相次ぐ開国要求、攘夷のほかに打つ手なく


 長井検事の論述つづき。

          

ラクスマン応接による影響の海外第一波が早くも寛政六年にロシアの千島列島ウルップ島占領、植民地化となって現れた。日本には被占領経験はあっても植民地化されたことはないと思われているようだが、歴史的には間違っている。ロシアによる日本領土の植民地化が現実に存在したわけで、今日の北方領土問題は幕府の海防政策の立ち遅れに端を発しているわけである。

スポーツなど勝敗を決する分野には「たら、れば」はないといわれるが、歴史の考証ではそれを欠いたら解釈の深みが失われてしまう。仮に田沼意次の蝦夷地開発が頓挫することなく進められていたとしたら、少なくとも千島占領、植民地化という事態は起きなかったはずである。

幕府はウルップ島のロシア植民地化という降って湧いたような事態にいまさらのように衝撃を受けて、老中松平信明、牧野忠精を中心に対策を練り始めた。しかし、意次の蝦夷地開発を超える名案が出ない。さりとて意次の計画を踏襲することは体面が許さない。まごまごするうちに寛政八年から九年にかけてイギリス探検船が蝦夷地の内浦湾まで入り込み、プロートンが海図作製の目的で測量してまわった。

これがラクスマン応接に起因する海外からの第二波であった。

イギリスは遅々として開発の進まない蝦夷地を未開発地とみなし、松前藩以北は切り取り勝手次第と考えたのだろう。そのための海図作製である。それなのに松前藩はイギリス船舶の測量を見て見ぬふりをした。幕府の無策ぶりもここまでいくと世界の物笑いである。寛政改革がいかにまやかしであったか、日本が進む方向をどれほど誤らせたか、あらためて顧みると今日の日本がここにこうしてあるのが不思議なくらいである。

ロシアの千島進出、イギリスの蝦夷地に対する野心、次いで来るのは何か。

幕府はようやく体面などにこだわっているときではないと気づいて、ようやく意次の計画を踏襲する決断を下した。

寛政十年四月、すなわち意次の計画中止から時を隔てること実に十二年、ようやく幕府は松平信明を蝦夷地取締御用掛に任命し百十人を超す大規模な調査団を送って蝦夷地を広範囲に探査するかたわら、近藤重蔵と最上徳内が択捉島に渡って「大日本恵登呂府」の標識柱を建て日本の領土であることを明示して帰った。

この頃、対馬海峡にも外国船が出没し始めた。

明けて寛政十一年、幕府は蝦夷地東半分を試験的に直轄地とすることを松前藩に通知して開発に着手する一方、津軽藩と南部藩に出兵を命じて警衛の任務を請け負わせ、東は択捉、北は樺太まで調査を進めながらアイヌ人の和人化、日本人の入植と次々に手を打ち始めた。幕府は無策から攘夷策に転じたわけである。

しかし、淡路島の半農半漁民から身を起こした廻船問屋高田屋嘉兵衛はいずれロシアとの交易が始まると期待して函館に拠点を移し、当面、蝦夷地警衛の陣屋へ物資を調達輸送することを業としながら、近藤重蔵の要請により択捉航路を開いて早くからその日に備えた。

幕府と高田屋嘉兵衛の見通しの食い違いが意味するのは何か。

のちに「寛政の遺臣」と呼ばれる松平信明、牧野忠精がめざすのはあくまでも田沼時代に現出した「商人階級の台頭、武家階級の士風凋落」という構図を逆転させて旧来の強固な身分制度を復活させることに主眼を置いていた。いきおい攻勢を強めるロシア、欧米列強に対する姿勢はどっちつかずになった。航海中に外国船と接触する機会が多かった廻船問屋の高田屋嘉兵衛のほうが国際情勢に目が開け日本が向かう道筋がよく見えていたということだろう。

そもそも鎖国令の発令はキリスト教排撃を目的としたもので、貿易を否定するものではなかった。だからこそ「限定開国」というかたちを取ったのであり、貿易のみを目的にするオランダ、キリスト教を持ち込む恐れのない清国に対して長崎を門戸として用意したのである。高田屋嘉兵衛はそこのところをよく理解していたから対ロシア貿易開始が近いと踏んだに違いない。判断としてはそれが正しい。

