藤川台の松尾山側に結いまわされていた馬防柵……。
これまで誰も疑問視しなかったし、考えもしませんでした。しかし、関ヶ原合戦に関係する諸文献によると馬防柵は存在したのです。関ヶ原合戦を一から見直そうということになったわけですから、ここを素通りしてしまったら、秀秋は山を下れなくなってしまうでしょう。
秦野裁判長は開廷すると同時に陪審員席に呼びかけました。
「吉継が隠れ東軍であるという断定に対して反論ないし反証が見つかりましたか。どうですか」
「これから一つひとつ断定するたびに反論ないしは反証の提示を求めます。いずれも宿題となるでしょうが、あわてて答えをデッチ上げる必要はありません。事実で裏づけるのは大変な脳作業ですから、いくらでも時間をかけてください。当座、そのことをおねがいしておいてから、馬防柵について考証することにします」
裁判長は視線を長井検事に戻しました。
「問題中の問題が馬防柵だな。秀秋の立場で考えたら、あり得ないことだろうからな。疑いだすと朽木正綱らは何のためにいるのか。味方なのか、敵なのか。十時近くまで戦わないのはなぜなんだ。疑い出したらきりがなくなった。大久保猪之助に、『どういうことなんだ、説明しろ』と詰め寄ったのは秀秋のほうでないとおかしい」
「おっしゃる通りです。これまでの関ヶ原合戦論には秀秋の視点が欠けていましたね」
長井検事が同調しました。秦野裁判長はつづけます。
「わしはだな、松本清張が好きなんだよ。それだけに清張ほどの人間が秀秋の視点で考えることを怠るというのが解せない。たとえば清張説では、『秀秋は山上に兵を集めたまま、眼下の戦局を観望していた。とはいうものの、はじめのうちは、朝霧のため視界が遮られ、銃声や鬨の声を聞くだけで、はっきりとはわからなんだ。しかし、十時すぎになると、その霧も次第にうすくなり、戦闘の模様も視野に明瞭となってきた。しかも、眼下の高原にくりひろげられた両軍の戦闘は一進一退で決定的な観察はできなかった』と、ここまではよいのだが、『かねて黒田長政から秀秋の隊につけられていた大久保猪之助という者は気が気でなく、秀秋の老臣に、直ぐに西軍に攻撃を開始するように迫った。しかるに、ここでも老臣たちは秀秋の心事を忖度して、戦機未だ熟さずと称して動かなかった。東西両方からつつかれても、小早川主従は、まだまだ、とグズついていたのだ』という段になってくると、これはもう清張がどうのというよりも、関ヶ原合戦は悪魔に呪われているというようなオカルトめいたイメージに陥らざるを得なくなってしまう」
「説明を付け加えさせていただきますと、東西両方からつつかれてというのは、三成が攻撃命令として上げた狼煙の合図、東軍としては大久保猪之助の督促ということで、家康が松尾山に鉄砲を撃たせたといった類いのヨタ話のことではありません」
そういってから、長井検事はつづけました。
「東西両軍が天下の帰趨を賭けて戦ったほどの大いくさで、勝利者側で抜群の働きをしながら、それでいて、味方からもボロクソ、クソミソにいわれて毛嫌いされるのですから、いくさのパターンからいうとまったく類例のない気違いじみた特異ケースです。まず、ありとあらゆる関ヶ原関連本に適正手続きの観点からレッドカードを突きつけてかからなければならないと思います。関ヶ原合戦本はまさにオカルト合戦論なんです」
「いくらいってもきりがないから、本題に話を戻すとして、それにしても吉継が独断で馬防柵を構築できるものかな」
「私は高虎ないし高吉が情にほだされたのだとみています。吉継があっけなく葬られたのでは死に花が咲きませんのでね。せめて、善戦できるよう馬防柵の構築を黙認したのだと推理しております」
