現役の将軍家斉に隠居を勧め得る人物として「加州侯」すなわち大久保加賀守忠真を割り出すことができたのは、時代小説家が歴史学者とは異なる考証パターンで資料に接するからである。全円的性格として描く主人公はもとよりのこと、半円的描写にとどめるバイプレーヤーから、断片的描写で済ませる端役に至るまで、時代小説家は登場人物単位に資料を漁ってイメージを具体化する。ところが、時代小説家にとって都合よくまとまった文献資料など一冊としてない。ジャンルを問わず山のように積み上げた資料のあちらこちらから関連のある項目を拾い上げるようにして掻き集め、つなぎ合わせていく。
白紙の段階でまず行うのは、該当人物の範囲を決め、名前を列挙することである。家斉に隠居を勧めるだけの立場にあると考えられるのは西の丸継嗣徳川家慶、天下の副将軍水戸斉昭、御三家のうち水戸家を除く紀州徳川家、尾張徳川家、御三卿のうち絶家した田安家を除く一橋家、清水家、次いで将軍正室寔子(ただこ)と舅の島津重豪、そして時の老中首座大久保加賀守忠真である。
以上の中から消去法によって該当しない人物を取り除いていく。
徳川家慶は最も強い動機を持つ人物としてかなり有力だが、隠居してからも大御所として幕政に介入する家斉に頭が上がらなかった人だから、到底、自分から働きかけることなどできなかったろう(本稿は六年前に書いたものなので、この記述は誤り。表面的には本稿の記述の通りだが、実は次期将軍家・家慶が黒幕。そのことは第九回講座で詳述の予定)。
水戸斉昭は「天下の副将軍」として将軍に意見する立場にあるが、できたとしても政治向きにかぎられる。将軍を出さないという条件で永世副将軍家として定められたのであり、徳川家の人事に介入できない決まりがあるから助言にとどまる。ただし、他の二家を動かして家斉に迫った可能性は否定できない。いずれにしても一長一短があり、主導する立場にない(主導できるのは、将軍家慶のみ)。
紀州徳川家、尾張徳川家は将軍家に嗣子がないときいずれか年長の当主が代わる決まりがあるが、継嗣として家慶が西の丸にいるだけに下手に動くと御家騒動につながる恐れがある。だから、動いていない。ただし、副将軍家と連携すれば意見の一つぐらいはいえるだろう。
家斉の父親一橋治済はむしろ現役続行を望む立場だから除外。もう一卿の清水家は影が薄く、到底、頼みにならない。
将軍正室寔子と父親の島津重豪は閨閥として搦め手から迫れる立場にあり、かなり有力だが、あえて隠居を迫る動機がない。寔子が現役の将軍正室でいたほうが何かと都合がよいからである。
最後に残った加州侯が志としては最も有力だが、所詮は老中首座である。老中首座は家斉の隠居を発議する立場にあるが、たとえ意図したとしても単独で隠居を迫ることなど不可能である。
個々にはだれもが一長一短で、ばらばらに動いたのでは不可能であるから、連携して家斉に隠居を迫ったとしか考えられない。だとすると、連携の要になれる人物として加州侯に白羽の矢が立つ(それも家慶の支持があってのこと)。ましてや、家斉隠居の直前に現役のまま病気で急逝しており、のちに有為の人材として活躍する俊秀たちをひどく落胆させている。彼らがそのとき発した言葉を個々の文献から寄せ集めると、加州侯が動いたことを裏づける何よりもの証言になる。
藤田東湖「加州侯みまかりし後は、有志の説も行われず、加州侯の御説は本人でも行えるかどうかという大義ゆえ、他の者ではどうにもなるまい」
間宮林蔵「我が輩、また力を致すべきなし」
二宮金次郎尊徳「嗚呼、我が道すでに窮せり。以後、だれとともに民を安んぜんや」
ほかにも多くの人材が痛憤の言葉を残しているが、説明が煩雑になるので以上の三人に絞った。付け加えるとすれば、加州侯が重体に陥ったというだけで、大塩平八郎が大坂で反乱した事実である。ただし、大塩平八郎の反乱についてはあとで具体的に述べる。
藤田東湖のいう「有志」とはだれだろうか。
あるいは「有志の説」「加州侯の御説」「本人でも行えるかどうかという大義」とは何を意味するのだろうか。
文字通りの解釈では有為の人材ということになり、当然、藤田東湖も含まれる。間宮林蔵もしかり、二宮金次郎しかり。しかし、藤田東湖の言葉は「二宮金次郎」を特に強く意識していっているように聞こえる。
さらに踏み込んでいえば、「有志の説」と「加州侯の御説」がワンセットで語られたのは単なる偶然だろうか。
