口コミとマスコミという切り口のほか、リトマス試験紙の役割的存在という切り口もあります。東軍は一枚岩でしたが、西軍はいちじるしく求心力を欠いていました。それなのに、どうして西軍にあれだけの人数が集まったのでしょうか。だれがあれだけの数を集めたのかということもさることながら、決して自分の力で集めたとはいえない数の大軍をことごとく味方と勘違いした三成の悲劇という見方もできそうです。
開廷と同時に秦野裁判長がいいました。
「お手盛り解釈、見込み捜査、誘導尋問、この三つには酷似した類似点がある。世論調査の質問に対応する回答は必ず①そう思う②そうは思わない③どちらともいえない、この三つの選択肢を含む。三番目の回答はアメリカ人にはほとんどみられないそうだが、伝統的日本人の場合は四割から六割の比率で選択されるのが常だったそうだ」
長井検事が大きくうなずいています。
「家康が行った加賀討伐宣言と会津討伐宣言をだな、世論調査の質問とみなして考えると、加賀討伐宣言は十分な回答が得られなかった。いわゆる回収率が目標値に達しなかったわけだよ。被験者たちには質問の意味が少しわかりにくかったようだ。そこで、わかりやすい質問文として会津討伐宣言を考えた。口コミとマスコミという譬えのほかに、こうした考え方をすると、当時の出来事の意味がよくわかってくる」
「お手盛りでは事実に反するし、歪めることになりがちですもの」
「そういうこっちゃ」
「犯罪捜査でいう証拠は客観的なものでなきゃいかんのだよ。つまり、単独で使えるものはほとんどない。凶器が刃物とわかっても、刃物であるだけでは凶器と断定できない。本当の凶器には犯人の指紋がついているはずだし、手袋をしていた場合は被害者の血液が付着している必要があるように。ところがだな、見込み捜査となると、主観的とまではいわんが、俄然、お手盛りになりがちだ。日本史でもだな、この間、NHKスペシャルで関ヶ原の合戦を取り上げておったが、『太閤様の遺命に背く』という文言を含み、『安芸中納言毛利輝元、備前中納言宇喜多秀家』の署名のある文書だけの提示で、『豊臣政権の大老や奉行たち』によって『家康は賊軍にされてしまった』とブチ上げた。おどろいたよなあ。大坂城には前田利家がおらんければならない決まりだったわけだが、利家の死で家康に優先的に居城する責任が生じた。しかし、それにもかかわらず家康は会津討伐で関東に下向しているのだから順序としては毛利輝元が大坂城に入らなければならない決まりだ。だから、輝元が入った。それが『太閤様の遺命』の一つ。ほかに何を書いてあるか説明がないのもおかしいし、その部分的な文言と毛利、宇喜多両名の署名だけで『家康賊軍』とやってしまう。番組をおもしろく演出するためには、そのほうが都合はいいんだろう。しかし、手続きとしては適正さをいちじるしく欠く」
「似た例を提示しましょう。今、NHKで黒田官兵衛を主人公にした大河ドラマをやっております。私は観ておりませんから番組そのものについてはコメントしません。私が取り上げるのは大河ドラマが官兵衛と決まったときに秀吉の真筆の書状とやらをポーンと初公開した博物館のやり方です」
以下、長井検事の論述……。
資料の公開の仕方というか、親切なやり方というか、あらかじめ誤解を回避する公正な姿勢という点で気になる事実について言及すると、黒田官兵衛孝高が小田原城に乗り込んで北条氏を説得して降伏開城に同意させたとする見解があり、留守を預かる嫡男長政に宛てて送られたとされる秀吉の朱印状が存在する。
《今度の首尾、勘解由渕底候(このたびの首尾、勘解由=官兵衛の通称=が決着をつけた)》(平成二十五年十一月二十五日付読売新聞夕刊の記事より)
この朱印状と部分的な文言だけぽんと投げ出して「このたびの首尾、勘解由が決着をつけた」と決めつけられても戸惑うばかりである。
