長井検事の論述つづき。
異国船を総称して「黒船」と呼ぶようになったのは、英米露の艦船が日本に開国を求めて頻繁に来航するようになった将軍家斉の時代である。帆船、外輪蒸気船ひっくるめて黒船と呼んだ。だから、ペリー艦隊が黒船の呼称の始まりではない。
あるいはまた日本の開国史をひもとくとき、従来からペリーの黒船来航から入るのが常道みたいになっているが、本法廷は家斉時代から入って横浜村ペリー応接、五カ国との和親条約締結、そして横浜開港までがクライマックス、以下、明治維新はその余燼という展開で臨みたい。その意図するところは展開が進むにつれて明らかになるだろう。
さて、ところで、家斉が将軍職に正式に就くのは天明七(一七八七)年四月十五日だが、彼は病状が悪化した将軍家治に代わって西の丸継嗣のときから幕閣内に支配の手をのばしつつあった。これが江戸時代屈指の大政治家田沼意次の失脚にからんでくる。
田沼意次の政治理念は天下から集めた金を経済政策に投じて公益に変え広く世の中に還元させるというものであった。難問は集金方法だった。米作中心の年貢に大きな比重を置く重農政策だけでは財政が行き詰まる一方だし、安易に増徴すれば農村を疲弊させてしまう。意次は親戚で腹心の勝手方勘定奉行石谷清昌と二人で知恵を絞り、貨幣経済が普及しつつある時代の流れに沿って吉宗時代に生まれた株仲間の組織を全国に拡大発展させ、専売権などを与える見返りに税金である運上金、政治献金に当たる冥加金を商人階級からしっかり取り立てた。それらと並行して、西は銀本位、東は金本位という二元的な通貨の流通が商品経済の全国展開を妨げる原因になっていることに目を向け、素材は銀貨でありながら名目は金貨という二重の性質を持つ「南鐐二朱判」を発行して事実上の一元化に努めると同時に不足していた金地金の節約を図った。南鐐は良質の銀という意味で二朱は金貨の単位である。
意次は殖産興業にも早くから着手した。砂糖座を例に取ってみよう。砂糖は大奥が消費する奢侈品で代表的な輸入商品である。吉宗時代から試みてきた国産化に成功すれば財政のマイナス要因が一つ減ってやがてはプラスに転ずる可能性が加わる。意次は老中に就任する前に川崎郷大師河原村名主池上幸豊に白砂糖の精製法を確立させてから、就任と同時に保土ヶ谷宿帷子町、仏向村の官地を貸し与えて原料の甘蔗の栽培法を研究させた。当時の帷子町は今日の桜ヶ丘から宮田にかけての地域で実に広かった。池上幸豊が苦心して甘蔗の国内栽培に成功すると全国を巡回させながら栽培法の普及に努めさせた。目下のところ、砂糖は輸入品だが、国内の産地形成に成功すれば、生糸に次いで自給自足が可能になり、大奥の浪費に足を引っ張られることもなくなるわけで、極めて理詰めで合理的な方策であった。
産地形成の観点からいえば、意次が最も意欲的に取り組んだのが、東北・北海道特産のいりこ、干あわび、フカヒレなどの「俵物」であった。俵物は対清輸出の主力商品である。意次は請負商人に特権を与え俵物の製造法を諸国に伝授してまわらせながら産地形成に努めた。こうして仕入れ量を増やし外貨を獲得することで金地金の不足を補った。
国内の金地金の払底傾向は佐渡金山など有力鉱山の産出量が先細りになったことに原因がある。意次は清国が金よりも銅を必要としていることに着眼し大坂に銅座を新設、国内からやかんや鍋などの銅製品を集めては鋳つぶし、長崎貿易で金地金と交換して不足の穴埋めを図っていった。
以上のようなユニークで卓越した政策から、意次は重商主義者とみなされているわけだが、果たして本当だろうか。
「収入は予定額以上には増えないが、ひとたび凶作などが起きれば減ってしまう。支出においては反対に減少することはないが、予定外の出費をたびたび生ずる。予定外の収入減と支出増はたとえわずかな額であっても、数年を過ぎて思わぬ結果を招く」
