天下取るおっかさん大政所の死で、羽柴氏の政権は終わった


 日本史法廷関ヶ原合戦公判のうち本公判にあたる審理が前々回、前回と行われてきて、本日は三日目です。開廷早々に、秦野裁判長が長井検察官に質問しました。

「禅譲すべきものを禅譲しなかった、これをパターンとして考えると、日の下に新しきものなし、と、いうことだったが、それだと、大変なことになってしまうぞ。徳川政権が正統で、豊臣政権が本来なら徳川に受け継がれるべき政権を簒奪した不当な政権ということになってしまう。だとすると、関ヶ原合戦の見方は根本から覆ってしまう。すべてかならず前にあったことの繰り返しにすぎないというからには実例があるはずだが、たとえば……?」

 秦野裁判長の質問に答える前に、まさに前代未聞のことですが、長井検察官は一冊の文庫本を開示しました。新潮文庫の延原謙訳『緋色の研究』です。いうまでもなく原作者はコナン・ドイルです。

「ホームズは次のように述べています。『こうした事件を解くにあたって大切なのは、過去にさかのぼって逆に推理しうるかどうかだ。これはきわめて有効な方法で、しかも習得しやすいことなんだが、世間じゃあんまり活用する人はいない。日常生活のうえでは、未来へ推理を働かすほうが役に立つから、逆推理のほうは自然なおざりにされるんだね』と。しかし、これはコナン・ドイルの時代にいえることで、現在の犯罪捜査はホームズ式逆推理をかなりのレベルで取り入れ、なおかつ科学捜査、プロファイリングの段階まで進化を遂げました。ただし、日本史の考証はまだまだ自白偏重、目撃証言重視の原始的段階で、方法論に言及する学者が一人として存在しないのが現状ですから、私としてはせめてもホームズの言葉に耳を傾けて欲しいと念ずるわけです」

 長井検察官はページをめくって、さらにつづけました。

「ホームズは逆推理を次のように説明しております。『ある一つの結果だけを与えられて、はたしてどんな段階をへてそういう結果にたち至ったかということを、論理的に推理できる人は、ほとんどいない。これを考えるのが僕のいう逆推理、すなわち分析推理なんだ』と。世界的人気のホームズがいっていることだから疑う人はいないと思いますが、無名の人間がホームズと同じようなことをやったとしたら、どういうことになるでしょうか」

 ここで、長井検察官はまたしても一冊、別の書籍を開示しました。表紙に『社団法人輿論科学協会五十周年誌』とあります。長井検事が引用したのは小林伸男という定性分析を専門とした人の著述でした。

《輿論科学協会において、私が実際に調査分析に携わったのは、唱和四十九年から同五十五年までの実質六年間であったと思う。第二企画室に所属した。定量調査にはほとんどかかわらず、もっぱら詳細面接、グループインタビュー、CFテストなど定性調査に専念した。

 思い出深い調査がいくつかある。

 順不同でいえば、ある複写機メーカーの依頼で、本調査のブリテストとして行った詳細面接調査がある。このブリテストで開発の方向をある程度見定め、それをもとに質問文をつくり本調査に臨む手はずだった。

 詳細面接の実査は主に私が行い、分析とまとめも私が担当した。なれない私は、後の本調査のことは考えず、詳細面接調査のデータを分析し、既存の機種の性能・機能をセグメントし、開発機種の可能性と指向すべき機能を予測して提言した。

 報告会のあと二週間の空白があり、メーカーから本調査打ち切りが通告されてきた。ブリテストですでに目的が達せられたというのである。

「当社のセールスマン(技術営業が二十人)を集めて、二週間束になって私たちなりにまとめを行いましたが、これ以上のまとめはできませんでした。複写機については私たちのほうが詳しいはずですが、これはどういうノウハウなんでしょうか」

 私は返答に困った。輿論科学協会にきて初めて調査の世界に身を置き、日も浅い。ノウハウというなら取材と執筆に先立つ構成のセンスである。

「わかりきったことでも話してもらう。とにかく思いついたことは何でも話してもらう。たとえこちらで知りたいことがあっても、それは出てくるまで待つ。出てくるまで話してもらう。御社が当方に及ばなかったのは、知りたいことだけしか聞かなかった点です。そのやり方ではわかりきったことしかわかりません。あえてノウハウをいえば、質問は最後の最後に行うこと」

