伏見城退去後、小早川秀秋の軍勢八千は東軍の隠れ遊軍となった


 小早川秀秋の行動について、未解明の問題点があります。伏見城に鳥居元忠が入り、秀秋ら木下一族が京都三本木にいる高台院(政かか)を護衛するという名目で城外に去ったのに、秀秋だけなぜ関ヶ原に現われたのか、ということです。木下一族の中で、なぜ、秀秋だけ別行動を取ったのか、という疑問と根は一つにつながります。

 秦野裁判長が開廷を宣言し、早速、本題に入りました。

「犯罪捜査法を日本史の考証に当て嵌めるとどういうことになるかということだが、昨晩、よく考えてみたんだが、刑事犯罪の場合、犯行というものがある。日本史には結果がある。しかし、似ているようで、まるで違う。犯罪捜査では犯行という事実はあるものの犯人はわからない。そこから始まるわけだが、日本史の場合は犯行と犯人がわかってしまっているから、動機だの、手口だの、証拠固めなどの手順が軽視されがちだ。わかったと思っても丁寧に考証しなければならないはずなのに、そんなの必要ないといわんばかりに何も行われない。そのよい例が鳥居元忠の伏見城入りなんだな。どうして、何のために、そんなことをするのか。佐和山城と大坂城を分断するため?」

「確か、そのような理由でしたが」

 秦野裁判長の問いかけに、長井検事が用心深く答えました。

「関ヶ原合戦の考証は時系列的な各人の動きがまったく整理されておらんのだよ。だから、疑問を疑問としないでさっさと通り過ぎてしまう」

「そうですね。刑事裁判の論告求刑を一度でもよいから傍聴していただけると、裁判長のおっしゃる犯罪捜査と日本史考証の劇的な違いをおわかりいただけるのですが」

「そういうこっちゃ」

 秦野裁判長は大きく頷いて、発言をつづけました。

「鳥居元忠の伏見城入りを犯行とみなすと、犯罪が成立した時点における関係する三者、家康、三成、秀秋の思惑と行動と心理描写、これから整理してもらおうか」

 長井検事はしばらく考えを整理してから次のように論述しました。

          

本講座二十三回で『寛政重修諸家譜巻六百八』稲葉正成の項から引用した部分からさらに次の部分を抽出する。

《六月、東照宮伏見より御下向のとき、正成、平岡石見守頼勝とともに書簡をもって密事を言上せんがため、家臣大野作兵衛某をたてまつるのところ、三河国岡崎にいて拝謁をとげ村越茂助直吉をして其書をささげしかば、御駕をとどめられ台覧あり。正成が養子権兵衛政貞御側近く勤仕するうへは、正成においていささかうたがわせたまふところなし。益々忠節を励むべきむね、上意をかうぶり、作兵衛某に黄金一枚をたまふ》

 つまり、家康と三成はお互いに雌雄を決しなければならないわけであるが、双方から注文をつけて、その条件がピタリと一致した。

 一騎打ちはやらない。お互いに集められるだけの味方を集めたうえで雌雄を決しよう。

ただし、決戦の場は未定……。

この時点では、三成は会津の上杉を味方と錯覚していたから、上杉と一致して会津討伐軍を挟撃する計画で、西軍を率いて箱根を越えるつもりだった。しかし、上杉の動きが国境の固めに偏っていることに気づいて、なおかつ会津討伐軍の大半が東軍となって上洛の途についたと知ると、最早、上杉はあてにせず、西上してくる東軍を岐阜城あたりで叩く案に変更した。変更した時点の岐阜城主は織田秀信で、所属は西軍方、まだ、関ヶ原の「せ」の字も三成の頭にはなかった。

 こうした一連の動きの中で秀秋はどうしていたかというと、家康が江戸へ向かう往路の途中で岡崎城に達したとき、秀秋の付け家老稲葉正成が家臣大野作兵衛某を派遣して書簡を届け、密事を議した。前後の文脈から「かように計らいますが、いかがでしょうか」と正成のほうから提案したと理解するのが自然である。