幕藩体制を支える士農工商の身分制度は徳川将軍への忠誠によって成り立つもので、その体系を思想的、理論的に裏づけるのが朱子学であった。キリスト教の伝播を許せば徳川将軍への忠誠心とキリストへの信仰心が衝突し、尊王と佐幕との微妙なバランスにもう一つ思想的楔が打ち込まれ収拾がつかなくなってしまう。キリスト教の布教を目的として外国船が来航した発令当時は有効だったのだろうが、産業革命を経た欧米列強の目的はキリスト教の布教ではなく製品の販路拡大である。キリスト教排撃の目的を達したからには、対象外の貿易を全面解禁しても何ら支障は生じない。ところが、朱子学に純粋に傾倒し復古主義に固まった「寛政の遺臣」たちは、高田屋嘉兵衛にはあった正しい認識を持たなかった。この食い違いの構図がのちのちまで尾を引いていく。

文化元(一八〇四)年、ロシア全権大使レザノフが軍艦ナジュデダ号に乗り信牌を掲げて長崎に入港し、正規の交渉ルートで幕府に開国通商を迫った。今度は使節ではなく全権大使であるから本国にいちいち問い合わせる必要がなく、その場で判断し決定できる。今度こそ長崎で一気に決着をつけようというロシアの強い意気込みがそこに読み取れた。

ところが、外国船排撃を唱える松平信明、牧野忠精は全権大使がいかなるものかを知らなかった。かつて穏健な姿勢で臨んだラクスマンと同じように考えてレザノフを甘く見たのだろう、半年近くも待たせた挙句、正しい認識を欠いた鎖国令を盾に取って一切の要求をはねつけ、国際公法も外交儀礼も何のその幕府がみずから与えた信牌を没収して追い払った。レザノフが激怒したのはいうまでもない。

レザノフは長崎から日本海を北上して蝦夷地へと向かい樺太からエトロフにかけて沿岸に砲撃を加え、略奪行為を重ねていった。以後の蝦夷地の騒乱は日本史年表に歴然と記されている通りである。田沼意次が失脚しなければいずれも年表に記される必要のなかったことばかりだ。

以上のような状況を日本史の立場だけから解釈するのは方法論としても正しくない。日露の緊迫した情勢は欧米列強にも伝わったわけであるから、彼らの目に当時の日本がどのように映ったか、推測ではあるが一応認識しておく必要がある。

まずラクスマン応接とレザノフ応接の落差の大きさに注目すると、欧米列強は日本の姿勢の変化に驚きと戸惑いを隠せなかったに違いない。常に情報を正確に収集し詳細に分析してから合理的に対策を打ち出すのが彼ら本来の姿勢だから、当然、田沼政権時代から時系列的に検討を加えたはずで、日本の開国通商開始への期待は明らかに後退したものと思われる。

よってもたらされる結論は何か。

文化五年八月十五日正午、三十八門の大砲で武装したイギリスの大型帆船フェートン号が、北方にばかり気を取られている幕府の虚を突くかのように事前の通告なく、しかも国旗を掲揚しない状態で長崎港に侵入してきた。時の長崎奉行松平康英は驚いて配下の検使にオランダ商館員を付けて小舟で漕ぎつけさせた。それを待っていたかのように、フェートン号から武装兵を乗せたボートが吊り下され、オランダ商館員を拉致して去った。あらかじめ計画してきたとしか考えられない素早い行動であった。

通訳を奪われ空しく引き返した検使の報告を受けて、松平康英は日露緊張時の先入観からフェートン号をロシア船と思い込み、オランダ商館員の奪還を命じて再度送り出した。

フェートン号は港口に船体を横向けにして出入りを遮断し、長崎奉行のオランダ商館員返還要求を無視、夕刻を待って大砲を積載したボート三隻で港内を巡回し、沖番所の警告に威嚇で応えながら停泊するオランダ商船を臨検してまわった。このとき、なぜかオランダ商館長は対応を放棄して出島から避難した。

当時、オランダはナポレオンに占領された状態で、フランスと交戦中のイギリスは敵のオランダ船の拿捕にこれ努めていた。だから、オランダ商館長は抗議もしないで難を避けたのである。