「もしそうなってしまった場合は、上下一致して協議せよ。その場かぎりの小細工をしないのが肝要である」
意次自身が折りにふれて述べた言葉をつなげてみればわかるようにあくまでも重農主義に立脚し、数年を過ぎて思わぬ結果を招いたとき、年貢の増徴などその場限りの対策で農民を苦しめないためにあらかじめ重商主義的政策で財政に余裕を生み出そうとしたのである。商人階級の勃興に伴い平賀源内、山東京伝、鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿、蜀山人ら科学者・文化人の輩出を見た華々しい成果の陰に、結実をみないうちに中断した重農政策が隠れてしまったにすぎない。
従来なら賄賂に当たるものに公然と相場を立てたのも意次ならではの秀逸な集金策の一つで、勘定奉行が二千両、目付が千両であったという。彦根藩主井伊直幸(なおひで)が田沼意次に賄賂を贈って大老職を手に入れたといわれるように、金さえ出せば賢愚を問わず片端から役職に就けた。勘定奉行が二千両の相場だったから、大老ともなれば莫大な額にのぼったものと思われる。こうした集金方法が「賄賂政治」と誤解された原因なのだが、従来、密かに行われていた猟官運動に公然と相場を設けただけのことで別に私腹を肥やしたわけでもなく、他人が勝手に「賄賂」と称する献金を政策に投入するシステムをつくったというのが真相であるから、意次自身にやましさはかけらもなかった。
重商主義的政策といい、猟官相場の設定といい、田沼意次がこれほどまでに腐心して収入増を図ったのは、来るべき外圧への対策を兼ねた規模壮大な計画を持っていたからである。
意次が晩年に満を持して着手した下総国印旛沼干拓普請と蝦夷地開発計画は、前者が四千ヘクタールの新田開発、後者は実に五百八十万石の新田開発を目標にしたものであった。大方の評価に背いて田沼政治はどちらかといえば重農主義であったと私が主張するゆえんである。加えて印旛沼干拓普請は利根川を利用して江戸湾と太平洋を内陸水運で結び、近い将来、外国の艦隊に江戸湾を封鎖される事態を招いたとき、持久戦で持ち堪えられるように考えたものだ。
蝦夷地開発計画も極東に進出しつつあるロシア相手の貿易を念頭に置いており、三十人を超す巡検使を現地に派遣して地理や産物、アイヌ人の生活習慣など詳細に調査したうえで、第一期七万人の移住計画を立案した。
印旛沼干拓普請と蝦夷地開発をワンセットにすると国内政策でありながら海外をも視野に置いた和戦両様の外圧対策が透けて見えてくる。
当時、欧州諸国は産業革命による近代化が進み、対英独立戦争に勝利してアメリカが独立、列強と肩を並べ始めた。アメリカという広大な植民地を失ったイギリスはインドを拠点にして矛先を極東に向け始めていた。フランスは革命前夜。海運国オランダは欧州列強に抑えられて昔日の面影はない。エカテリーナ女帝治世下のロシアは欧州諸国に輸出する毛皮を確保するためシベリアを経て沿海州に進出、対日貿易にも目を向けて新たな可能性を見出そうとしていた。こうした世界の趨勢は長崎貿易を管轄する石谷清昌がオランダ商館長から逐一聴取、直ちに意次に報告されてきた。
意次が情報を分析して将来を先読みした結果、欧州列強の侵略を防ぐには先手を打って長崎の門戸をオランダ以外に拡大して開くほかないという結論に達したものと思われる。独立して間もないアメリカは大西洋に捕鯨の漁場を求めており、やがて日本海が捕鯨の有力漁場となり、なおかつ対清貿易拡大のため太平洋航路開設目前となって外輪蒸気船の石炭補給地を必要とするときがくるまで、日本にとってはまだ視野にも入らない遠い存在であった。外交政策としては植民地政策を強硬に進めるイギリスより当面はまだ植民地政策を行っていないロシア対策を優先し、他国についてはもう少しようすを見るというのが意次の胸のうちではなかったか。
