改革のみで、老中主導や学者主導の改革政治はことごとく途上で頓挫している。掲げる改革理念の高尚さより、改革と口にしないでも、あるいは少々汚れていても、時代に即した手立てを講じ、現実を理念に近づけるやり方が本来なのではないか。

改革の名を冠しようと冠しまいが、行く手に横たわる最大の難問が大奥の浪費であった。寛政の遺老が祈祷僧日道と結びついた大奥の愛欲問題にメスを入れてさえ一時的な改善にとどまった。それを思うとき、残る手段は大奥と良好な関係を保ちつつ意思の疎通を図り気長に改善していくしかない、と気づくのが本来である。だからこそ阿部正弘は日啓の大奥女中との密通事件を摘発しながら、日啓のみ死罪に処し、大奥の処置に関しては穏便に済ませた。正弘の老中首座就任は大奥の強い後押しがあったからだといわれる。改革と名を冠しないでも、やがて正弘の老中首座就任を契機に、本当の意味での改革が行われていく。

 水野忠邦失脚の直後、すなわち天保十四(一八四三)年閏九月十一日、将軍家慶から老中を拝命した阿部伊勢守正弘は、先任老中にあいさつを済ませ、表向き土井利位を首座に立てながら財政再建策の練り直しに着手した。

 印旛沼干拓・江戸湾鹿島灘疎通工事は中止、上知令は撤回、改革は失敗に終わったわけだから、末期症状に陥った幕府の財政は少しも改善をみていない。天保改革の失敗から横浜開港まで実に十七年、生糸貿易で外貨を獲得してうるおうまで、破綻状態の幕府財政は、到底、それまで続かなかったはずである。だから、どこかで「加州侯の大義」は実現をみたのだ。ところが、不思議なことに、いつどうやって行われたのか、いずこにも記されていないのである。

 しかし、二宮金次郎が普請役格としていたのだから、当然、何らかの役割を果たしたはずである。多くの事柄を書き残している二宮金次郎が、そのことに限って少しも触れていないのは、幕府の機密事項に言及するのを憚ったためだろう。

さて、ところで、加州侯なしに「大義」はどのように実現したのか。

 このことがまだ明らかになっていない。答えを求めて歴史推理はいよいよ次の段階を迎える。

更迭されたはずの水野忠邦が対外問題が再燃し始めたため謹慎を解かれて時限的に老中に復帰し、再度、失脚させられた翌年の弘化元(一八四四)年四月五日、二宮金次郎は幕府から「日光御神領村々荒地見分致し起返方仕法付見込之趣委細可申上候」という命令書を受け取った。

 これを額面通りの役目だけと受け取ってよいのだろうか。

 何か裏があるとは考えられないだろうか。

 二宮金次郎は、これを名誉とする記述を残しているが、日光御神領の復興といっても、年貢は定免で、凶作がはなはだしいときは「破免」という救済措置が取られるはずだから、つまるところ荒地起返しが主体の増産計画で、二宮金次郎が喜ぶはずがなく、ましてや「神領の仕法拝命」を名誉と思うような人となりとも思われない。分度の設定を必要としない仕法でもあり、さほど困難とも思われない。

 それなのに、「日光御神領村々荒地起返仕法の取調御用相済み候までは、隋身の面々助成の外、仕法筋相談の輩堅く相断り、一切、取りあえ申さず候事」とまでガードを固め、入魂の筆致で書き上げたのは『富国方法書』という何にでも当てはまるいわば財政再建原論、全八十四巻、「日光御神領仕法書」の範疇をはるかに超えるものであった。

 当然、同書について説明が行われたはずである。

相手はだれだったのか。

もちろん、二宮金次郎によって御神領の関係者にも解説はされただろうが、『富国方法書』と謳うからには幕府の財政再建を本命に意図しているはずで、一般論を具体的な方策に置き換えるには幕府高官に口頭で説明する必要がある。

 結論から先にいうと、時の老中首座阿部伊勢守正弘が加州侯の遺志を受け継ぎ、二宮金次郎・松平近直の二人三脚で「加州侯の改革」が実現をみるということになるのであろうが、当時、阿部正弘はまだ福山藩の藩主になったばかりで、入部のさなかに加州侯の訃報に接したわけだから、表向き二人の接点はそれほど強いわけではない。松平近直もまた徒目付という低い身分であった。

 第一、二宮金次郎と二人との接点はまったくない。

小説として書くにしても、いきなり結論から入ったら「御都合主義」の最たるものになってしまう。

 時の勘定奉行は松平河内守近直、しかも、二宮金次郎が日光御神領仕法を拝命したときに就任している。それだけではない。二宮金次郎が亡くなったのが安政三(一八五六)年で、松平近直の勘定奉行辞任が安政四年なのである。

 松平河内守近直が老中首座阿部伊勢守正弘の「懐刀」といわれ、「松平伊勢守」と異名を取った事実が、幕府の財政再建に目覚ましい働きがあったことをうかがわせる。しかし、それほどの人物・幕府高官が、なぜか生没年不詳である。

 歴史は繰り返すという。田中休愚が享保改革のために働くには大岡忠相、石谷清昌が敏腕をふるうためには田沼意次の後ろ楯が必要だった。享保改革が将軍吉宗のお声がかりで行われたから隠すことなく記録が残ったが、松平定信にその痕跡を消し去られた田沼意次の腹心石谷清昌に至っては、やはり生没年不詳なのである。加えて阿部伊勢守正弘の懐刀とされ、「松平伊勢守」とまで呼ばれるようになる筆頭勘定奉行松平近直が「生没年不詳」という不可解な事実。

