いきなりポーンと投げ出すように、秦野裁判長は開廷と同時に長井検事に質問を投げかけました。
「三十万七千石の筑前名島に復帰した秀秋だが、戻ったというだけでは意味がない。秀秋が筑前名島三十万七千石とどう向き合ったか、問題はそこだな」
「秀秋は復帰と同時に治世のため汗を流しております」
「家康の加賀討伐宣言に呼応するような動きはなかったのかな」
「いえ。考えてもみませんでした」
「家康の宣言は本気か、ゼスチャーか、疑わなかったのかね」
「会津討伐という一大ページェントがあったものですから」
「一大ページェントか。会津討伐の催しは確かに歴史的大行列だった。空想では思いつけないスケールがあったな。ドラマチックだし、ストーリーとしてもなかなかのものだった。しかし、時系列でいうと会津討伐なんて、まだ影もかたちもないときのことだぞ。そんなの関係ないじゃないか」
「いわれてみれば、確かに。実に赤面の至りです」
「日本史の考証が杜撰だと主張してきた本人がそれでは困るんだな」
長井検事にしてこのありさまとあって、秦野裁判長の嘆き節はつづきます。
「歴史的重要性は加賀討伐宣言のほうが圧倒的に大きい。会津討伐との違いは見てくれの違いが極端なだけで、どうしてもストーリーに位負けしてしまう。歴史に興味を持って解釈するからには、なんぴとたりともそうした傾向を自覚しないといけない。しからば、こう考えてはどうかね。会津討伐で世の中の大多数がようやく理解したことを、わかる人間は加賀討伐宣言の時点でわかってしまった。その逆説的推移により、家康は口コミ程度ではわかってもらえないと悟ってマスコミ規模にしてやり直した。口コミが加賀討伐宣言、マスコミが会津討伐宣言というこっちゃ。加賀討伐宣言と会津討伐宣言はその違いでしかなかった……そうすると、口コミの段階で家康がヘゲモニーを握ったと理解した者がことごとく遅刻組になったことに合理的説明がつくだろう?」
長井検事が絶句しただけでなく目を大きく瞠きました。秦野裁判長はそれを横目に見て、つづけていいました。
「前田利長、大谷吉継、小早川秀秋、この三人が典型的な遅刻グループだな。特に秀秋はだな、まさか、家康が同じことを二度繰り返すとは思わなかったわけだよ。だから、三十万七千石の経営に着手してしまった」
「うーん」
長井検事がうなりました。
「目から鱗が落ちるとは、このことですね」
「何をいうか。こんなことは犯罪捜査ではわかりきったことにすぎん。日本史の考証をやる人にかぎって、こんなわかりきったことがわからない……どうしてなのか、自省してもらいたいところだな」
「もうしわけありません」
「あんたはまだいいほうなんだ。とにかく、頑迷で参るよ。自分中心ではなく、子や孫にこんなだらしない日本史を語り継いでよいのか、そういう考えがあるなら、『そこのところ違うぞ』といわれたら、せめて事実関係ぐらい自分でチェックするだろう。それぐらいのことはやってくれよ。それをやらないでおいて、おれがおれがで、おれさえよければで済ましてしまうから、信じることが一番になって、事実は二の次、三の次になってしまうのだよ。そこのところさえちゃんとしたら、日本史法廷なんていうものは開かないで済む。こっちだって既存の解釈の訂正なんぞ好きでやってるわけじゃない。子や孫のためを思うからこそ、大向こうから白い眼で見られたうえに『日本史を冒涜する行為だ』と罵られても、きちんとした日本史にして残そうという考えでやっているんじゃないか」
「ところで、裁判長」
長井検事が絶妙の呼吸で秦野裁判長の鉾先を躱しにかかりました。
「承知のうえで時系列を無視して申しあげますが、口コミとマスコミの違いというからには、上杉景勝、直江兼続は家康に協力する側ということですか」
