ロッキード裁判に本質が酷似する小早川秀秋冤罪事件


 秦野裁判長は公判廷に姿を現したかと思うと待ちきれない感じですぐに口を開きました。

「秀吉も、三成も、あたかも自分たちが世の中を代表する知恵者のようなことをいっているようだが、小早川秀秋にまで手を出したのが悪運の尽きだったな。警視庁で担当するとしたら捜査二課になるわけだが、筑前名島を秀秋から取り上げてどうするつもりだったのかな」

長井検事が起立して応じました。

「私もそこを強調したいのです。陪審員のみなさんも本件は事実と解釈がまったく一致しない稀有な例の一つとして認識したうえで臨んでください」

 陪審員席から賛否両論の声が上がりました。

「静粛に!」

 秦野裁判長が鋭く声を投げました。

「まだ証拠調べの段階です。検察官が望んでいるのは事実をありのまま素直な眼で見て、ありのままの事実が語る言葉に従って判断して欲しいということです」

 傍聴席から「そんなの当たり前じゃない、ねえ」という私語が聞こえてきました。

「そうではない。傍聴人は事実を知らないから単純に先進国ニッポンの歴史が事実に基づかないなんてあり得ないと信じてしまっている。だから、まず信ずることをやめてもらいたい。信ずるということは考えるのをやめることだから、自分で考え、自分で判断することから初めて欲しいわけです。検察官の発言は、一見、バイアスを与えているように聞こえますが、バイアスをかけることで既存のバイアスを相殺し、陪審員諸君が自分の頭で考え、判断できるようにと考えてしたことです。それはさておき……」

 秦野裁判長の目玉が鋭く光りました。

「刑事裁判では、疑わしきは罰せず、裁判で有罪が確定するまでは被告人は無罪という大原則があります。しかし、一向に守られない。たとえば、全日空の時の社長若狭得治が検察官から尋問を受ける際、『壁に向かって土下座しろ。この壁は国民だ』と怒鳴られて、取調室の壁に向かって無理やり謝罪させられたというんだ。ついでにいってしまうと、経団連が自民党に献金するときは痕跡を残さないために事務局長が一人きりでダンボールに札束を詰めて荒縄でしばり、ひきずって運ぶんだよ。俺が自民党本部から退出しようとしたとき、エレベーターから事務局長が荒縄でダンボール箱を重そうに引きずって出てきた。事務局長はわしを見て照れ笑いをしておったがな。すぐに中身は札束だとわかったよ。もう一つおまけをつけていってしまうが、憲政の子というわれた三木武夫だがな。わしが香川県庁で、戦時中、砂糖などの統制を担当する商工課長だったときのことだ。隣の徳島県から三木武夫代議士が乗り込んできて部下と押し問答を始めた。砂糖の統制は国の基本方針だから曲げられないのに、『そんなことはわかっている、融通する道をつけろ』といって、私の前で部下と激しくやり合った。香川県大川郡に親戚がおって製餡業を営んでおったわけだ。しかし、わしのところへくるまでもなく係長のところで撃退されてしまった。砂糖がなければ製餡業者は商売にならない。しかし、支那事変以来、国内の物資欠乏は日を追って窮迫、もはや代議士の権勢をもってしても、いかんともしがたいところまで追い詰められていた。一の例外を許せば万の統制の意味が失われる。係長の取った態度は正しかったし、やむを得なかったと思う。ただし、これなどは前置きにすぎん」

 三木武夫といえば、ロッキード裁判当時の総理大臣で、事件の本格捜査を指示した人です。マスコミの評判では憲政の良心を象徴する存在でした。戦国史法廷のはずが、とんだ現代史法廷になってしまいました。

「三木さんが総理になる前のことだが、わしが参議院議員として日本と台湾の航空路の問題について質問に立つ直前のことだったが、だれもいないところでいきなり三木さんが抱きついてきて、ズボンのポケットに何やらねじ込んで去った。ポケットから封筒を取り出して中身を確かめると百万円入っていた。手心を加えてくれということだったらしいが、そんな必要はなかった。憲政の神様といわれる斉藤隆夫が支那事変の拡大を憂えて反対演説を行い、除名されたとき、斉藤隆夫除名に反対の青票を投じたのは七人だけで、その中に三木武夫の票はなかった。これが事実だ。だから、どうのこうのといういい方はしない。ロッキード裁判とは何だったのか。事実に照らして考えてもらいたい。ただ、それだけです」

