長井検事の論述つづき。
あらためていう必要もないことだが、貿易は相手とする国があって成り立つ。鎖国当時、唯一、貿易港として開かれた長崎が取引相手に認めたのが清国とオランダであった。田沼意次が国内の産地形成に努め、取引高を増やそうとした俵物は、中華料理の食材として清国には欠かせないものばかりだった。銅銭を基準通貨とする清国にとって銅地金もまた最重要輸入品だった。意次は貿易拡大を意図して現実に取引する清国の需要に見合った増産体制の構築に努めたのだが、白河侯松平定信は貿易抑制策に方針を転換させた。
国内の商品経済や金融事情に円滑を欠いたら貿易がうまくいかないこともまた、いまさらいうまでもないことである。それなのに松平定信は意次が発行した南鐐二朱判の鋳造を停止し、丁銀を新鋳して流通させ、かつての二元的流通の状態に戻してしまった。あまつさえ「棄捐令」を発動して大名武家の負債を棒引きして札差仲間に大打撃を与えた。棄捐令によって踏み倒された札差九十六人の債権は総額百十八万七千八百両にものぼった。札差仲間が結束し対抗手段として金融拒否に出たため、借金の棒引きで一時は快哉の叫びをあげた大名武家ではあったが、たちまち暮らしに行き詰まって定信に泣きを入れる始末。定信はならばとばかりに被害を受けて経営が傾いた札差向けに三万両の貸付金を拠出して、なんとか金融の再開に漕ぎつけたのだが、こんなちぐはぐなことをやっていては貸す側の借りる側に対する信頼が損なわれるだけのことであって、以後の融資にまで円滑を欠いたのは当然の帰結である。
その対策が何であったかといえば、大名武家に対する向こう三年間の「倹約令」でしかなかった。物価高騰の原因は大名武家のみならず町人の華美で奢った暮らし向きにもあるという理由づけで、市中全般を対象にして贅沢品の販売を禁じ、風紀を正すという触れ込みで混浴、女髪結、私娼、女芸者、芝居の上演、賭博などの遊興娯楽をことごとく禁止、隠密を四六時中徘徊させて徹底を図った。生産と流通の仕組みを旧に戻したうえに、結局、消費まで冷え込ませてしまった。
松平定信が断行した寛政改革はすべてにアンチ田沼政治、シングルイシュー的な重農政策への転換、緊縮財政策、経済統制策、綱紀粛正策で、魅力を感じさせるような新規の政策に乏しかった。定信の出現に「世直し」を期待した農民、棄農難民たちに対しては、前者には年貢の増徴、後者には帰農令をもって報い、
「民は愚かであるから、仁政といって恵みを与えすぎてはいけない。生かさず殺さずと申すを救民の法と心得るべし」
平然とうそぶいてはばからなかった。
これでは定信が口でいくら「民は国の本」といっても真に受ける者などいるわけがなく、本命とする重農政策にやっきとなって打ち込んだところで実が上がるはずもなかった。
「白河の清きに魚の住みかねてもとの濁りの田沼恋しき」
寛政改革当時にうたわれた狂歌である。
功なくして罪ばかりの寛政改革の中で、最も禍根を深めたのが「寛政異学の禁」であった。異学とは朱子学以外の学問をいう。朱子学とは何かといえば、中国宋代の朱熹が完成させた儒学で、封建的な身分を合理化して説く。幕藩体制の根幹をなす士農工商の身分制度は朱子学に裏打ちされていた。従来は朱子学を正学として広く民衆にまで学ばせ、他方、異学もまた認めてきたのだが、定信はそれさえも禁じてしまったのである。
辛うじて功となったのが、正学の学問所として林家の私塾にすぎなかった湯島聖堂が幕臣の師弟を教育する「昌平坂学問所」に格上げされ、のちに開国維新の担い手として活躍する俊秀の輩出をみたことである。ただし、このエリートシステムの確立が幕藩体制を支えるもう一方の「処士横議の禁令」をなしくずしにする一因となったわけで、定信がめざす方向と逆に作用したのは皮肉というほかない。
思想統制にまで及んだ以上の構造変化で、折角、底流として芽生え始めた貿易の機運が一気にしぼんでしまったのは当然のなりゆきである。国内対策とロシア対策を兼ね備えた意次の蝦夷地開発を中止し、それに代わる防御策を講じないまま、寛政三(一七九一)年九月二日、定信は「異国漂流船取扱令」を出し、全国の大名に穏便に対処するよう命令した。開国交易通市には前向きではないが、さりとて外国と事を構えたくないということなのか。反田沼策動の過激さに照らすと信じられないほどの穏健さであった。
閑話休題・
松平定信のこうした姿勢は後世の井伊直弼に受け継がれる。
