関ヶ原に、もし、松尾山なかりせば


 さて。

関ヶ原とほとんど同程度に「戦場として事前に勝敗がわかってしまう地形を持つ戦場」ということでいうと、関ヶ原の右に出る場所は少ないといえます。倶利伽羅峠、九頭竜川、田楽狭間の一本道(桶狭間)、そして関ヶ原……。

本法廷は関ヶ原合戦史を審理する場ですから「関ヶ原」に注目しますが、たとえば倶利伽羅峠の合戦でいうところの地獄谷に当たる場所、あるいは九頭竜川大会戦でいうところの九頭竜川に当たるのはどこかというとき、やはり、迷いなく松尾山になるでしょう。

関ヶ原に、もし、松尾山なかりせば、果たして戦場となり得たでしょうか。

家康の立場で考えると、「ノー」です。松尾山があり、そこにはほんのもうしわけ程度の番兵がいるだけだったから、「三成にそのつもりがあるなら、よし、応じてやろうではないか」ということではなかったでしょうか。関ヶ原に松尾山があるから、家康は三成の誘いに応じたといえるわけですし、関ヶ原に、もし、松尾山なかりせば、家康は三成の誘いには応じなかったと思われます。したがって、関ヶ原合戦はなかったといえるでしょう。

松尾山はそれぐらい重要な場所だったのです。

 秦野裁判長が開廷を宣しました。

「九月十四日の晩、雨の中を三成が慌てて関ヶ原に全軍を移動させた事実は、あまりによく知られた事実であるばかりに、なぜ、どうしてそのような無理な行動に出たのか、という疑問を抱く人は少なかったように思う。長井検察官がその数少ない一人だ。そうだったな」

「はい」

「では、疑問から、どのような推理が得られたか、そいつを論述してもらおうか」

「わかりました」

 長井検事が起立して論述を開始しました。

          

 三成が立てた作戦は長篠合戦における信長の作戦の模倣

 関ヶ原合戦において三成が立てた作戦を、長篠合戦における信長の作戦の模倣とみなすと、西軍の敗因が物凄くわかりやすくなる。

 長篠城に立て籠もる徳川勢を大垣城に終結した西軍とすると、長篠城を包囲する武田軍に相当するのが赤坂に集結した東軍となる。これだけでは長篠の合戦も関ヶ原合戦も実現しようがない。

 ところが、信長が考えた作戦は長篠城から離れた設楽ヶ原を決戦場とするもので、軍勢は徳川勢を加えて三万八千、武田軍は一万五千だから二倍以上の戦力があり、鉄砲の数は一千丁とも三千丁ともいわれる。すなわち、勝頼が設楽ヶ原に来なければ成り立たない合戦であるから、この時点では、次のメッセージを持っていた。

「退却されてはいかがか。それとも、決戦をお望みか」

 信長はまさか二分の一の兵力しか持たない勝頼が決戦を選び、設楽ヶ原に移動してくるとは考えなかったと思う。

「ほ」

 この天佑に信長はほくそ笑み、家康はほっと胸をなでおろした。最も望ましいかたちで作戦が的中したからであった。

 まともなら退却を選ぶ。それこそ織田徳川連合軍としてはあまり歓迎しないところだが、長篠城救援という最低限の目的は達成される。したがって、勝頼が決戦を選ぶとするなら、せめても長篠城を攻略し、後顧の憂いを取り除いてから設楽ヶ原にくるべきだった。それさえも怠ったために、徳川別働隊による長篠城救援が可能になったばかりか、武田軍の退路を断つに至った。

 武田軍団に「最強」のイメージを焼き付けたのが騎馬軍団であった。当然、信長は騎馬軍団対策を持っていた。決戦場を設楽ヶ原に選んだことがまず第一の戦術、第二の戦術が湿地帯を流れる連呉川を水濠に見立てて馬防柵を結い連ね、陣城という独創的な防御施設を構築したこと、第三の戦術が「三段撃ち」をしたといわれる鉄砲隊の配置である。この三段撃ちには異論がある。けれども、仮に鉄砲が一千丁だったとして、三段撃ちではなく一千丁の一斉射撃の効果と三段撃ちによる連続射撃の差は、現実にはあまりなかったと思う。

 なぜなら、一千丁による一斉射撃の迫力は、最初の射撃だけで三段撃ちの三連射に匹敵するからで、武田の騎馬軍団が犠牲を無視して突撃しつづけた場合でないと三段撃ちは意味を失う。戦闘開始から勝敗の決着まで八時間という長時間にわたった戦闘時間から考えると、武田騎馬軍団は最初の一撃で撤退し、負傷した武将を収容してから、また攻撃を再開するという波状攻撃を行った公算が大であるからだ。

