幕府は無策で周章狼狽するだけだったのか


 

 以下は、長井検事の論述のつづきです。

          

 さて、ところで、開国維新というからには広く知られる明治維新を意識しているわけである。開国維新という用語は自分が最初に使ったと某全国紙で表明した学者もあるほどだから、その事実をもって読者は私の造語ではないことがおわかりになろう。問題は命名の後先ではなく持つ意味の大きさである。筆者が定義する「開国維新」はジョン万次郎の帰国から幕府大老井伊直弼暗殺までの足掛け十年間をさしている。さらにそれからの足掛け九年間が明治維新期となるわけで、どちらも維新と呼ぶにふさわしい動乱期であったわけだが、前者がきちんと考証されるにつれて後者の色彩は次第に新鮮味を失っていく。こうした認識は私などより先に先進的な歴史学者がとっくに述べている。だからこそ、国定教科書を生み出した明治政府はことさらに幕末正史に蓋をしつづけたのだろう。今日の歴史教科書のうち幕末期の記述は明治政府史観を踏襲していて内容解釈にほとんど変わりはなく、そのまま定説になっている。これから国民的公式見解をひっくり返すわけだから極めて私的なものであり、結論に近づくにつれて戸惑いを覚え真偽のほどを疑う向きも多かろうと思われる。自説をあえて私家版とへりくだるゆえんである。

 こうした自覚に立って、以下の記述は可能なかぎり裏づけとなる史実、出典を網羅し読者が真偽いずれかを判断しやすいように努める所存である。ただし、歴史学者と歴史小説家の考証方法の違いを理解していただく必要があると思う。

歴史学者は「資料主義」に立脚し、「文献にないことには言及しない」という姿勢を堅持しておられる。時代小説家も構想の段階では資料主義を貫いているわけであるが、つくり話を書く段階で多重クロス分析が必要になる。見てきたような嘘を書くからには時代区分を超えてありとあらゆる関連史実を採録し多面的な視点から分析しないと仮想現実が脳裏に像を結ばない。だから、考証の段階では関連する史実を広範に網羅し記録に洩れた事実すなわち「失われた現実」を立体的に再現しなければならない。歴史学者はそうした考証の果実を文章化して仕事にするのだが、時代小説家はあっさり捨てて顧みない。登場人物の葛藤場面はフィクションで再現する以外に方法がないために事実そのものを描くというより事実が持つ種々相から多面的に紡がれる場面を描くことを仕事にせざるを得ないからである。だからといって、学者より考証が杜撰ということにはならないわけで、いざ仕事に取り掛かるときにはその成果を自分の脳裏の片隅に捨ててしまうだけである。それゆえに歴史学者ほど信用されていないという現実も仕事の性格からいって仕方がないとあきらめてはいるが、できることなら誤解は解いておきたいという願いもまた一方においては常にある。

ところが、幕末史に限っていうと、世間から信用されているはずの歴史学者が言行不一致というほかない記述を平然と行っているのはどうしたことだろうか。本編の執筆に当たって私はかなりの文献に目を通しているのだが、ペリー来航時の幕府の対応についてほとんどすべてといってよいくらい、「周章狼狽」とか「無策」といった根拠のない結論を平気で述べているのには驚く。かつての私も同じ認識だったから、自分の場合を例に取ってしばらく反省の弁を述べてみよう。

私が正しい認識を欠いたのは「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」という落首を幕府の周章狼狽ぶりと誤解したからである。浦賀と江戸を早馬と早舟が櫛の歯を引くように往来した事実も誤解に拍車をかけた。しかし、時代小説を執筆するために時代区分ごとの考証を飛び飛びに重ね時系列的に一貫してほぼ全時代がつながったとき、とんでもない誤解に気づいた。

落首が揶揄する周章狼狽ぶりに該当する事実を記した文献は江戸の町民が黒船の艦砲射撃を恐れて疎開騒ぎを起こしたようすを記録した町奉行の備忘録しかなく、幕府そのものはそれを裏づけるような動きを見せていないのである。櫛の歯を引くと形容した早馬・早舟の往来も次の事実に照らせば幕府が周章狼狽したという解釈には結びつかない。