井伊直弼は開明的となぜかいわれるのだが、根拠とすべき事実がない。ほんのいっときの気まぐれで、時の老中首座阿部伊勢守正弘に対する怒りから、それらしき文言の罵声を発しただけで、彼の頭には「幕府が最も幕府らしく、幕臣が最も幕臣らしくあった寛永時代への回帰」すなわち国内問題しかなかった。ごりごりこちこちの守旧主義者だったのである。どうしようもないおばかさんという点では、白河侯松平定信と双璧であった。
まず、このへんの認識から改めてかからないと幕末史のゆがみの原因は見えてこないだろう。
それはさておき。
定信が「異国漂流船取扱令」を出し、全国の大名に穏便に対処するよう命令した翌年の寛政四年九月三日、ロシアの特使ラクスマンが大黒屋光太夫以下日本人漂流民三人を護送して根室に来航した。しかし、光太夫の返還には江戸で引き渡すという条件がついていた。もちろん、本当の目的は通商の要求であった。定信は対応に苦慮する現地役人の要請を受けて、急遽、幕府目付石川忠房を派遣した。日本人漂流民は伊勢白子湊の船頭光太夫、船員の磯吉、小市であったが、このうち小市は忠房が着任する前に病死した。忠房は長崎でなければ光太夫と磯吉の返還にも通商の交渉にも応じられないとして応接そのものを拒否、出直すようにとの幕府の意向を強く伝えた。だが、ラクスマンは根室から退去したものの長崎へは向かわず帰国の途についた。
ロシアはロシアなりに田沼意次の対露貿易に積極的な姿勢をキャッチし成算ありと期待してきたのだろうが、幕閣首班の交代で方針が一変したことまで恐らく読み切れていなかったのだろう。相手が待っているときに来ないで歓迎されないときに来てしまったと後悔しきりであったと思われるが、一度の決裂で断念するラクスマンではなかった。イギリスなど欧州列強が沿海州からオホーツク、ベーリングにかけて次々に探検隊を送り込む情勢にかんがみ、かくなるうえは武力行使も辞さない思いで再来航の決意を固く胸に秘めていたに違いなかった。方針転換をするからにはエカテリーナ女帝の許可が必要なわけで、そのためにラクスマンは長崎へ向かわず本国に引き揚げたのだろう。
果たして一年後の寛政五年六月八日、ラクスマンは幕府が指示した長崎へは向かわず、いきなり函館に入港してきた。幕府の指示を無視して函館に強行入港するからには、今回のラクスマンは一歩も後に退かない覚悟である。
蝦夷地を管轄する松前藩から急報を受けた定信は再び石川忠房にラクスマンの応接を命じて次の指示を与えた。
一、国書、献上品に類する物を受け取ってはならない
一、松前で漂流民の引渡しを受ける際は、その労を厚くねぎらう。ただし、江戸以外では引き渡さないというなら拒否する
一、通商を求めてきた場合は長崎へ回航するよう指示する
寛永十(一六三三)年二月二十八日に発せられた鎖国令は、幕府奉書船以外の海外渡航を禁止し、禁を犯して海外に渡航した者の帰還は認めていない。漂流民といえども例外ではなかった。江戸でなければ引渡しに応じるというのは、事実上、漂流民は適用外にすると認めたようなものだ。ラクスマンが指示を無視して函館に来航した覚悟のほどを認識していたわけである。
函館に到着した忠房はラクスマンを松前藩浜屋敷に招くと、鎖国令を発令して以来、貿易公認相手国の清国、オランダ以外では初となる日露公式会談に臨み、定信から指令を受けた通りに応対した。すなわち、幕府は漂流民光太夫と磯吉を届けてきたラクスマンの好意に公式の場で謝意を伝えて二人の身柄を引き取ったばかりか米百俵と日本刀三振りを贈呈、「論告書」なる文書を読み上げたのである。
論告書の内容は要約して次のようなものだった。
「わが国は祖法で認められた国以外とは通商しない。また長崎以外においては通信、漂流民とも受け取ることは認められない。しかし、今回に限って遠路をもいとわず漂流民を送り届けてきた労苦を思い、例外的にこの地で受け取る。もし、通信なり通商について望むことがあるなら、あらためて長崎に来航すべし」
数日後、今度はラクスマンから会談の申し入れがあり、日本政府宛に通商を求める公文書を差し出してきた。またしても幕府の指示は無視された。忠房が長崎以外では受け取れないという理由でやんわり拒絶すると、ラクスマンは光太夫から日本語を学んだ通訳に威嚇的な言辞を述べさせた。忠房は通訳を介しての会談に救われる感じで、あれこれいい逃れを弄したうえで、長崎入港許可証「信牌」を渡す約束をして談判を終らせた。
こうした事実を資料から転記しただけでは意味が薄れてしまうだろうから、欧米列強の側から見た「ラクスマン応接」の受けとめ方を考えてみよう。
一、日本政府は長崎を通商交渉の窓口とすることを公式に認め、入港許可証を交付すると約束した