 私はそう答えるほかなかった。

 よい調査をやれば、社会的に有益な提言ができる。その確信を得た私は、本当は社会調査をやりたかったが、第二企画室は市場調査を担当する部門であったため、とうとうその念願はかなわずに終わった。現在、社会調査に携わる人が、そこまでやってくれたらさいわいに思う。

 次に思い当たるのが、缶生ビールの詳細面接調査であった。当時、(あとでわかったのだが)缶ビールは低調で、メーカーは撤退すべきかどうか岐路に立たされていた。撤退を前提として、それを生産部門に納得させるデータを得たいというのがメーカーの意向であった。

 これも主として私が実査を担当し、分析とまとめも私が行った。このとき、私はメーカーの意向を知らされていなかったため、①大型缶に活路②自販機販売に対する若年層の特殊な需要の二点を抽出し、「可能性あり」と結論を下した。

 もし、先にメーカーの意図を知らされていたら、はたしてこういう結論を下すことができただろうか。バイアスをまぬがれたことで、逆にバイアスの怖さを知った。バイアスとなることを防ぐために、事前に私にそれを知らせなかった輿論科学協会もさすがだと敬服した。

 あの時点では、まさかこれほど多彩な缶ビール時代がくるとは思わなかったが、撤退の方向に向いていたメーカーの方針を前向きに転換させたという意味で、印象に残る仕事だった(後略)》

 読み終わって、長井検察官は秦野裁判長に呼びかけました。

「この人のことは私などより裁判長のほうがよくご存知だと思いますが」

「彼はなかなか好青年でな。それでいて人にしゃべらせる名人なんだよ。あんたにかかったら、どんな犯人でもみんな白状しちゃうだろうなといってやったことがあるんだが、しかし、陰でそんなこともやっておったんかいな。まったく知らんかった」

 長井検察官は得意そうに笑みを浮かべていいました。

「私が何でこの人のことを持ち出したかというと、ヌーボーとして、いわゆる昼行灯タイプで、こんな奴のいうことを真に受けていいものやらと不安にさせられる外見の持ち主なんですが、そうした場合、意見の取捨選択はクライアントの能力次第ということになります。たまたま複写機メーカーも、生ビールメーカーも、上層部の能力水準が卓越していたから彼の外見に惑わされることなく彼の提言が取り入れられ結果に生かされたのです。『何をもってそう判断したのか、いった本人を連れてこい』なんていうクライアントだと、とんでもない悲劇になりかねなかったところでした」

「そりゃ、そうだろう。しかし、あの昼行灯がだな、俺に向かって『そんなことしちゃ駄目です。私がいう通りにしてください』と、面と向かっていうんだよな。だから、こっちも信頼して何でも話せた。人間、外見ほど当てにならんものはないというよい見本なんだな。俺のやっていることを見て、頭から『駄目です、駄目です、そんなことやったら、あとはどうなりますか』だものな。ぼんくらに見えて、本気を出すと妙に説得力を発揮するんだよ。こっちがこの男の本当の姿だなと考え直して、だれよりもまして信頼もしたっけ」

「本人も裁判長を実の親のように慕っております」

「相思相愛だな。ありがたいこっちゃ」

「ところで」

 長井検察官はそれ以上の深入りを避けるかのように次のような説明を付け加えました。

「『社団法人輿論科学協会五十周年誌』に実例を求めたのは、ホームズ式逆推理をわかりやすく説明するためなんです。今や複写機にパソコンのプリンターが取って替わる時代に、一枚一枚手挿しのコピー機からかぎりなく印刷機に近い機種を指向したかと思えば、この缶ビール全盛の時代にかつては撤退の動きがあり、それをユーザーのたったひとことのコメントから今日ある姿をいい当てて、メーカーを前向きに転換させた事実にあやかって、日本史もシロだのクロだの議論するのはやめて、バイアスから免れているであろう五十年後の日本人に判断を委ねたいためなんです。抽象論ではわかっていただけないと思って、あえて実例を例示しました」