享保改革で知られる徳川吉宗は次期将軍として紀州から江戸城に向かう途中、川崎宿の兵庫本陣に一泊の予定を超えて三泊した。どん底の財政危機に陥った川崎宿を復興した本陣職田中休愚から幕府財政再建の方策を諮問するためで、吉宗はのちに休愚を江戸城に呼びつけて彼が著した『民間省要』について三時間近く講義させている。それが享保改革の発端なのだが、それはさておき、次期将軍の予定変更で江戸城は大混乱に陥り、翌日、翌々日の二日間、ひっきりなしに早馬が江戸城と川崎宿の間を駆け抜けたという記録がある。今日のように電話がない時代だから次から次へ早馬を走らせながら連絡を取り合わなければならなかったわけだ。

幕末当時に至っても早馬・早舟は唯一の通信手段であり、黒船に対処するとなれば櫛の歯を引くといわれるほどの頻度になるのは当然なのである。それをもって幕府が周章狼狽したとこじつけるには無理がある。

結論からいうと、ペリーの来航を事前に知っていた幕府は十分な対策を用意していたわけで、先に挙げた「逆転の構図」と呼びたくなるほど見事に対処し日本がイギリスの植民地になる危機を未然に防いだのである。回避したから日本の危機は現実にならなかったわけで記録にも記憶にも残らなかったのは当然である。記録にはない危機、それを未然に防いだ方策を生み出したいきさつ、それらをどのような展開方法で解き明かしたら読者に理解し納得して貰えるか、考えに考えた末、開国維新発端と展開のキーパースンと私が目する二宮金次郎とジョン万次郎の視点に立って当時の日本なり幕府の置かれた立場を読者に知っておいて貰うのが、迂遠ではあろうが、最も確かな方法であるという結論に落ち着いた。開国維新がどのように展開されたかを知るには、国内的には二宮金次郎、対外的にはジョン万次郎が果たした役割をあらかじめ読者に知っておいていただかなくてはならない。金次郎は農民出身、万次郎は漁民出身、いずれも士分に取り立てられて役割を果たしたことにも注目していただきたいのだが、併せて享保の時点で農民出身の田中休愚が将軍吉宗の諮問を受け大岡越前守忠相の尽力で代官にまで取り立てられ改革の主人公として働いた事実も併せて記憶しておいて欲しい。農民や漁民の幕政への登用は幕末期の専売特許ではなかったのであるから……。

 さて、ここまで読んだだけで、読者は従来の定説とかなり異なる内容の展開に驚かれたと思う。結論から先にいってしまうと、史実の考証に永劫不変の定説などはないわけで、今、それが覆ろうとしているだけのことである。

最近になって前野家文書が公表されたために豊臣秀吉の人物評価が一転してしまった例を持ち出すまでもなく、歴史の考証は新事実が提示された途端に解釈がひっくり返ってしまうことがままある。私は少年から青年にいたる時代に文豪吉川英治の大河時代小説『新書太閤記』を繰り返し幾度となく読み返した秀吉シンパ、吉川英治ファンであるが、近年、『武功夜話』の書名で上梓された『前野家文書』に接してからアンチ秀吉・秀長シンパに一変した。そうした視点から『新書太閤記』の考証を『前野家文書』に照らしてやり直すと、文豪吉川英治が理解に苦しんだ秀吉晩年の煩悩と残虐性、少年から壮年にいたる時代の輝きとの落差の原因が白日の下に浮かび上がってきた。少年日吉は極貧の出などではなく村長の総領息子であり、近隣諸国を放浪してのち信長の側妾吉乃のいる生駒家に入り浸り、そのつてで仕官を勝ち取った。桶狭間の合戦当時、日吉は生駒家から清洲城に移りながら残留していて、参戦していないことも明らかになった。備中大返しに至っては弟の秀長に任せきりで本人は難所を避けて船で海路をたどったことが判明した。結局、『太閤記』の最も魅力的な場面はすべて太閤秀吉・大納言秀長の兄弟コンビで共演したことになるわけで、文豪吉川英治に「理解に苦しむ」と嘆かせた愚兄の晩年はそっくり賢弟の死後に当たる。

「大納言、俺を一人にしなや」

人前もはばからず賢弟秀長の亡骸にすがってあられもなく嘆いた愚兄秀吉の気持ちが今の私には手に取るごとくわかるような気がする。すなわち、『太閤記』の陰の主人公は大和大納言秀長なのであり、その死後、晩年の太閤が秀吉の実像であると判明したといって差し支えない。吉川英治が推測した権力による堕落、豊臣家存続への妄執などが原因ではなかったのである。