一、海外渡航者の帰還を認めないとする鎖国令の条文に関して、漂流民は例外として扱うことを公式の場で認め、なおかつ長崎以外の地であるにもかかわらず例外的に函館で受け入れた
一、幕府は外国に対する防備もなく、貿易の体制も調えておらず、その主張を無視したとしても抗議すらしないし、その場かぎりの応対しかできない
以上の既成事実が欧米列強にどのような影響をもたらすか。
ラクスマンの対日交渉の経過と結果はいずれ欧米列強の間に伝わっていくはずである。日本への開国圧力が高まったのは鎖国令発令直後数年間であった。列強は鎖国体制が強固であると悟って働きかけを控えてきたが、ラクスマンが日本から巧みに勝ち取った既成事実に照らして、再び圧力を加える絶好のきっかけを得た恰好で、実力行使に出てくることだろう。すなわち漂流民の返還を口実にして、幕府に交渉の場を設けさせ、強腰で臨めば例外として通商に応じる見込みが立つ、後世の対日交渉パターンの雛形がここに生まれたわけである。
「軍用金がなく武の道を失うことは領地を預かる身の不面目……」
田沼意次は対外的に日本がそうなることを恐れ、和戦両様の意図で印旛沼干拓普請と蝦夷地開発に着手したのである。七万人移住計画を蝦夷地防衛の第一段階と位置づける一方、それでは時間的に間に合わないと判断すると直ちにロシアに先手を打って貿易拡大へ政策を転換しようと図った。高い矜持ゆえに生まれる意次のような恥の認識が定信にはなく、ましてや確固たる方針に基づく対策も持ち合わせないまま、表面上、ラクスマン応接を無事に済ませたことを場当たり的に評価して、忠房の扶持を三百俵から五百石に引き上げた。
このときのラクスマン応接が、のちのち国内外に、どれほど多様な影響を伴って跳ね返るかも知らずに……。
定信が辞任に追い込またのはその直後のことだった。
突然の解任の原因は将軍家斉が実父一橋治済を大御所に立てて西の丸に住まわせようとしたのに対し前例がないと一蹴したことにあるとしても、治済・家斉父子、意次、定信の複雑な三角・四角関係が底流にあったことは間違いない。かつて御三卿第二位一橋家当主治済は長子豊千代を将軍家治の継嗣に立てようと画策して老中の意次を味方につけ、ライバルの第一位田安家の第二子、第三子を他家に養子に出した。田安家には男子が三人しかいなかったから二人も出してしまったら御家が絶える恐れがある。常識なら万一を考えて第三子を残すべきところをなぜか陸奥白河松平家へ養子に出されてしまった。その第三子が定信である。直後に長子が病死したため田安家は嗣子がなく絶家の憂き目を見た。御三卿が二卿になり、第一位に繰り上がったことにより、一橋治済は豊千代を将軍継嗣として西の丸に入れることに成功した。この豊千代が家斉である。複雑な三角関係と述べたのは、普通なら家斉にとって意次が恩人で、定信から恨みを買う立場だったのに、実際には反田沼、親白河として動いたからである。家斉の真実の意図は本人にしかわからないが、恐らく恩義より打算を優先させたのだろう。陸奥白河藩に養子に出されなければ定信が田安家を継いで将軍継嗣になった可能性が高い。定信の心中には「家斉憎し、意次憎し」の怨念が渦巻いていたはすである。事実、定信の意次排斥運動は熾烈を極めた。その憎悪の激しさに恐れをなした西の丸継嗣時代の家斉は「敵の敵は味方」の論理から反田沼を装い、定信を後押しすることでやがて自分に向けられるだろう怨念の矛先を鈍らようと策したのではなかったか。
二人の画策で意次が失脚すると、家治病死を受けて将軍になった家斉は、定信を老中首座に起用し、将軍補佐とまで立てて融和を図った。ところが、その直後に意次が病死したため「敵の敵は味方」という微妙なバランスが成り立たなくなった。定信は意次を蟄居謹慎に処し失脚させただけでは満足せず追罰として遠江相良藩の領地を没収、軍兵を送り込んで城から屋敷すべてを破壊しつくし、なおかつ坊主憎ければ衣まで憎いとばかりに意次が築いた仕組みをことごとく廃止してきた人間である。家斉は極端な性格を持つ定信と二人三脚をつづけることに疲れ、脅威を深刻に覚え始めていたようだ。
ラクスマン応接の直後、老中牧野忠精が定信の弱腰外交を「事実上の開国宣言」と見なして批判し、外圧に対応する軍制の整備を早急に進めるよう家斉に直訴してきた。定信と忠精は刎頚の友で国内政策では意見を同じくしたが、外交政策では真っ向から対立していた。家斉は「待っていた」とばかりに牧野忠精に乗り換えたのである。これがラクスマン応接を起因とする影響の国内第一波、定信はまさか真っ先に火の粉が我が身に降りかかろうとは夢にも思わなかったろう。