かけがえのない人を失ったとき思わず出る言葉は、咄嗟に過去の事績を想起し、総括し、そのエキスとなる内容を表現するものである。まして、藤田東湖は文筆が巧みな人であった。表現する言葉は正確無比に選ばれ、磨きぬかれたものと思われる。
また、「本人でも行えるかどうかという大義」とは、どのようなことを指しているのだろうか。
副将軍を動かした形跡があるとはいえ、一老中が太政大臣の官職まで得て権勢盛んな将軍を隠居させるのは、希有というより、徳川史を通じても初めてのこと。しかも、それは為された。残る疑問の将軍家斉を隠居させた手段は、最早、小説として描くほかないわけだが、それでもなお「行われるかどうかという大義」という「大義」とは何であろうか。
まだ、大義が残っているぞ。
藤田東湖はこういっているのだ。すなわち、加州侯は「亡国の公方」と「君側の奸」を一掃するにとどまらず、「報徳仕法」による乱脈財政の改革まで考えていたことを意味する。そして、そのことが有為の人材に広く認識されていた。だから、「有志の説」と「加州侯の御説」がワンセットで語られたのだろう。二宮金次郎はいずれ幕臣となって加州侯の「懐刀」として働くことが既定の事実となっていて、二宮金次郎もそのつもりであったに違いない。だから、加州侯が亡くなったとき、二宮金次郎のあの発言となり、以後、「改革の志」がしっかりと胸に受け継がれたのである。藤田東湖の言葉に二宮金次郎の言葉を重ねると以上のような驚くべき事実が浮かび上がる。
二宮金次郎が加州侯にまみえたのは酒匂川のほとりが最初で、以後、相手は老中となり首座となってますます雲の上の存在になったわけだから、ほとんど数回しか面会する機会がなかった。それなのに、二宮金次郎は加州侯を失って、「嗚呼、わが道すでに窮せり。以後、だれとともに民を安んぜんや」とまで嘆いた。二宮金次郎が「報徳仕法のみが民を救う方法だ」と考えていたら、到底、それほどまでの思いの表現にはならない。
ならば「わが道」とは何だろうか。
百姓の困窮を救済するのに、「だれとともに」すなわち加州侯がなぜ必要なのだろうか。
二宮金次郎は加州侯亡きのちも報徳仕法をつづけており、むしろ、その人の死後に多くの成功例を残した。しかし、年貢を取り立てる側が困窮するたびに「増徴」という根を枯らす政策しか持たないのでは砂上の楼閣に終ってしまう。報徳仕法だけでは「民」の暮らしが安んぜられないことを、二宮金次郎がしっかり認識していたからこそ、加州侯を必要としたのである。
これほど期待された加州侯とは、どういう人だったのだろうか。
巷の人々が「世直し」として真っ先に望んだのが家斉の隠居、そして君側の奸を幕閣内から一掃することであった。
どのようにしてその「世直し」が行われたのだろうか。
加州侯の改革の白眉、将軍家斉の西丸退隠を、一老中にすぎない加州侯にどうしてやれたのか、今もって謎である。しかし、その謎を解き明かさなければ「加州侯の大義」は中身が希薄になってしまう。
おおそれながら将軍に隠居を迫る不忠も辞さず……。
加州侯は江戸城大掃除の標的をこうと見定め、一年前に老中に就任したばかりで同じ志を持つ阿部正精と改革の戦略を協議した。二人が老中で席を並べた六年間を通して密かに練り上げた戦略・戦術は恐らく次のようなものだったろう。
当面の目的は亡国の元凶家斉を一刻も早く隠居させること。なぜならば、家斉の奢侈放埒がつづくかぎり、財政の再建に着手できないし、やっても意味がない。二宮金次郎が報徳仕法で一藩・一村・一家を立て直しても、幕府の財政が改まらないといずれ皺寄せがいって元の木阿弥に帰してしまう。
密貿易・贋金つくりの噂がある薩摩藩に間宮林蔵を隠密として派遣し、証拠を押さえ、それを材料に島津重豪・茂子父娘と取引し、家斉に隠居を勧めるよう働きかける……。
谷中に感応院を建立して貰い、大奥の女中を引き込んで怪しげな祈祷を繰り返す日啓の尻尾をつかみ、芋づる式に中野石翁にまで摘発の手を伸ばす、担当者は過去に谷中延命院日道を摘発して死刑に処し、大奥を震え上がらせた脇坂安董……。
どっちにしても危ない橋を渡ることになる。二人同時に何かあったら改革は一巻の終わりである。二人で協議して、結局、阿部正精が老中を辞任し、継承者を準備することになった。
改革の継承者の準備については複雑な因数分解を伴うので、あとで詳しく述べることにして、ここでは家斉隠居を実現させた方策を明らかにする。