「事実といえば、大事なことをお忘れではありませんか」

 長井検事が水を向けました。

「裁判長が参議院議員のとき、最高裁判所の局長が二人も顔を揃えて、『質問しないでいただきたい』と頼みに現われたんでしょう」

「そうなんだよ。あれには驚いたな。唖然、呆然、語る言葉を知らずといったところだったな」

「どうでしょう、私が裁判長をやりますから、いっときだけ検察官席に立って論述してみてくださいませんか。現代史の大事な証言ですから」

「検察官の配慮に感謝する」

 こうして信じられないことが起きてしまいました。

 以下は秦野臨時検察官の論述です。

          

 法の親戚には文学もある

 昭和五十一年二月四日、米上院多国籍企業小委員会公聴会でロッキード事件が発覚した。そのわずか三日後の七日、三木首相みずからロッキード事件の本格的捜査開始を指示、アメリカから入手した資料をもとに丸紅、全日空幹部を相次ぎ逮捕、七月二十七日には田中角栄元首相までをも逮捕した。法的習慣を異にする他国の資料をもとにしたこと、さらには一国の首相経験者の逮捕という重大問題を決定するのにしてはあまりに短兵急に事が進みすぎたこと、私の目にはむしろそうしたことのほうが異常に見えた。

 同年八月四日、参院ロッキード問題調査特別委員会で質問に立った私は、二十七年にわたる警察畑での経験をもとに、ロッキード事件に対する検察と裁判所のあり方を批判し、憲法の保障する適正手続と人権の問題を徹底的に追及した。

 ちょうどマスコミがこぞって吹かせるロッキード嵐のさなかであった。そのために私は以後「隠れ田中」のレッテルを貼られることになった。ひどい話である。

 さらに驚いたことには、時の最高裁判所の局長二人と係の者が議員会館の私の部屋にたずねて来て「質問はしないでほしい」と要請してきたことである。そのことはいまも忘れられない。

 誓っていうが、ロッキード事件で私が検察と裁判所のあり方を批判するのは、一田中角栄の弁護のためだけではない。私にとっては「だれの犯罪」ということよりも「犯罪捜査の基本手続き」に誤りがあるということが問題なのだ。私の追及の論旨は、あくまでも田中の問題であって、田中の問題でなく、まさに検察と裁判の問題なのである。

ここで私の言わんとすることの一端は、昭和五十九年に講談社から出版した著書『何が権力か』にくわしく述べた。ここでは、その「まえがき」を引用して、そのさわりとなる部分を紹介することにする。

《有吉佐和子さんが、田中元首相逮捕のあとのさる日、三木元首相に招かれたことがあるそうだ。そのとき、彼女は三木さんにこう言ったという。

「私は田中さんの逮捕のニュースを聞いたとき、これは百年前の日本か遠いアフリカでの出来事かと思いましたよ」

 これに対して三木さんは、

「法にふれれば誰でもいたしかたのないことです」

 と型通りの返事をした。すると彼女はこういって切り返した。

「そうおっしゃるけど、田中さんは三木さんの直前の総理でしょう。稲葉(時の法務大臣)さん一人血祭にあげればそれで済んだはずですよ」

 私はこの話を彼女から直接聞いたのだが、優れた作家の感覚は尋常ではないと思った。法律学でも政治学でもない、人間の明察といおうか、文学者的政治感覚とでもいおうか、ものごとの核心を直截に衝く力は驚嘆に値する。

 われわれが知っている日本の著名な文学者だけでも漱石、鴎外、龍之介など国家社会に対する格別な洞察的発言があった。何の気なしに発した彼女の鋭いこの言葉に、私はハッと驚くとともに、そこから何か読み取れるものがあるように思った》

 法律の解釈は確かに文学ではなくて法律学であることに間違いはない。ただ現実に起きてくる事実をどう認識し、さらには法律的にどのような解釈を下すか、その点、社会科学たる法律学の親戚には文学もあると考えるべきである。法律の解釈がしばしば法匪の解釈に堕する傾向は強く戒められなければならない点である。それは、二十年もかけて争った「チャタレイ裁判」(文藝春秋社刊『福田恒存全集』第二巻の「ロレンス」参照)を例に持ち出すまでもないだろう。