 さて。

 ここで問題になるのが、

「東西両軍の衝突の現場がどのように予想されていたのか」

ということである。

はっきりしているのは、三成が箱根を越えてくるということは、会津の上杉は隠れ東軍だから、それはあり得ないわけであるが、それを知るのは家康と上杉景勝、直江兼続だけだ。三成ははじめのうちこそ箱根山を越えるつもりでいたが、上杉の態度を見極めないで行動を起こすほどのバカではない。万一、そのような事態になったとき一番困るのは清洲城の福島正則であり、掛川城主の山内一豊、吉田城主池田輝政らであった。だから、反転して西上することを議した小山会談において、彼らは挙って先鋒を買って出て、福島正則の清洲城を東軍の前線基地とすることにより戦場となる可能性を持つ範囲を上方寄りに一気に狭めた。

 これに対して秀秋は、当時、三成の伏見城攻めに加担している。京都に腰を据えていたから加担したという消極的加担なのか、あるいは積極的加担なのか。関ヶ原合戦直後、秀秋が家康にそのことを陳謝した事実に照らし前者である可能性が高いのであるが、その場合には上方から離れられない事情がなければならなくなってくる。その事情とやらはわからないが、宇喜多秀家が伊勢方面へ進撃する際、秀秋を誘ったにもかかわらず、彼は言を左右にして上方に居座った。大垣城に入っていた三成から再三にわたって来会を求められながら、近江から敦賀近辺で狩猟に日を送って、暇つぶしに明け暮れたのが何よりもの裏つげである。期間にすると九月十四日の松尾山占拠まで、最低でも半月、あるいは一ヵ月余に及ぶ。

 ここで問題になるのが、稲葉正成が家康に提案したと思われる密事である。黒田長政が秀秋の身元保証人の役目を担って、松尾山山頂の陣地にまで家来の大久保猪之助を送り込んでいた事実に照らして考えると、小早川勢八千は上方に貼り付けられた東軍の遊軍的存在であったことが判明する。

秀秋が待っていたのは何か。

戦場の決定である。それしか理由はあり得ない。しかし、なかなか決まらない。美濃周辺であろうということは見通せる時期にきていたが、どこになるか具体的には今もってわからない。いらいらさせられ通しだったのは、逆にこの時期の秀秋なのである。

いつの頃からか秀秋の陣中に黒田長政の家来大久保大久保猪之助が送り込まれてきており、稲葉正成、平岡頼勝と黒田長政の連絡がここに成立したことを意味する。

 これは何のためであったか。

 東軍の隠れ遊軍であるからには、戦場が決まらないかぎり、作戦が立たないわけで、戦場が決した場合には遅滞なく情報を共有して作戦に齟齬が生じないためであった。

          

 関ヶ原合戦東軍方の作戦地図は二枚存在した

 秦野裁判長が大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出してから、ぽつりといいました。

「秀秋は、福島正則らとは、まったく別の作戦地図をだな、黒田長政を介して家康から与えられていたわけだ」

 長井検事は二枚の作戦地図という秦野裁判長の解釈に感心しながら直ちに便乗しました。

「作戦地図が二枚、ううむ、いい得て妙ですね。作戦地図が二枚あるわけですから、秀秋の行動を他の西軍、東軍の大名たちといっしくたにして考えてはならないわけです。ところで、家康のねらいは何でしょう」

「秀秋が上方を離れられなかった理由が、もう一枚の作戦地図だ。東西両軍決戦の場が決まらないと、作戦が決まらないから、秀秋に与えられた地図は白紙のままだ。しかし、決戦の場が決まらない、ということはないのだから、大久保猪之助が派遣されたのは地図に誤りなく作戦が書き込まれるかどうか、万全を期するためだったに違いない」

「これが犯罪捜査式の考え方ですね」

「殺人犯がアイスピックで女性を刺し殺した事件では、被告人が凶器を振りかぶって、被害者に向けて振り下ろそうとするまさに今、どのような気持ちであったか、そこのところは情状に大きく影響するから大事なんだ」

「被告人が秀秋だとすると、長政は共犯者になるわけですね。もちろん、家康もですが」

「そこのところが、これまでの考証では抜け落ちているわけだ。共犯者なのだから、黒田長政はだれよりも決戦の場を早く知る立場にあった。守秘義務はあるが自分の行動には当て嵌まらないから、自分の望む位置に陣取ることが可能だ。合戦図で確認すると果たして三成の陣地笹尾山の真正面に進出した東軍の最右翼を確保している」