文政十一(一八二八)年、副将軍水戸家に家督相続の争いが起き、藤田東湖が決死で出府して斉昭に味方するよう加州侯に訴えた。予期しなかったとはいえ天下の副将軍を味方につける絶好のチャンスが向こうから飛び込んできたのだ。加州侯は斉昭相続で水戸の御家騒動を裁定し、副将軍家に大きな貸しをつくった。
天保六(一八三五)年になって、薩摩藩を探索して密貿易と贋金つくりの事実をつかんだ帰途、間宮林蔵は出雲出石藩に立ち寄り、老中首座が賄賂を取って家督相続に介入したのが「仙石騒動」の発端であることを突きとめた。間宮林蔵は急いで江戸に戻って苦心の探索結果を加州侯に報告した。すでに副将軍に貸しをつくり、今度は島津重豪と茂子と取引する材料を得たばかりでなく、へつらい者の老中首座を排除する証拠まで得たのだから、間宮林蔵から報告を受けたときの加州侯の胸中はいかばかりだったろうか。
二宮金次郎は、これほど大きな改革の渦中で報徳仕法を実践し、幕臣となって加州侯のために働く日を待っていたのだ。加州侯が老中首座に就任したと聞いたとき、「時来る」とばかり、さぞや発奮したことだろう。
加州侯は松平康任の私曲を摘発し、辞職させ、代わって老中首座に就任すると、眠れる獅子が目覚めたように行動を開始した。直言居士の副将軍水戸斉昭を動かし、あるいは島津重豪を恐喝するなどして、表裏から家斉に隠居するよう攻め立てた。
かくして、天保八(一八三七)年九月二日、将軍家斉が西丸に隠居、家慶が将軍職に就いた。しかし、加州侯が亡くなったのは三月十九日であるから、家斉の隠居まで少しずれがある。
家斉が隠居したとき、老中首座にいたのが水野忠邦で、年表式にいえば彼が責任当事者になるのだが、彼だとすると時間が少なすぎる。水野忠邦は将軍家斉と次期将軍家慶の間を巧みに泳ぎまわっていた人間だから、間違っても「家斉隠居」などに手を染めるものではない。死期の迫った加州侯が後顧の憂いを取り除くため覚悟してぶつかったというのが真相ではなかったか。
加州侯の死と家斉隠居の時間差が改革の齟齬の原因になった。この齟齬がなかったら家斉の大御所宣言はなかったはずである。加州侯の死が、家斉に大御所として権力の座にとどまらせた。二宮金次郎の幕臣への登用も白紙に戻ってしまった。当然、二宮金次郎の「我が道」と藤田東湖のいう「加州侯の大義」は宙に浮いてしまうはずだった。
ところが、驚いたことに、加州侯と阿部正精は具体的にこうなるとまでは予測しないまでも二人が犠牲になった場合を恐れて事前に策を講じていたのである。ここで時計の針を阿部正精の老中辞任当時に戻すとしよう。
文政六(一八二三)年十月十一日、福山藩主阿部伊勢守正精は長子正粋を廃嫡し、三男正寧を新たに嗣子として届け出たうえで、みずから病を申し立てて老中を辞任した。
阿部正精が「病」を理由に老中を辞任したのはなぜだろうか。
長子の廃嫡もまた病気を理由にしているが、本人はぴんぴんしていて、やがては四人もの父親になることが記録に残っている。四人の子のうち長男は早逝したが、次男が健在でいるのだから、新たに嗣子として立て直すのが筋である。しかし、次男は他家へ養子に出されてしまっていた。しかも、老中辞任の二年前にそれらのことが実に用意周到に行われている。何か意図することがあったと考えないと辻褄が合わない。さらに驚いたことに、常識的に考えれば御家騒動が起きても仕方がない状況なのに、福山藩はまったく無風であった。
のちのことになるが、阿部正精の死後五年を経て、福山藩主になっていた正寧はわが子を廃嫡し、弟の剛蔵に「正弘」を名乗らせて養子に入れ、健康上の理由で家督を譲る。
時に天保七(一八三六)年、伊勢守正弘は十八歳……。
加州侯が間宮林蔵を使って出雲国出石藩の「仙石騒動」を探索、将軍家斉君側の奸の首魁老中首座松平康任が賄賂を受けて家督問題に介入したのが御家騒動の発端であることを示す事実をキャッチし、これを公に取り上げて殿中大掃除の第一歩を踏み出そうとしたときであった。
これらのことごとくが、果たして偶然の一致といえるだろうか。
福山藩は御家騒動の火種になりかねない異例の家督相続を連続して二度も行い、二度とも無風に収まった。阿部正精が生前に道筋をつけておかなかったら、出石藩のように御家騒動につながっただろう。何らかの「黙契」があって、「いよいよ正弘を世に出すときがきた」という段取りで事が運ばれたとみなさないと、説明がつかない。