 さて。

 三成は関ヶ原上部の笹尾山を設楽ヶ原の茶臼山本陣に擬して、あらかじめ塹壕を掘り、馬防柵用の木材と縄を隠し、五門あったといわれる大砲まで運び込んでおいた。塹壕が事前に掘られたとする根拠は前夜来の雨である。十五日未明の到着だったのだから、雨中の暗闇で塹壕を掘るのは不可能である。大砲五門も事前に塹壕内にあったと考えないと運搬の問題が生じてしまう。

 この時点では、まだ、三成は「家康がきて、うまくいったら関ヶ原に誘い込んで、長篠の合戦の再現をしてやろう」という期待半分の気持ちでしかなかったと思う。あくまでも家康次第というわけで、やはり勝頼の判断次第と考えて複数の対応策を講じて臨んだ信長が置かれた立場と似通っている。

 問題は三成がこの時点で松尾山をどの程度意識したか、である。大谷吉継の関ヶ原到着と藤川台布陣は九月二日で、そのことに対する三成の心証は芳しくないのだから、松尾山に軍勢を登らせないためではない。現実には近江方面からの登り口は無警戒だったのだから、吉継の藤川台布陣は松尾山に軍勢を上げないことが目的ではなかった。事実、吉継の藤川台布陣から十二日後の十四日に、小早川秀秋は何らの妨害も受けずに松尾山に登り、陣地まで構築し終わっている。

 

 勝頼と三成の判断を誤らせた原因は?

 三成が秀秋の松尾山着陣にいかに肝を飛ばしたかを如実に伝える証拠がある。「九月十四日付小早川秀秋宛誓書」である。第6回日本史エンタメ講座から引用する。

家康がわざと触れまわらせた佐和山攻撃命令が間諜によって大垣城にもたらされたのは、赤坂の東軍陣地に夜襲をかけるか否か軍議が白熱を帯びているさなかであった。

「まず佐和山城を屠り、さらに大坂に進撃する。内府はそのように命令し、全軍に出陣を触れましたる由」

諜者が報告すると衝撃のあまり三成の顔から血の気が失せた。だが、すぐに気を取り直して「関ヶ原で阻止する」といい、急遽、諸将に進発を号令した。居合わせる諸将はなぜもクソもない、夜襲どころではない、全面対決なのだ、よし遅れを取るなとばかりに、早速、陣地に帰って行軍の準備に着手した。

 ここからの三成の行動は実にドラスチックであった。それを間接的に如実に物語っているのが「九月十四日付小早川秀秋宛誓書」である。陣地に帰る諸将の中から小西行長を見つけて残らせ、島左近に行軍の準備を指図すると、三成は行長の前で筆を取って次のような文面の小早川秀秋宛誓書を書き上げた。

一、秀頼公が十五歳になられるまでは、関白職を秀秋卿に譲り渡す。

一、上方御賄いとして、播磨国一円を譲り渡す。もちろん、筑前は従前通り。

一、江州において十万石を稲葉正成、平岡頼勝に秀頼公より下さるべし。

一、当座の音物として、黄金三百枚ずつ、稲葉・平岡両人に下さる。

まず三成が署名し、行長が倣って隣に名を書いた。結局、石田三成・小西行長・安国寺恵瓊・長束正家・大谷吉継の五人が署名することになるのだが、あとの三人はここにいない。

 それから半刻ほどしてから西軍は石田隊、島津隊、小西隊、宇喜多隊の順に大垣城を出た。刻限は午後七時頃、当時、天候は篠突く雨、冷たく肌に染みる雨に打たれながら、石田隊を先頭にして西軍諸将の軍勢が大垣城を発し、これから関ヶ原に向かうのである。唯一の目印が前方右手栗原山に布陣する長宗我部盛親の陣地の篝火であったというし、口も利けず、馬の口をしばり、雨に打たれながら闇夜に隠れるようにしていく行軍の難渋さは筆舌に尽くしがたいものがあったであろう。なぜ、それほどの思いをしてまで関ヶ原へ移動しなければならなかったのか。

原因は二つ考えられる。

一つは小早川秀秋が松尾山に布陣したという報告を受けたこと。松尾山はかつて織田信長が砦を築いたといわれ、当日まで大垣城主伊藤盛宗の守備兵がいたようだから秀秋に追われて報告に戻ったのだろう。これがなんとも三成には衝撃的な大事件であった。