翌日、フェートン号がユニオンジャックをマストに掲揚したことで、ようやくイギリス船舶と判明した。

九州の警衛体制は、当時、次のようになっていた。万一外国船の侵略に直面した場合、長崎奉行と日田郡代が近隣諸藩に出兵を命令し、交戦して撃退するというものであった。長崎港で起きた騒動だから日田郡代の出る幕ではなく長崎奉行松平康英の専管事案である。松平康英は近隣諸藩へ出兵を命じ、当座、沖番所に詰める長崎警衛の佐賀藩兵を総動員して、乗組員三百五十人のフェートン号焼き討ちを敢行しようとした。

しかし、すでに目的を達したフェートン号がオランダ商館員と引き換えに薪水食料の補給を求めてきたため、松平康英が焼き討ちを中止して応じると、フェートン号は感謝の言葉を残しただけで出帆して去った。

わずか二日で呆気なく収まったフェートン号の長崎港蹂躙事件に翻弄された松平康英が痛感したのは、奉行としての責任の重さであった。蝦夷地警衛が老中の受け持ちであるのに対して、それ以上に重要であるはずの長崎港の警備が日田郡代をも含めて旗本の身分にすぎない者が管掌するアンバランスさに疑問を呈する遺書を残し、松平康英は自決して責任を取った。

その後もイギリス船の不法行為が近海で頻発し、次に述べる高田屋嘉兵衛とゴローニンを交換するための日露交渉が行われているさなかにも、長崎のオランダ商館乗っ取りを企てたイギリス人ハワイ総督ラッフルスがワルデナールを長崎に強行入港させる事件が起きた。以後、長崎はもとより、琉球、浦賀、常陸大津浜、陸奥沖と来航の範囲を広げ、やがてイギリスの対日交渉窓口は長崎から浦賀に変更されていく。

結局、イギリスが対日政策で下した結論は武力占領と植民地化ではなかったか。欧州ナポレオン戦争を背景に交戦中のオランダ船の拿捕という軍事目的が第一であるとしても、その陰に日本を挑発して交戦状態に持ち込みたいという意図が明瞭に透けて見える。

こうした一連の事件が蝦夷地から九州警衛に幕府の目を向け直させ、六年後の文政八(一八二五)年に発令される「無二念打払令」につながっていくのだが、それまでいくつかの紆余曲折を追う必要がある。

さて、文化元年のレザノフ事件以来、ロシアが展開する一連の海賊行為のさなかの文化八年六月四日、松前奉行支配調役奈佐政辰が北方探検調査のためロシア皇帝が派遣してきたゴローニン艦長以下八人を国後島で逮捕、函館に連行して拘禁したため、日露関係の緊張は頂点に達した。

翌文化九年、ロシアはゴローニン艦長の安否を確認するため、軍艦ディアナ号を択捉航路で待ち伏せさせ、高田屋嘉兵衛が乗船する廻船を拿捕した。ディアナ号に強制連行された高田屋嘉兵衛は副官リコルドと会見、問われるままゴローニン艦長以下八人が函館で無事を得ていることを伝え、ここぞとばかりに鎖国令の正しい解釈を明らかにして開国通商が近い将来には必ず実現するというかねてよりの持論を述べ、昨今の日露緊張関係の不毛さを説いた。

リコルドは感心しながら高田屋嘉兵衛の言葉に耳を傾け、その人物識見を高く評価したうえで、ゴローニンの返還を求める方策を率直な態度で相談した。

明けて文化十年、ロシア政府は一連の蝦夷地襲撃事件を公式に謝罪し、高田屋嘉兵衛とゴローニン艦長との交換を申し入れてきた。高田屋嘉兵衛に相談したうえでのことだから、だれの意見を参考にしたかはいうまでもない。高田屋嘉兵衛は単なる民間商人ではなく「蝦夷地御用扱人」でもあったから、幕府はロシア政府の要請に応ぜざるを得なかった。

以後、ロシアは外交交渉による通商要求に方針を転換し、日露の緊張関係は一気に雪解けを迎えた。だが、幕府はこの機会に一気に領土問題に踏み込み、決着をつけるべきだった。