和同開珎銭の和銅元年初鋳説についても同じことが起きた。和同開珎銭がわが国初の公式銅貨であることは教科書にも明記された定説であるが、平成十年夏、奈良県明日香村飛鳥池工房遺跡から富本銭が三十三枚も出土したことで覆った。

 富本銭の発見を和同開珎銭と比較して、「最古の貨幣発見」「歴史教科書の書き換えか」と全国各紙が見出しを派手に紙面に躍らせたから、記憶されている読者も多いのではないかと思う。すぐに続報が出て「流通貨幣説」「厭勝銭説」それぞれの立場から専門家の主張を紹介した。

 流通貨幣説の主張は次のような根拠に基づく。

 一、富本銭が『日本書紀』の天武十二(六八三)年の記事の記述に沿っていること

 一、国家主導の都市や寺院の建設には莫大な費用がかかる。大勢動員するのに従来のような物々交換手段では賄いだけでも対処できない

 一、先行して民間で流通したと推測される無文銀銭の存在と照らせば、明らかに貨幣として用いられたとみなすべきである

 一、日本史上の貨幣はすべて流通貨幣であり、厭勝銭という宗教的な目的だけで発行されたものはない

 一、厭勝銭としてだけなら、ここまで精巧につくる必然性がない

 厭勝銭論者は次の根拠で反駁する。

 一、政教一致の当時、『日本書紀』の記述は厭勝銭に関する規定と解釈できる

 一、和同開珎銭の場合は発行後に私鋳銭を禁じる法令が出されているのに、富本銭発行直後に私鋳銭を禁じる法令が出されたという記録がない

 一、和同開珎銭発行後に旧貨幣の富本銭との交換基準を定めた記録がない

 一、奈良時代中期の文献でさえ初めての通貨発行を和銅元年と記述している

 一、飛鳥池が飛鳥寺の傍に位置することから考えて、工房は同寺もしくは「造飛鳥寺司」の関連施設とみなすのが妥当である

 以上の根拠から両説の論争が幕を切って落とし、流通貨幣説の立場から「大宝律令」に私鋳銭を禁じる条文があると反論が行われ、厭勝銭論者は「同条文の最高刑は徒三年で軽すぎ、和同開珎銭発行後に改められている。むしろ、流通を前提としていなかったからこそ、最高刑が軽かったのだろう」と再反論した。

両論ともに見落としている疑問を解く鍵は、過去に同じ事例があるのに年号が変わるとすべて「初めて」とし、銅銭の場合には「和同開珎」「富本銭」という固有名詞を用いずにすべて「銅銭」の普通名詞を用いる独特のいいまわしである。富本銭のほうが和同開珎銭より古いことについては異論がないのだから、銭名の「和同」と年号の「和銅」はたまたま音読みが一致するだけで、厭勝銭論者が固執する和同開珎銭の和同元年初鋳説そのものが揺らぎ、富本銭に置き換わってもおかしくなくなってしまう。だとすると、厭勝論者の反論も再反論も根拠を失ってしまうわけでいかにも分が悪い。しかし、富本銭をわが国最古の流通銅貨と認めてしまうと和同開珎銭を本邦初の正式銅貨として記述した著書のすべてが意味をなくす事情を思えば、既存の権威筋が定説を死守したくなる気持ちもわからぬではない。ただし、著者個人の都合に一般世間を巻き添えにするのはフェアとはいえない。

 余談はさておき、定説が覆るには既存の権威筋が大きな妨げになるのが通例であり、定説と逆の解釈を公の場で披瀝するのはかなり勇気がいるだけでなく既存の権威筋のみならず広く一般からも白い眼で見られることを併せて覚悟しなければならない。けれども、開港百五十年を間近にした今、論争の火種をあえて投げかける意義は多少なりともあるのではないかと思う。いずれにしても歴史の考証に関してはいつ新事実が提起されるかわからないわけで、未来永劫に不変の定説などあり得ないことだけは確かである。それがこれから述べる『開国維新横浜開港誌』にあえて「私家版」の語を冠するゆえんである。とまれ、新事実の発見によって人物像、時代の真実相ともどれほどに変わるものか、これから本編を展開するに従って本編執筆の発端となった私の驚きを読者に共有していただけるものと思う

(つづく)





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