商業経済、町民文化が興隆し、これから二大計画によって米遣い社会に生きる武家、農民の暮らしの立て直しに満を持して着手したまさにそのとき、天明の大飢饉が全国を襲った。
武家、農民の立場から田沼政治のこれまでの展開を見るとき、それはあまりにも商品経済に偏っているように見える。士農工商の身分制度を幕藩体制のよりどころとしてきた徳川一門、御三家、譜代の門閥大名にしてみれば、田沼政治は既存の秩序まで破壊しかねない危険なものとしてしか映らなかった。暮らしぶりがよくなったのは商人と町民ばかりで、武家と農民は取り残された観がある。そこへもってきて未曾有の長期大飢饉に浅間山の大噴火まで加わって、地方と都会との格差、士農と工商の格差が一段と広がり離村離農が相次いで、にわかに生じた大量の難民が江戸、大坂などの大都市に流入してきた。
「田沼さまにはおよびもないがせめてなりたや公方さま」
落首のいわんとするのは田沼意次のようにはなれないまでも公方すなわち将軍にはなりたいというような意味である。こうまでうたわれて権勢を誇った意次にしてみれば、相次ぐ天災は青天の霹靂であった。「常に注意して少しのおごりもなく油断しないこと」「勝手元不如意で貯蓄なきは、徳川家に危機ある場合、役に立たぬ」と常に戒めてきた意次ではあったが、非常用金銀約八十二万両を残し貯蓄のすべてを二大計画に投じたばかりのときだけにタイミングが最悪だった。
打倒、田沼政治……。
その一番手として立ち上がったのが白河侯松平定信であった。
重農主義に立脚した印旛沼干拓普請と蝦夷地開発が巨額の資金を必要とするだけに、まず、その手当てとして重商主義的政策を断行して、しかるのちに本命とする二大計画に着手するという手順に誤りはなかったが、いかに油断とおごりを戒めた意次といえども非常用金銀八十二万両を吐き出しても窮民を救済できないほどの未曾有の天災までは予見できなかった。客観的に見ればそういうことなのだが、私憤を公憤と錯覚していた松平定信の理解するところではなかった。
「余の死後も田沼を重く用いよ」
小姓時代の意次に並々ならぬ才幹を見出し思い切って重く取り立てた前将軍家重から付託を受けた将軍家治が、まさにこのとき明日をも知れぬ病の床にあったということも打ち重なる不運の一つだった。加えて西の丸継嗣家斉はなぜか松平定信の反田沼運動を強力に後押しした。次期将軍となることが決まっている家斉のこの無定見な後押しが、松平定信をして田沼政治に未完のまま終止符を打たせ、意次を失脚させ、結果として日本の開国をペリー来航時まで遅らせたのである。
なおそのうえに、開国交易通市が実現をみるとき、輸出品を増産するシステムまで破壊し、代わるべき政策を用意する知恵も工夫もなく放埓な治世で財政基盤を失わせ、欧米列強の開国圧力に有効な手段を見出せないまま、いたずらに攘夷論の温床をつくり種まで蒔いてしまった。
結論から先に述べてしまうと、家斉の起用に応えて断行した松平定信の寛政改革は経済財政的には倹約の一点張り、文化的には抑圧政策というまれに見るシングルイシューの破壊政治にすぎなかった。
年表に記された「改革」のうち、改革の名に値するのは徳川吉宗の享保改革ぐらいではなかったか。先へいって取り上げる水野忠邦の天保改革に至っては一部が田沼政治のつまみ食い、大半は寛政改革の焼き直しとみて差し支えない。
今、あらためて歴史を振り返って見るとき、田沼政治こそ「開国維新」の萌芽であり、その未完のままの終焉が幕末混乱史の始まりであったと理解される。対外政策にかぎっても、家斉治世はその場かぎりの手立てに終始し、脈略なく矛盾に矛盾を重ねていったようすが歴然と見て取れる。抽象的な表現では読者の理解の助けにならないだろうから、これからしばらくその推移を追うことにしよう。