蝦夷地御用扱人高田屋嘉兵衛が図らずも渦中に巻き込まれた日露緊張関係の帰趨と長崎奉行松平康英が直面した対英緊張関係のなりゆきを比較した場合、理非を明らかにして意見を述べ合う直接交渉と一方的に原理原則を通告するだけの対応のうちいずれが好結果を導き出すかは一目瞭然である。もしも、あのとき、幕府が高田屋嘉兵衛を全権大使として立て対ロシア通商開始と引き換えに植民地化された千島の返還を求めていたとしたら、恐らく今日の北方領土問題は日露間に存在しなかったはずである。

幕府が領土問題に踏み込めなかったのは高田屋嘉兵衛の事例から直接交渉の効力を学ばなかったためで、念頭にさえ浮かばなかったということだろう。その原因の過半が「寛政異学の禁」以来の朱子学への傾倒にある。田沼時代に勃興した商人階級が活躍の場を与えられて知恵と分別を身につけていったのに対して、朱子学に埋没した武家階級は教条的で応用の利かない石頭を数多く生み出した。日本の開国を遅らせた本当の原因は鎖国令というより身分制度への固執であった。開国には身分制度の崩壊が伴うということを、読者は今から強く念頭に置いて欲しい。

松平定信が断行した「寛政異学の禁」から幕府にとっては鬼っ子のような水戸学が生まれたのは皮肉というほかないのだが、それとて佐幕を尊王に置き換えただけのことで、対外的には応用が利かないどころか攘夷論と結びつくことでますます融通が利かなくなっていく。ただし、攘夷論は水戸学の本来主張するところではなく孝明天皇が紅毛人をひどく嫌って開国に強い懸念を示したため尊王の立場から同調したにすぎない。末端の信奉者は別として指導的立場にある者は「外面攘夷、内心開国」という自己矛盾に苦しんだというのが真実のありようである。そのことがペリー来航時に鎖国令の正しい解釈を妨げた原因になり、結果として今日の史家をも欺いているわけである。

辛うじて救いとなったのは、異学が禁止されたにもかかわらず、天文、地理、兵学、医学など実学として普及した蘭学が、技術的な要請から細々とではあるが命脈を保ちつづけ開明の灯火を後世に伝えたことであった。

 それはさておき、尊王主義の水戸学を攘夷思想に結びつけたのが、藤田東湖の父幽谷であった。藤田幽谷をして攘夷論に向かわせたのはラックスマン応接が原因だった。

「ラックスマン応接で明らかなように、幕府当局者は無為無策、すべてに事なかれ主義で、真の解決を望まず今が平穏無事であればよいという姿勢である。危機の本質を知らないにも程がある」

幽谷がいわんとするところを拡大解釈すれば、場当たり的な解決ではなく将来に向けて有効な解決をさぐれということであろう。姿勢としては正しいのだが、高田屋嘉兵衛らによって継承された抜本的な解決策であるはずの開国思想を敵視し、攘夷論の起爆剤に利用したのは誤りであった。

水戸学のもう一方の雄・会沢正志斎が幽谷の主張に強く共鳴し、以後、水戸藩以外の幕臣、藩士にまで広く影響を与えつつ、ニワトリが先かタマゴが先かわからない状況で先に挙げた文政八年の無二念打払令すなわち「異国船打払令」の発動に結びついて、尊皇攘夷論は法律で権威づけを得、異国船打払令は尊王攘夷論によって思想的に裏づけながら幕府を金縛りにしていった。田沼意次の時代には長崎貿易を拡大させながら次第に門戸を増やしていく段階的開国策を行う余地が曲がりなりにもあったのだが、尊王攘夷論の台頭で開国という言葉さえ封印され、幕府の対外政策は蘭学熱が再燃するまでしばらく停滞を余儀なくされていく。

 それでいながら幕府が欧米列強の侵略を免れたのは、欧州がナポレオン戦争をはじめ次から次へと戦争状態に突入していったため極東まで艦隊を派遣する余力がなく、商船のみの来航に限られたからであった。日本が無事を得たのは偶然の所産というほかなく、その偶然がまた、尊王攘夷論が水戸斉昭・藤田東湖主従に継承され、ペリー来航で矛盾を露呈、鎖国令廃止の容認へ転換を余儀なくされるまで、国内で熱烈に支持された原因でもあった


(つづく)




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