「決まってるじゃないか。激越な字句で家康を非難すればするほど家康は会津討伐を宣言しやすくなるし、リトマス試験紙としての効果は絶大になる。現象面でこれだけ協力的なのだから、本心もそれに近いか、同心ということになるわけで、疑う余地がない。家康をよくいいたくない現代人さえ直江状とやらに踊らされて痛快がっているのがよい証拠といえる」
「なるほど、新しい解釈の登場ですね」
「そうじゃない。わしの解釈など、どうでもよいんだ。考証の適正手続き、それを構築してくれというとるんだよ。これがわしからあんたがた、これからの人間へのお願いだな」
「確と承りました」
秦野裁判長は「頼む」と短くいって、ペットボトルの水をコップに移して飲みました。
秀秋が筑前名島に復帰するとすぐに治世に尽力した理由
長井検事は秦野裁判長が水を飲み終わるのを待って口を開きました。
「実は、秀秋が何で会津討伐に遅れたのか、伏見からかなり遠方の筑前国であることを割り引いても、理解できないことでした」
「家康がヘゲモニーを得たからには世の中が落ち着く。そう思ったら治世に身を入れるのが順序だから、そうするのがごく自然な成り行きだろう。秀秋は農民保護に努め、文禄慶長の役の徴発で疲弊した農村の復興に尽瘁している。理解しないほうがどうかしてる」
「認めます」
長井検事は素直に認めたうえでつづけました。
「次に理解に苦しんだのが、会津をめざして家康らの後を追いかけるでもなく、姫路城に入ろうとしたことでした」
そう前置きして、長井検事は次の事実を論述しました。
ところで、『寛政重修諸家譜巻六百八』稲葉正成の項によると、家康の会津討伐宣言当時と会津への発向当時の秀秋の動静は次のようなことになっている。
《慶長五年上杉景勝叛逆により、東照宮会津御発向きこえあるの時、正成、秀秋が使者となりて伏見に参り、山岡道阿弥をもって言上しけるは、もし上方にいて逆心の者あらば秀秋よろしく忠節をつくすべし。其時にあたりて兵を原野に出さば、功をなす事あたはじ。播磨国姫路城は秀秋が兄木下弥右衛門大夫延俊が守れるところなり、ねがはくばこの城をかりて居城とし兵略をほどこさんとこふ。東照宮これをゆるしたまふ。よりて申通ずといへども、延俊あへてうけがはず。つゐに秀秋と交りをたつ。このときにあたりて正成、秀秋をたすけてもっぱら其事を謀る。六月、東照宮伏見より御下向のとき、正成、平岡石見守頼勝とともに書簡をもって密事を言上せんがため、家臣大野作兵衛某をたてまつるのところ、三河国岡崎にいて拝謁をとげ村越茂助直吉をして其書をささげしかば、御駕をとどめられ台覧あり。正成が養子権兵衛政貞御側近く勤仕するうへは、正成においていささかうたがわせたまふところなし。益々忠節を励むべきむね、上意をかうぶり、作兵衛某に黄金一枚をたまふ》
これに次の事実をモンタージュすると、
《稲葉正成は秀秋が小早川隆景の養子になるとき付家老として一緒にきた人物であり、関ヶ原合戦後、家康の嫡孫竹千代(家光)の乳母となったお福(春日局)を継室としていた》
見えてくることがある。
稲葉正成は豊臣家の家臣だったが、天正十二年当時は犬山城にいたとあるから秀長の系統であろう。秀長の死後だから「秀吉に仕えた」という書かれ方をしてしまうわけで、秀吉としては付家老として体よく追い払ったということだったのかもしれない。朝鮮で戦死してもよし、生きて帰っても、どちらでもよかった。帰国すれば罪におとして越前北ノ庄に追い落としてしまう算段だったのだから。
さて。
昨日の公判廷で「安土桃山時代は女性の時代でもあった」と述べたが、稲葉正成の継室お福(のちの春日局)もまた、秀秋の付家老の継室なのだから、当然、高台院の人脈に入る。これまではさして気にもとめなかったが、秦野裁判長より示唆を得て、この大事なことに気づいた。この事実をなぜ気にとめるようになったかというと、稲葉正成を秀秋の付家老とする人事を実現させたのは北政所(高台院)である可能性が濃厚だからである。