と、いうのは、三成が松尾山に陣取らせたかったのは自白調書により「中国衆」と明らかになっているからである。つまり、毛利輝元の軍勢か宇喜多秀家を予定していたと考えてほぼ間違いないわけで、現場のシチュエーションからは宇喜多秀家が有力である。片や覚悟があっぱれで一命を捨てて働こうとの態度を示す秀家と、こなたどっちつかずに呼べど答えず琵琶湖周辺をうろついてきた小早川秀秋とでは、信頼の度合い、安心の度合い、作戦上の効果、いずれにおいても段違いである。

もう一つが、毛利輝元が来会する前に家康がきてしまったことである。しかも、直ちに佐和山城を目指すという。先まわりして待ち受けるのが残された唯一の手立てなのだが、九月十二日付増田長盛宛三成の書簡が述べるように、本人の目論見では松尾山には毛利の手勢が入ることになっていた。

そこに最も疑わしい秀秋が取って代わって居座ったのだ。

よりによって金吾秀秋とは……。

総攻撃をかけて追い落としたいところだが、時間がないし東軍につけ込まれかねない。そこで最前したためた誓書の条件にものいわせてこっちを向かせようと考えたわけである。それなら三成一人の署名でもよさそうなものだが、「手許の逼迫は御推量ありたい」状態だから引け目のようなものを感じて保証人が必要と考えたのだろう。

三成が自軍に先行して向かったのが、安国寺恵瓊と長束正家の陣であった。狼煙が上がったら総攻撃に移るよう打ち合わせてから、秀秋宛誓書に恵瓊と正家から署名を取ると、午後八時、三成は再び関ヶ原へ向かう西軍を追い越しながら藤川台をめざした。

しかし、秀秋が松尾山に布陣したというだけでは三成ばかりか西軍までもが雨中の闇を突いて関ヶ原に向かう理由としては貧弱である。東軍が佐和山城を目指すなら勝手に遣っておいて追撃し、留守を預かる正澄や宇多頼忠と連携して城下で挟撃し殲滅するのが本来の作戦であろう。

それなのに、なぜ、秀秋を利で説いてまで関ヶ原に執着するのか

以上のように説いた第6回講座の段階では気づかなかったことがある。それは三成が「秀秋を利で説いてまで関ヶ原に執着する合理的理由」などなかったということだ。

 

 信長になったつもりのはずが、勝頼の立場に置き換わっていた

九月十四日付の小早川秀秋宛誓書にまず三成が署名し、行長が倣って隣に名を書いたということは、大垣城を発つときには未署名の誓書が存在したことを意味する。すると、三成は小早川秀秋の松尾山占拠の事の重大さを認識していたことにも通じるわけで、その狼狽ぶりが目に見えるようである。

第6回の段階では、残念ながらそこにまで頭がまわらなかった。家康よりも先に関ヶ原に到着しなければならない事情に隠れて見えなかったことが、小早川秀秋の目を通して考えたことによって、明瞭に見えてきた。

長篠合戦になぞらえていうと、設楽ヶ原に臨む茶臼山に地歩を占めたつもりの三成であったが、あにはからんや、武田勝頼の立場に置き換えられてしまっていたのである。したがって、三成の最善の選択は関ヶ原放棄である。層の厚い伊勢を後詰めとして、しばらくは大垣城でようすを見るべきだった。そうしないで、関ヶ原を目指した原因が、「秀秋を説得しなければならない、努力すれば味方に引き入れるはずだ」という支離滅裂の願望で、そのために関白の座さえ約束した。自分の力ではできもしないことを持ち出すほど必死で、思慮分別を欠いていたわけである。

 信長と家康を破って活路を開く。

 家康と東軍を破って活路を開く。

 どちらも絵に描いた餅だが、いずれにしても、結末は同工異曲である。

 勝頼も、三成も、自分が判断を誤った原因を説明できないだろう。はっきりいえるのは、説得できそうだと錯覚してしまったのは「松尾山に登ったのが秀秋だから」ということではなかろうか。秀秋を外見だけの理由で暗愚と見誤ったからこそ、

一、江州において十万石を稲葉正成、平岡頼勝に秀頼公より下さるべし。

一、当座の音物として、黄金三百枚ずつ、稲葉・平岡両人に下さる。

 このような条件を思いつき、何とかなると思い込んでしまったわけである。

          

 長井検事の論述が終わると、秦野裁判長がつくづくくたびれたというようすでいいました。

「もう、いいだろう。きりがない。あと一回で、本公判廷は結審とする」

「そうですね。きりがありませんものね」

 長井検事もうんざりした様子で同調しました。いよいよ、次回、判決に代わる総括的論述が行われます 

(つづく)




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