「よもや、秀秋が負けるはずがない、そうした観測が黙認の下敷きになっているな。高吉の気持ちもわからぬではない」
「秀吉が大和大納言家潰しに出たからには、秀次の例に照らすまでもなく、仙丸の命は危なかった。仙丸だった高吉にとって吉継は命の恩人ですから、それ以外に推理のしようがありません」
「馬防柵の問題も一件落着。これも、反論・反証を求める。陪審員諸君、またしても宿題だ。反論・反証は、いつにても受け付ける」
陪審員たちは黙ってうなずきました。
秀秋は二回に分けて攻撃した、最初は様子見、二回目が総攻撃
長井検事が秦野裁判長にいいました。
「そうすると、秀秋にしてみたら、単に馬防柵だけの問題ではなくなってきますね。隠れ東軍だけに西軍とみられてしまってはとんでもないことになりかねない。あるいは、『大谷隊には手を出すな』というシグナルと受けとめられないこともない。いったい、どっちなんだ、という最大の混乱要因です」
「そりゃそうだ。味方のくせして、そこまでやるのかよ、どうなっちゃってるんだよ。秀秋にしたら、大問題出来となるわな」
「確かめようにも、いくさが始まってしまっておりますのでね」
「問題は、藤堂高刑による吉継の藤川台陣地攻撃だ。源平時代のような合戦ぶりじゃないか」
「その前に秀秋が攻撃を二回に分けたことを問題視しましょうよ。ここで清張説の先ほどの続きを引用します」
以下は長井検事が引用した松本清張説「小早川主従は、まだまだ、とグズついていたのだ」のつづき……。
《このとき、松尾山下の東軍の銃隊から秀秋の陣は一斉射撃を受けたのである。
秀秋も、これ以上、知らぬ顔の半兵衛をきめこんでいるわけにはいかない。このへんが限界とみた彼は諸隊長に命令し、直ちに西軍攻撃を伝えた。そこで、小早川隊は二手に分かれ、西北の西軍に向かって吶喊して山をかけおりた。その山麓が、秀秋の動向に備えていた大谷吉継の陣だ。小早川隊は銃卒六百人ばかりで一斉射撃をなし、次に刀槍をふるって突撃隊が襲い掛かった。秀秋にとって賽は投げられたのである》
長井検事はそこまで引用したところで、次のように発言しました。
「二手に分かれたといっているのはさすがです。正確にいい直すと、前後二回に分けたわけです。様子見の一回目は『銃卒六百人ばかりで一斉射撃をなし、次に刀槍をふるっての突撃隊』で、おそらく千人規模だったでしょう。清張説の引用をさらにつづけます」
長井検事の松本清張説引用の再度のつづき……。
《もっとも、秀秋の家来の中でも、この裏切りを承服しなかった者もいた。秀秋の戦闘隊長松野主馬という者、西軍への攻撃の命に従わず、
「今や掌を返して東軍に応じるのは秀頼公に報ずる道ではない。たとえ主君が西軍を攻撃しても、自分は無理に東軍に突撃して潔く斬死するまでだ」
とうそぶいた。使番村上右兵衛は、これを諭して、
「殿の内応は今日始まったことではない。前から内々に決まっていることだ」
と云うと、主馬はしぶしぶ山は下ったが、遂に一戦もしないで傍観していた。
これを見ても、秀秋は謀反の意図を最後まで隠していたと思える》
秦野裁判長が聞くに堪えないといった感じで長井検事を制止しました。
「清張ほどの巨匠でもかくのごとし、その典型例の一つだな。謀反だの、殿の内応はだの、まったくの世迷いごとだ。わしは清張が好きな以上に冤罪が嫌いなのでな。明治維新政府としては愛君忠国を国民の間に浸透させるためにも秀秋を血祭りにあげたい。徳川幕府としても忠義の反対概念としての『裏切り』のみせしめに秀秋をこきおろす必要があった。不穏のるつぼ岡山に転封させて死なせた後ろめたさを糊塗するねらいもある。まさに任意性のかけらもない自白調書そのものではないか。秀頼は淀殿の不義の子とわかっているから、福島正則らは高台院すなわち政かかを羽柴政権の正統として立て、秀秋は政かかの名代として関ヶ原に臨んでいるのではないか」