《ある有名な弁護士は『ロッキード事件の裁判は司法の自殺』と語ったが、第二次大戦のファッショが敗戦まで続いたように、ロッキード・ファッショも司法の自殺までまねくおそれがあるかも知れない。

 誤解を招かないよう言っておけば、政治的社会的疑惑の問題で重要なことは、その処理の仕方である。真相解明の火の手があがるのは当然だが、その解明の仕方が問題なのである。騒げば騒ぐほど適切な解明が期待できると思うのは、社会の複雑さも価値の多様さも無視した野蛮な考え方である。今世紀の異常なマスコミの発達を思うとなおさら、その感が深い。

 現代民主主義社会の制度や手法は総じてそれを運用する「人間」の問題につきる。だからその「人間」の理性や冷静さや勇気や情熱や知略が、どう生かされるかであろう》

 民主主義の出発点は「人権の尊重と適正な手続き」にある。原論の自由は自由社会の錦の御旗だが、刑事事件の真実は「手続きの適正」をこえたところにはない。そのかね合いはなかなか奥が深く、ひとことでは語り尽くせないものがあるが、その原点を踏みはずしたら、民主主義はたちどころに空文化してしまうだろうことは疑いのないところだ。

          

 秀吉も三成も適正な手続きを無視して暴走した常習犯だった

 秦野裁判長のいう「適正手続き」という点に注目すると、最近は検察の取調べの可視化が実現に向かいつつあります。これまでは適正ではなかったという事実の厳然たる裏返しです。

 長井検事が拍手しながら秦野裁判長と席を入れ替わりました。拍手というのは法廷始まって以来の椿事といってよいと思いますが、さらに信じられないような行動に出ました。

「陪審員のみなさん」

 公判はまだ始まったばかりなのに、検察官が陪審員席に向かって呼びかけたのです。

「秦野裁判長がいわれたことは私の思いとまったく同じです。私は歴史考証の適正な基本手続を構築したいだけなんです。間違っても既存の解釈の使いまわしなどつづけてほしくない、その思いだけです。今、この席で、みなさんにしていただきたいことは、秦野裁判長の論述の法律を日本史と読み変えていただきたいということです。今度の裁判にかぎっても田中角栄を小早川秀秋に置き換えてみてください。検察側としては小早川秀秋に特に肩入れしているわけではないのです。あえて小早川秀秋殺人事件として刑事訴訟的手続きの俎板に載せたのは、『犯罪捜査の基本手続き』に『歴史考証の適正な基本手続き』を重ね合わせることによって、その何たるかを理解していただきたいと望むからなのです。そういう意味から、秦野裁判長の姿勢こそ日本史考証の本質であり、基本であるといってよいでしょう。解釈は曲げられても事実は曲げられないのです。だからシャーロック・ホームズに負けないくらい事実を調べつくし、証拠とすべき、すなわち踏まえるべき事実を揃えることが大事なのです。日本史法廷検察官として私が小早川秀秋歴史的冤罪事件と並行して問題にしたいのは、実は事実隠匿の罪です。方法論として事実を踏まえて解釈する、それに尽きるわけですが、陪審員のみなさんの顔には『そんなの当たり前じゃなすか』と書かれています。しかし、この当たり前すぎることが少しも行われていないのが既存の日本史の現実なのです。一の解釈がまったくの大ウソだとしても大して問題ではありません。万の事実から本当に必要な踏まえるべき事実をきちんと選り分け、証拠として語らせるという、この基本中の基本が行われているかどうか、みなさんに判断がつきますか。判断できないはずです。事実を知らないからです。知らなくても専門家が知っていて、ちゃんと解釈しているはずだから、何も問題ないじゃないかと考えているのではありませんか。事実なんか最初から存在しないも同然で、お仕着せの解釈で間に合わせている、こうした宗教的構造を科学的構造に変えなければなりません。そういう意味では陪審員席にいるみなさんも被告人であるといわざるを得ません」