問題は秀秋が姫路城に入ることを望み、東照宮こと家康がそれを許したことである。したがって、「東照宮これをゆるしたまふ。よりて申通ずといへども、延俊あへてうけがはず」というようなことはあり得ない。事実に問題があるというより書き方の問題で、時系列をきちんとすると、家康が許した時点では延俊が反対するいわれがない。ところが、六月になって家康が現実に伏見を後にして岡崎城に達した。伏見城には鳥居元忠が残った。元忠の役割は何だったのか。結局、延俊が秀秋の姫路城入りに反対したのはこのときであろう。石田三成が挙兵するのは時間の問題というとき、姫路城にいたところでどうしようもない。
要するに秀秋も、延俊も、正成も、はたまた大谷吉継も、前田利長も、まさか家康が会津へ発向するとは考慮の外だったわけである。予想した家康の行動と現実の行動の誤差を埋めるべく正成の奔走が始まった、ということではなかっただろうか。
だから、秀秋と延俊の感情の齟齬があったとしても一時的なもので、理由がわかればすぐに氷解する性質のものだった。問題は延俊が秀秋が姫路城入りするのに反対した理由である。
論述を終わって、長井検事は秦野裁判長にいいました。
「裁判長に示唆を得て、お福(春日局)が北政所(高台院)人脈の女性と気づいたことが、以上の理由に私を導いてくれたのでした」
「それは何より」
秦野裁判長はさらりと受けてつづけました。
「家康くらい女性を重視した人間もめずらしい。小田原北条氏嫡流の血を引くお万の方(お勝・養珠院)を片時も離さず、会津発向に際しては彼女の避難先まできちんと手配し指図して行った。お万の方は紀州徳川家初代頼宣、水戸徳川家初代頼房の生母で、二人の子を産むために北条家からきたかのように、産後はさっさと身延山に入ってしまう。そういう使命的なものを背負った女性だった。結局、お万の方を生母とする頼宣を通じて北条氏の血が吉宗に伝わったわけで、家康がいた時代は傑出した女性に働き場所を与える器量人の時代だったということだろう。それと対照的なのが、ジャンヌダルク的に女性が男に発破をかける時代ということになる」
「対外折衝は正成と平岡頼勝がほとんど仕切ったようですが、そのへんはどうですか」
「付家老として優秀な人材がつくのは、主君に期待がかかるからで、経験不足を補う意味合いが大きい。単に後見するというだけだったら、ありきたりの人選ですますだろう。紀州侯徳川頼宣の付家老安藤帯刀はかなりの人物だった。本来なら独立した大名に据わるべき人なのに、大名並みの待遇の付家老として縁の下の力持ちで終わった。こうして見ていくと、家康はすでに加賀征伐、会津征伐の時点で、すんなり治世の時代に移行すべく関ヶ原合戦後の処理まで念頭に置いて行動したことになる」
「すると、秀秋に対しては?」
「加賀討伐宣言の意味を理解して治世に着手したのだから、この若者はただものではないと感じたことと思う。それゆえの松尾山占拠という大役だ。正成が忙しくなったのはそのためだろう」
「結果が目的の法則を当て嵌めると、お福を家光(竹千代)の乳母にするためには、正成を秀秋と一緒に岡山城に入れるわけにはいかないわけです。だから、家康は正成を直前になって離反させた、そう考えるのは穿ちすぎでしょうか」
「いや、大いに穿つべきだ。いろんな考え方を俎上に載せることだよ。そこから始まるんだ。そこから正解を選び出すには、やはり適正手続きだな。既存の日本史の呪縛から逃れて、踏まえるべき事実をきちんと揃えて、そうした事実群に語らせる。それが既存の日本史の通りだったらいうことなしじゃないか。何も恐れることなんかありゃせんだろう」
「まつたく同感です」
「本日はここまで」