「裁判長は図らずもわれわれが忘れかけていた宿題に答えを出されました」
「忘れかけた宿題?」
秦野裁判長が小首を傾げました。
「伏見城に鳥居元忠が入り、秀秋ら木下一族が京都三本木にいる高台院(政かか)を護衛するという名目で城外に去ったのに、秀秋だけなぜ関ヶ原に現われたのかという疑問に、まだ答えておりませんでした」
「わしは何の考えもなしに、なりゆきでいっただけなんだが」
「それこそ任意です」
「いわれてみれば、そういうこっちゃ。秀秋が政かかの名代だからこそ、十五日未明の秀秋争奪戦になったわけだよ、明智君」
秦野裁判長十八番の「明智君」が出たところで、長井検事が軌道修正にかかりました。
「源平時代のような合戦ぶりと裁判長はおっしゃいましたが、説明を要するところだと思いますので、第6回講座から引用して説明に代えます」
以下は長井検事が引用した第6回日本史エンタメ講座・その35……。
藤堂高虎の藤川台突撃は秀秋への重大メッセージ
二木謙一著『関ヶ原合戦』はつづけていう。
《だが、そこへ籐堂高虎、京極高知らの兵が、横合いから大谷隊に突入すると、大谷隊の攻勢も止まった。
その時、大谷隊の中から、
「それがし当手の軍奉行なり。目の前にて戦いを決せよ」
と大音声をあげて一人の若武者が進み出た。島清正である。清正は島左近の四男であるが、大谷吉継の家臣として従軍していたのであった。
この名乗りに答えて、藤堂隊の中から老武士が出てきて槍を合わせたが、島清正に首を取られた。老武士は、高虎の従弟の藤堂玄蕃であった。しかしその清正も、つづいて現われた玄蕃の従者である高木平三郎に討ち取られた。
この劇的な死闘を皮切りとして、両隊はさらに攻防を続け、敵味方の死傷者が数百に達したほどの激戦を展開している。
だがこの時、大谷吉継がまったく予期していなかった、意外な事態が起こった。吉継の配下に属していた脇坂・朽木・小川・赤座の四隊が、矛先を転じて、平塚・戸田の両隊に向かって攻撃しはじめたのである。
この四隊のうちの、脇坂安治の背反は、安治が、かねてから東軍の藤堂高虎らと打ち合わせていた筋書どおりであったといわれている。脇坂隊は、藤堂の兵の振る旗に呼応して行動を起こしたのであった》
脇坂安治が行動を起こしたのは午後一時少し前とみてよいだろう。合図が旗だとすると、藤堂高虎は開戦から五時間弱も脇坂安治を待機させたことになる。まことに注目すべきというか、注目せざるを得ない事実である。
それ以前の問題として午前八時に戦端が開かれてから現在まで藤堂隊は何をやっていたのだろうか。考えられるのは小早川秀秋次第ということが東西両軍共通の認識としてあって、松尾山の動向を注視しながら、そのときがくるまで極力兵力の温存に努めたということである。
その証拠に一進一退の似たりよったりの戦況のまま推移したのに秀秋が東軍方として行動を開始してからわずか一時間で勝敗が決してしまった。それは笹尾山周辺も同様であったと思われるが、ここでは藤川台付近で起きた事実を時系列にしたがって追っていくことにしよう。
一、脇坂安治・朽木正綱・小川祐忠・赤座直保が西軍の平塚・戸田隊を攻撃。
一、小早川隊、勢いを盛り返し、再び西軍を攻撃。
一、戸田重政、平塚為広の順に討死。
一、藤堂隊、大谷隊を藤川台に追い詰める。大谷吉継、湯浅五助の介錯で自決、享年四十二歳。三浦為太夫、吉継の首級を土中に埋めて追い腹を切る。五助、藤堂高刑におのれの首級を授ける。
一、東軍、総攻撃に移る。