皆殺しの軍令を発して「降伏は認めない」と宣言した秀吉がなぜいかなる理由で小田原城の中に官兵衛を送り込んだのか、前後の脈絡を明らかにしたうえできちんと説明する必要がある。すでに先行して北条氏規が小田原城に入って無血開城を説得にかかっているのだから、その氏規を監察する役割でもないかぎり、過去に類似のシチュエーションを経験してトラウマを持つ官兵衛が単独で小田原城に入るとは理解しがたい説明である。もし氏規の監察役として入ったのだとすると、「勘解由が決着をつけた」は秀吉の主観から出た文言(秀吉一流のおべんちゃら)で信頼性は極めて乏しくなってくる。官兵衛は仲介のお礼に北条氏から「日光菊一文字」の太刀(国宝)を贈られているというのだが、もちろん、無血開城決定直後のことだから勝利者側への儀礼的な礼物ではなかったのか。
朱印状は黒田家から寄贈を受けていた福岡市が市立博物館に収蔵していたものであるといい、官兵衛が来年のNHK大河ドラマの主人公になったことから、初の公開を決めたという。大事な証拠物件なのだから単体で無造作に投げ出すようなやり方ではなく、もっと誠実で効果的な使い方をすべきではないかと残念に思う。
秦野裁判長が声を荒げました。
「それで学術といえるのか。まるで誤解してください、勘違い大歓迎です、という公開の仕方じゃないか」
「そのお言葉で、私は溜飲が下がりました。学者、学芸員の皆様にはマスコミ受けの努力も結構ですが、適正な手続きを踏み外さないでいただきたい、とこころから願うばかりです」
「学者、学芸員から相当痛めつけられてきたようだな」
「そうじゃありません。逆です。まったく相手にされないのです。新聞にも書き、今、こうしてブログで毎週欠かさず記事を更新して二年近く問題提起してきているのに、反応はゼロです。きれいさっぱり無視されつづけているのです。一人として反論してこないのです」
「ほんとかよ……」
秦野裁判長は絶句してしばらく何もいえないようすでした。けれども、やがて、気を取り直して口を開きました。
「天動説と地動説の決着にどれほどの歳月を費やしたかを考えたら、あり得ることかもしれん。そういうものとして、われらはあくまで日本史地動説を述べるのみ。そこでだ。わしの知り合いにTBSの元部長だった男がおるんだが、彼が三成ファンでな。で、聞いてみた。三成のどこがすぐれているのか、一つでもいいから教えてくれよと問い詰めた。だが、答えられんかったな。そういうものと信じ込んでいるだけで、裏づけとなる事実は知らんのだな。最後に苦し紛れにいった言葉が『でも、あれだけの人数を集めたわけですから』だった。さすが視聴率でメシを食ってきた男の考えそうなことだと思った。だが、違う。三成が集めたといえるのは安国寺、小西のみ、声をかけた相手でさえ大谷、毛利、宇喜多、真田しかおらんのだよ。このうち毛利とあとの勢力は家康が送り込んだ……ここが大事なところだが、小早川秀秋、朽木正綱、正木左兵衛(本多政重)、などなと、烏合の衆どころか自壊の時限爆弾みたいな大集団じゃった」
「じゃあ、三成だけが集めたわけではなくて、家康が集めさせたという切り口が見えてきますね。そうした認識に立てないこれまでの関ヶ原合戦論とは、一体、何なのでしょうかね」
「『家康賊軍』の言葉がすべてを物語っておるがな。最初から犯罪者はだれか決まってしまっておるんだよ。真犯人が名乗り出たところで握りつぶされるだけだろうよ。IRAのテロ事件の真犯人に仕立てられた無実の親子を描いた『父の祈りを』という映画があったが、まさにあの警察の類いだな。関ヶ原合戦の考証を犯罪捜査とみなすとてんで話にならない。問うに落ちず語るに落ちるの類いだ」
「どうしても悪口になってしまいますね」
「それが現実なのだから、仕方ない」
秦野裁判長が吐き捨てるようにいい、さらにつづけました。