 これが意味するものは何か。

 同じパターンを重ねて考えるとある種の「癖」のようなものが浮き彫りになる。よい例が『記紀』に固有のいいまわしである。過去に同じ事例があるのに年号が変わるとすべて「初めて」とし、固有名詞を用いるところを普通名詞で済ませてしまう。その独特の癖を発見した学者のお陰で『記紀』の研究が一段と進歩した。

石谷清昌、松平近直の場合は、どちらもトップと仰ぐ人物が政敵によって激しく排斥されたことが共通項としてある。前者と二人三脚で改革政治を行った田沼意次は松平定信に叩かれ、後者の後ろ楯になった阿部正弘は井伊直弼にひどく憎まれ一度は辞任の意思を表明したほどであった。松平定信と井伊直弼は江戸開府当時の強固な幕藩体制と身分制度を理想とし復活させようとした。田沼意次と阿部正弘は彼らと正反対の方向へ歴史を動かそうとした。阿部正弘は途上で病死したため井伊直弼と真正面から衝突しなかったが、もし生きていたら安政大獄の血祭りに真っ先にあげられていたことだろう。

現役時代に敏腕をふるった時の主人公が、引退後に記録から抹殺されるのは、歴史的な出来事を資料にして残す側の者が意図的にしたか、あるいは何者かに強制されたためではなかったか。

 逆に考えると、果たした役割が、身分を超えてめざましかったことを暗示するもので、松平近直・二宮金次郎の二人三脚は、職務能力に照らして「あり得ない」とするより、「あり得る」とするのが妥当ではないか。

 二宮金次郎研究者にとって、松平近直の名は寝耳に水かもしれない。しかし、二宮金次郎の「報徳仕法」は小田原藩のみならず、幕府こそ最も必要とし、しかも焦眉の急であった。

 幕府の財政は大御所家斉の半世紀超に及ぶ放漫経営ですでに破綻し、三方領地替え、上知令の相次ぐ撤回で命令系統さえおかしくなっていた。こうした現状にメスを入れることは、最早、避けられないところまできており、身分に関係なく能力第一の人選をした結果なのだろうが、公的に記録を残せば徳川家の赤恥を末代までさらすことになってしまう。

あるいはまた、農民出身の幕臣が公然と幕府の財政再建に取り組むことは表向きにはできなかったはずである。老中の身で現役将軍を無理やり隠居させた「大不忠者」の加州侯の志を継ぐだけに、公式・非公式を問わず記録に残すことは、なおのこと憚られたであろう。しかし、幕府は二宮金次郎に頼むほかないところまで財政が行き詰まっていた。

ならぱ、二宮金次郎と松平近直の出会いをどこに見出すか。

 わかっているのは、松平近直が勘定奉行に就任すると同時に、二宮金次郎に「日光御神領村々荒地起返仕法」の命が下ったということ。このことから、伊勢守正弘は加州侯の改革の何たるかを理解し、二宮金次郎が帯びる使命を十分認識し、彼が働きやすいように人材活用の資質を持つ松平近直を目付から勘定奉行に抜擢したということであろう。

 松平近直と二宮金次郎の間には韮山代官江川太郎左衛門坦庵がいる。坦庵の父英毅は二宮金次郎の資質を見極めるため、加州侯の意を受けて試験した人である。子の坦庵も郡内地方で「生き神」として崇められた仁慈の心に厚い名代官で、天保十一年六月、韮山の豪商多田弥次衛門家の立て直しを二宮金次郎に依頼し、すでに父子二代にわたって出会いを持っていた。才能・資質においてこれほど強力な布陣はなかった。

 二宮金次郎が幕府の財政再建に「報徳仕法」を用いた痕跡をうかがわせる傍証がいくつかある。江川太郎左衛門坦庵にちなんでいえば、彼の倹約ぶりは度が過ぎたもので、衣服は礼服以外すべて木綿もの、食事のおかずは朝が香の物と味噌汁、昼夜には一品が加わるのみ、酒は一日二合を過ごすことはなく、それは他家に招かれたときも同じで、愛用の箸、茶碗は自分でつくり、割れても捨てないで焼き継ぎして使った。障子は客間を除いてすべて反故紙で切り張りし、畳が破れて藁くずが出ても修繕しないで使いつづけたといわれる。斉藤弥九郎しかり、同時代の人物を考証すると、例外なく似たような倹約生活を送っている。

 江川坦庵が奉行して品川台場を築造したとき、黒船の二度目の来航が予定より早まって工事が中止になった。浪費に終わった台場の築造を皮肉って次のような落首が流布した。

「それ見たかあまり倹約するゆえに三国一の富士の物入り」

 富士を不時に掛けたもので、坦庵のみの倹約ぶりを揶揄したわけではない。幕府全体がいかに凄まじいばかりの倹約に取り組んできたか、これこそ二宮金次郎が設定した「分度」のためではなかったのか。

 ここまで考証を重ねてきて、家斉のために自壊寸前にまで陥った幕府財政を立て直した勘定奉行松平近直の陰に、実は主役の二宮金次郎がいた、とようやく強く確信するに至った


(つづく)




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