 長井検事が満足げににっこりしました。

「従来の史家にも、そういう考証をしていただけると、松本清張ほどの人でもこんなミスというか、エラーに陥るということがわかってもらえるのではないかと思います。ましてや、我においてをや。それぐらいの謙虚さはお持ちでしょうから」

 以下は再び長井検事の論述です。

          

 小早川秀秋に対する誤った先入観が『関ヶ原合戦』を描くうえでどれほど現代の史家、小説家、シナリオライターの目を狂わせているか、松本清張が自著『私説・日本合戦譚』に書いた文章が明示している。

《秀秋は、一方で三成、吉継らを焦らせ、また一方では家康すらも焦らせた。松尾山に位置づけられた秀秋は、そのまま、天下の戦局の帰趨を握るキャスチングボード的な存在だった。秀秋は大したことはない人物だが、この瞬間では、家康、三成などの大物や、東西両軍を手玉に取っていたのである。人間には、しばしばこのような運命的なシチュエーションが訪れて、その人を実力以上にさせる瞬間がある。

「あらゆる時の中できわめて稀に、運命はいかにも奇妙な気まぐれから、行き当たりばったりに、いかにも平凡な人間に身をまかせることが往々にしてある。ときどき――そしてこれは世界歴史のもっともおどろくべき瞬間であるが――重大な運命を左右する糸が、一瞬間だけまったくつまらない人間の手に握られることがある。……彼らの一人がその機会をつかんで、それを強く高めると同時に自分自身をも高めることはめったにない。偉大さが、つまらない者に身をゆだねるのはほんの束の間だけであり、それを取り逃がすと、そんな機会には二度とはめぐまれない」

 これはシュテファン・ツヴァィクが「ウォーターローの世界的瞬間」の中でナポレオンの将校グルシーについて述べた評である。

「グルシーは軍部の序列の中から出て《世界歴史》の中に入り込んだということはなかった。今度は一瞬間だけそういうことになったのだが、しかしそれがまた何というたいへんな一瞬だったことか!」(片山敏彦訳)

 右の言葉は、そのまま松尾山上の小早川秀秋に通じる。グルシーを秀秋に、ウォーターローを関ヶ原に、《世界歴史》を《日本歴史》に置き替えてよい。事実、秀秋がこの一瞬間だけの存在によって《日本歴史》の中に入り込んだのである

 私は松本清張のファンの一人ではあるが、同時にプライドを知る検察官である。双方が葛藤する関係に陥ったとき、取るのは検察官としての誇りである。おのれの考えを弾劾的にチェックし、公平公正に事実を見、判断する。清張さんほどでも、みずから「事実、秀秋がこの一瞬間だけの存在」と書いてしまったように、虫の眼で「アイスピックを振り上げた瞬間」だけしか見ていないことを自白してしまっていること自体が、私には驚きである。

 なぜか、ここはアイスピックを振り上げたところだから、秀秋に対する情状に大きく影響する。それがまったく行われないばかりか、とんでもない憶測が罷り通ってしまつている。本来なら、関ヶ原合戦は日本史に居場所がない、それほどにひどい考証の上に成り立っている。

          

 長井検事の論述を遮って秦野裁判長が苦笑しながらいいました。

「問うに落ちず語るに落ちる、というやっちゃな」

「そういうことです。松尾山占拠のところしか見ていないのに、どうして秀秋が『秀秋は大したことはない人物』というようなことになるのでしょう。十四日に松尾山に来ていなかったら、関ヶ原合戦は十五日に始まったのかどうか、どうやって家康と日取りを示し合わせたのかどうか、そうした疑問すら持つこともできない凡庸な松本清張がここにはいます。驚きです」

「待った。ちょいと待った。いわゆる『アイスピックを振り上げた瞬間』の秀秋の心理描写はついでに語ってしまうようなところではないから、たっぷり一日取ってしっかり審理したい。わしにこれぞという仮説もあるし。本日はこれにて閉廷」

 あっという間もありませんでした。気づいたときには秦野裁判長はこちらに背を向けて、背後の扉の向こうに消えるところでした。つづきは明日を待つほかありません 

(つづく)




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