「地動説は地動説らしく事実に基づいた考証をするのみ。すなわち、家康はきちんと手続きを踏んで、秀頼はそれに対して黄金と米を贈っている。だから、賊軍という解釈にはならんだろうし、毛利輝元は手続きに従って大坂城に詰めたわけだから、世論調査の『どちらともいえない』という口で、いわば第三極だ。この第三極という切り口は第6回の講座でやっているから、ここでは解説しない。どうしてもという向きには過去のデータを参照してもらうとして、それを知らない三成ではないはずなのに、関ヶ原前日までのドタバタ騒ぎはどうしたことなんだろうな。それ以上に現代の史家が、その事実を証拠として採用しないのが怪しげでならん。既存の解釈の使いまわしに不向きな事実だから隠匿してしまおうというわけではないと思うのだがね」
「要するに大義名分論でいうと三成に軍配を挙げてかからなければ成り立たない関ヶ原合戦になってしまっておりますのでね。しばらくは、そういう関ヶ原合戦でいくほかないんでしょう。しかし、天動説の教会に黒いイメージが焼き付いてしまったように、当代の日本史家もいい物笑いになるのはさけられそうにありません」
これだけ悪口がつづくと後味が悪くなるはずなので、今日はこれで閉廷だなと勝手に考えていると、意外な展開になりました。
直江状最大の目的は会津討伐の将に家康を指名することだった
秦野裁判長が何か思い出したように急に述懐し出したのです。
「ところで、昨日、俎上に載せた直江状だがな、わしとしたことがうっかりしてしまったよ、あれには確固たる目的があったんだな。寝床に入ってから、シマッタと後悔した」
長井検事が確認します。
「だとしても、直江状がやらせであることは間違いないわけですね」
「もちろんだとも」
「では、どこがいけなかったのでしょうか」
秦野裁判長は少し間をおいて理由を述べました。
「会津討伐軍の総帥が家康になった結果をわれわれは知ってしまっているから、直江状が関ヶ原合戦のため東西両軍に現下の大名諸侯をふるい分ける最大のリトマス試験紙であったことに気づかないで通り過ぎてしまうのだよ。ところが、少なくとも秀秋には、すべて、ちゃんと見えていたと思わせる節がある」
「それはまた大変な肩入れのしようですね」
「何事においてであれ、いかなる分野であれ、大きな成功を収めるためには自分が傑出しているだけでは駄目なんだ。こいつはかなりの人物だな、かなり使えそうだな、そういう傑出した人間を見出して司、司につけて働かせないと、そうはいかない、そうはイカのキンタマというやっちゃ。孤軍奮闘では一代限りで終わってしまう」
「すると、秀秋と、ほかには?」
「直江山城守兼続、まあ、この二人は出色だったな。もちろん、高台院、芳春院も並び称せられてよいがね」
「では、おうかがいしますが、裁判長は『秀秋にはすべてちゃんと見えていた』とおっしゃいましたけれども、どのように見えていたのでしょうか」
「なかなかよい質問だな。加賀討伐では軍勢が編成されることなく終わってしまった。だから、今度は編成されるだろう、そう思うのが順序だ。しかし、だれが総帥になるのというのが問題だが、家康は最も選ばれにくい条件下にあった。大坂城を離れられないのだから、会津討伐軍が編成されたとしても総帥になれる条件がない。だから、条件をつくらなければならなかった」
「なるほど、いわれてみれば当然過ぎることです」
「だから、秀秋は今度もないだろうと思った。優秀だからこそ判断を誤ったわけだ。しかし、直江状なるものが突如として世間の耳目を集め、わざとらしく家康が激怒したかと思うと会津討伐宣言となり、家康は朝廷に手をまわして権大納言勧修寺晴豊を勅使として秀頼のもとへ赴かせ、家康を総帥として下向させるよう促した。すわ、読み違えたか、と秀秋はあわてた。秀頼は家康に会津討伐費用として黄金二万石、米二万石を支給して大義名分まで与えた」
「ということは、『家康賊軍』の言葉は現代の日本史家の空想・妄想の産物ということになりますね」
「まあな。しかし、直江状の最大のねらいは家康を討伐軍の大将に指名するためだったのは明らかだ。昨日、閉廷してから何か忘れているようでもやもやが晴れなかったんだが、これですっきりした。本日はこれにて閉廷」