 陪審員席に動揺のどよめきが起きました。憤然と席を蹴って退出した陪審員も何人かおりました。

「解釈は曲げられても事実は曲げられない。こういっても議論にならないから、秀秋にまつわる事件を刑事事件として取り上げて、犯罪性の証明となる事実を具体的に明らかにして、判断基準を共有して、そのうえで解釈を下していただく、そういう方法を取っているわけですが、それなのにすでに何人かの陪審員が退席してしまわれた。事実を知らないままで、あくまでも日本史の既存の解釈を宗教的に信じて、それで事足れりとする人は時間の無駄になるだけですから直ちにお引き取り願います」

 そこまでいわれてしまって立つ人はおりませんでした。

          

 秀秋にまで手を出したのが秀吉と三成の運の尽き

「さて」

 長井検事は落ち着いた表情でつづけました。

「適正な手続きという点に照らして、秀吉と三成が秀秋から名島三十万七千石を取り上げた事件はどうなのでしょうか。現実には朝鮮渡海時の行動が秀秋を処罰する理由にされておりますが、検察官としては秀吉のデッチ上げた過去の疑獄をパターン化すると、たとえば千利休を切腹させるための理由、関白秀次を断罪した理由に照らすとき、その説得力のない、第三者が信じようと信じまいと俺には関係ないという独善的・独断的な内容に照らすとき、養父隆景の死を哀しみ、喪に服するべきときに、秀秋に朝鮮へ出征させた秀吉の意図は明らかです。渡らせたからには早く呼び戻し、処罰したい。なぜなら、処罰しないと秀吉の目的は達成されないからです。ですから、朝鮮での秀秋の行動を検証しても秀吉には何の意味もないわけですが、適正手続きの遵守という観点から陪審員のみなさんのために取り上げることにしました」

「どういうことか、もう少し丁寧な説明をしてもらいたいものだな」

「わかりにくいですか」

「わしはわかる。だが、バイアスから脱しきれない人向きの説明にはなっていないようだ。たとえば、どんなに秀吉、三成を擁護しようと思ってもグウの音ね出ないような……」

「そうなっているはずなんですが、わかりました。こうしましょう。一つひとつ確かめながら話を進めます。たとえば秀秋が普請を担当させられた蔚山倭城ですが、現在の蔚山広域市に築かれた日本式の山城で、高さ五十メートルの小丘のてっぺんに本丸、北側の二の丸、三の丸を配置し、いずれも石垣を築いて総構えにしたと伝わります。現在は埋め立てなどで内陸に立地していますが、当時は湾の奥の独立した小丘で、慶長二年の十一月中旬あたりから加藤清正が縄張りを行い、毛利秀元、浅野幸長が昼夜突貫工事で普請に着手、あと四十日で完成するというとき、すなわち同年十二月二十二日、明の楊鎬が率いる明・朝鮮連合軍六万弱の軍勢が襲来して完成目前の蔚山倭城を包囲した、と、この事実は事実として認識できますか」

「否定しようがない。100パーセント事実だ」

「完成途上ですから日本軍は食糧の備蓄が十分ではありません」

「それも100パーセント事実だな」

「日本軍は非常に困難な局面に立たされたと理解してよろしいでしょうか」

「決して有利とはいえない、むしろ不利な状況に直面したと考えられる」

「守将は浅野幸長で、そこへ真っ先に加藤清正が応援に駆けつけ、つづいて毛利秀元と黒田長政らが援軍として入城しました。籠城十日目のことでした。これもよろしいでしょうか」

「援軍と一口にいうが、六万の敵が包囲する鉄壁陣を突破するのは至難のわざじゃぞ。百点満点をあげてもよい」

「問題は籠城戦を支えるべき兵糧が足りないことでした。冬の寒さと飢えに苦しみ、戦わないうちに倒れる者が続出して、落城は時間の問題となりました。明・朝鮮連合軍側から和睦の使者を時間稼ぎに利用して、まんまと大軍の援軍到着まで持ち堪えたのでした」

「一点の非の打ち所のない対応といってよい」

「退路を失った敵将の楊鎬は、その夜、総攻撃に出て蔚山倭城を落とそうとしました。が、援軍到着の報に勢いを得た籠城軍は攻めかかる敵兵に銃弾の雨を浴びせ、退却する敵を追って殺戮戦を展開しました」

「当然過ぎるなりゆきじゃな。問題なし」

「日本の援軍で真っ先に追撃戦に出たのが毛利秀元の陣営から飛び出した吉川広家だったということです。それによって明軍の敗走が始まったわけですから、戦機をとらえた見事というほかない行動といえます」