一、小早川・脇坂・朽木・小川・赤座隊は天満山をまわり込み、背後から小西行長の軍勢を攻撃する。小西隊は総崩れとなり、伊吹山方面に壊走する。
一、藤堂隊、がら空きになった藤川台から宇喜多秀家隊に接近、正面の福島隊、北側の小早川・脇坂・朽木・小川・赤座隊とともに三方から攻め立てる。
以上が午後一時から二時にかけての藤川台周辺各隊の行動である。
藤堂高虎ないし高刑がわざと吉継の首級を持ち帰らなかったエピソードはすでに述べたからここでは割愛する。注目すべきは大谷隊を壊滅させた直後の東軍各隊の行動である。藤堂隊を残して小早川・脇坂・朽木・小川・赤座隊が天満山を近江側からまわり込み、小西隊を背後から襲ったというのだが、これこそ本多政重ら宇喜多勢を無事に落延びさせる伏線だった。
京極高知隊は相変わらず藤堂隊から離れずにいるが、吉継の首級さえ取ろうとしない戦いぶりを見て、「しまった」と後悔し始めたはずである。しかし、いまさらどうにもならない。
高虎はどういうつもりなのか。
訝しく思いながら見ていると藤堂隊が反転して笹尾山へ向かった。恐らく福島隊の背後を進んだものであろう。したがって、藤川台はがら空きになった。これこそ藤堂高吉が仕組んで設けた宇喜多隊の脱出路であった。
二木謙一著『関ヶ原合戦』はつづけていう。
《小西隊が崩れ立つと、隣の宇喜多隊も支離滅裂となった。小早川秀秋の裏切りを怒って逆上し、
「おのれ! かの伜めと刺し違えて憤恨を晴らすべし!」
と取り乱す秀家を、家臣の明石掃部助全登が抑えとどめ、
「御憤はさることなれど、諸将の進退をも御下知あるべき御身にて、粗忽のおふるまいは如何なり」
と諌めた。激昂する秀家は、
「その方の意見はもっともなれど、秀秋が逆心を一筋に怒るは粗忽というにあらず、毛利輝元はかねての約を違い、出馬なきことさえ不審なるに、毛利秀元、吉川広家も約を変ずる上は、天下傾覆の時節なるべし。しからば今日討死して、太閤の御恩を報ずべし」
と、馬を引き寄せながらいい放った。
しかし、全登がなおも必死に秀家を抑えとどめながら、
「たとい大老・奉行の輩が、皆関東へ降参したとても、天下の危難をお救いになり、とにもかくにも秀頼公の御行く末をおはかり願えかし」
と、言葉をつくして諌めたので、秀家もようやく納得し、
「しからばそのほうに任せおくべし」
といい残し、数騎の武者とともに、小西行長と同じ伊吹山方向に逃走していった。
全登は、主君を逃がすために、二十人ばかりの兵とともに奮戦したが、まもなく全滅させられている》
明石全登はのちの大坂の陣で大坂方に名があるし、秀家の逃走経路も間違いである。同書のミスというより原典の記述がおかしいのだろう。伊吹山に逃げた小西行長、これから落延びる石田三成、ほとんどが捕まっているのだし、天満山を陣地としている秀家が向かうのはがら空きになった中仙道以外ではあり得ない。中仙道を疾駆すれば藤堂高虎はもとから追うつもりがないのだから、佐和山だろうが、大坂だろうが、岡山だろうが、今のうちなら味方の勢力圏内を好きなように駆け抜けることができた。
宇喜多隊のみ無事に落延びた理由が以上で判明した。
秦野裁判長がしみじみ述懐しました。
「腐っても鯛ではないが、バイアスにまみれながら小早川隊が二つに分かれたことを見落とさなかったのはさすがだな」
「でも、秀秋を頭から愚鈍、裏切り者呼ばわりですからね。軍勢を二手に分けて様子見をしてから総攻撃に移る慎重さは愚鈍ではできない芸当ですよ」
「藤堂、京極、朽木、脇坂、赤座、小川が挙って藤川台に攻めかかった。秀秋にとっては信頼するに足る確かなメッセージだ。今日はそれを確認できただけで大収穫だな。本日は、これにて閉廷」