「そういうことだな」

「問題はここからです。日本軍は明・朝鮮連合軍を三十里にわたって追撃、敵兵のうち歩兵の生還者はほとんどなく、騎兵の戦死者の数もかなりの数にのぼったということです」

「それのどこが問題なのかね」

「小早川秀秋は愛馬を駆って退却する敵兵を激しく追撃し、数多くの敵兵を討ち取ったのでした。これを秀吉と三成が『大将にあるまじき軽率な振る舞い』と決めつけたのです」

「小早川秀秋だけが何で『大将にあるまじき軽率な振る舞い』になるんだ。吉川広家はもちろん、ほとんどの将が該当するではないか」

「それを、わかっていただけたら、私としては何も申し上げる必要はありません」

「清正らも秀吉に不興をこうむったらしいな」

「はい。ですが、秀秋の場合とは原因が異なるのです」

「同じことをやったのに?」

「そうなんです。清正らの場合は、秀秋が帰国した後、宇喜多秀家、毛利秀元、蜂須賀家政ら十三人連名で蔚山、順天、梁山の三城を放棄して戦線を縮小する案を『連署注進状』として一月二十六日付で秀吉に送ったのが原因でした。三月に届いて秀吉はこれを却下、いたく不興のようすだったとか。ですから、秀秋に対する問罪は清正らに対する理由とはまったく異質なわけですね」

「けなしようがないのに、無理に罪を着せたわけか」

「だれもが、そのように理解してくれるとよいのですが」

「違うのかね」

「そうは取らないようです。それはどうでもよいのですが、重要なことは秀秋の場合は大和大納言家の改易、千利休の切腹、関白秀次家の取り潰しと同系列のケースだということです」

「市井の犯罪者の手口よか遥かにたちが悪いぞ。こんな権力者がのさばり返ったら世の中は真っ暗だな」

「殿下が死ぬのを待つほかないという嘆きは本当だったわけですね。とうとう、そのときがきました」

「だからといって、判決を受けないで死なれては困る。秀吉の罪はいわゆる業務上横領罪、羽柴政権から政権を簒奪して豊臣政権にした。だから、羽柴政権と豊臣政権は同一ではないわけだ」

「そうです。そこが肝腎なところなんです」

「そもそも『太閤記』というタイトルが間違いなのだが、国民的レベルで認知されてしまっているからいまさら変更はしない。が、『太閤記』の魅力は羽柴政権の樹立まで、松本清張が『秀吉は小牧長久手までが取り柄で、関白になってからは愚物に転落した』と断じたが、けだし慧眼というべきだな。小牧長久手以後、太閤に登り詰めるあたりから、秀吉は犯罪者になり下がった。というよりも、大政所と秀長が健在な間は秀吉に手綱をつけて見事に制御していた。だから、大和大納言秀長の病死、大政所の老衰と病気、千利休殺害はワンセットで考える必要がある。その結果が大和大納言家断絶なのだ。秀吉が真に秀長に感謝するなら何とかして大納言家の存続を図ったものと思う。そうではなかったということが、大事な事実だ。それどころか、味をしめてしまって関白秀次家を取り潰し、名島三十万七千石の小早川秀秋にまで手をつけてしまった」

「それで墓穴を掘った……」

「加藤清正らが続々と帰国してくる。帰ったら半年前に秀吉は死んでいた。三成が知らせなかったわけだ。どこまで祟ったら気がすむんだ、このやろうということで、三成を血祭りに一大粛清のあらしが吹き荒れるところだが、家康が巧妙にガス抜きに奔走した。その一つが、秀秋を名島三十万七千石に復帰させたことだな。これは利いたはずだ。一大粛清のあらしはなくなった。なくした功績というのは目には見えないから評価されない」

「よくぞ、そこにお気づきくださいました」

「判決!」

 いきなり秦野裁判長が鋭く叫びました。

「豊臣秀吉を業務上横領罪により、歴史の舞台から不名誉除名とする。石田三成についても同罪であるが、余罪があるので判決は後日を期して述べる。本日は閉廷」

 陪審員席は静まり返っておりました。そればかりか全員俯いてしまって顔を上げることもできません 
(つづく)




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