「ちょっと、待った。細かいことをあげつらうつもりはないんだが、だれにでもわかりやすくするというなら、論理に矛盾があってはならんと思う。ホームズは『日常生活のうえでは、未来へ推理を働かすほうが役に立つから、逆推理のほうは自然なおざりにされる』というとる。マーケティングリサーは『未来へ推理を働かすほう』だから、引用としては少し強引な気がするが、その点をどう説明するつもりかね」

「結果がわかっていることですからね。しかも、出発点まで記録されております。これほど完璧な実例はないと思いますが」

「それを最初にいってもらいたかったんだよ。それにしても、日本史は五十年後かよ。俺も、検察官も、そのときはおらんわけだ。しかし、それぐらい長い時間を費やさないと答えには近づけないだろうな」

 長井検察官は会心の笑みを浮かべていいました。

「この日本史裁判は既存の解釈に対して、それではなくて『こういう考え方もありますよ』という反対概念を提示することで成り立つわけですが、どちらが正しくて片方は間違っているというようにシロクロつけるのが目的ではありません。ただし、証拠に照らして矛盾点が明らかな場合は訂正を求めることがあります。つまり、判決は下らないのです。とはいっても、裁判長が存在しますから、当法廷としての判決は出ますが、あくまでも五十年後を見据えて選択肢を提供するというのが本来の意図なのです。一応、そこのところを申しあげてから、本題に入らせていただきます。ホームズのコメントに即して説明しますと、結果に相当するのが、『小早川秀秋は裏切り者』『小早川秀秋は生来から魯鈍であった』という既存の評価を覆して、『小早川秀秋は裏切り者ではない』『小早川秀秋は家康が恐れるほど俊秀だった』ということを証明することです。事前審理で逆推理して得た出発点が、『豊臣政権は徳川に禅譲すべき政権を簒奪した』ということでした。われわれはこの出発点に立ち、逆推理の論理的筋道を出発点から結果に向かって述べる段階をようやくにして迎えたのです。この点をまずご理解いただきたいと思います」

「『豊臣政権は徳川に禅譲すべき政権を簒奪した』ということの証明だが、うむ、それはそれで容易ではないと思うが、長井検察官のお手並み拝見だな」

「次に禅譲という概念をよく理解していただかなくてはなりません。実は『小早川秀秋は裏切り者ではない』『小早川秀秋は家康が恐れるほど俊秀だった』という二つのコンセプトは、歴史的にいって《禅譲》のパターンと密接不可分の要素を持つのです」

「だから、具体例をと望んでいるのだがね」

 秦野裁判長はあくまでも証拠の提示を求めつづけます。

「もう少し前置きをお許しください」

「構わんが、手短に頼む」

「はい」

 長井検察官は秦野裁判長に一礼して述べました。

「親から子へ家督が受け継がれるのは、ごく個人的なレベルでの社会的規範で、治世や経世済民すなわち世の中に関すること、いわゆる大義に関係してくると『大義親を滅す』という規範が優先されるようになります。このことは論語から再生された朱子学の規範中の規範です。ところが、個人主義・自由主義の現代は大義の概念が薄れた民主主義社会ですから、この点を忘れがちで、それゆえに解釈が混乱するわけです。たとえば、大義親を滅すという規範があるのに、そして、明らかにそのようにすべきなのに、禅譲はなかなか実行されません。禅譲の事例としては尭から舜、舜から禹への禅譲が説かれておりますが、理想論から生まれた事例だとされます。したがいまして、天下人が自分の血縁以外の有徳者に政権を譲ることが禅譲ではあっても、なかなかそうはならないために、現実には《禅譲は譲る側にその気はなく、受ける側が強制して受けるものである》ということにならざるを得ないのです。パターンとして代表的なのが、前政権担当者の血縁者のうちわざと幼い者に名目的に政権を後継させておいて、実質的に政権を掌握してしまうやり方です。理論はさておき現実問題として禅譲とはそういう性質のものだとご理解いただきたいと存じます」

「そうすると、何だな、家康と秀秋の関ヶ原後の交渉にも深く関係してくるのではないかな。どうだろう、長井検察官……」

「おっしゃる通りですが、今の段階ではそのへんの経緯は予告にとどめて、禅譲の概念に当て嵌まる実例を挙げることに専念したいと思います」

「そりゃ、もちろんだとも」

「代表例が後漢最後の皇帝献帝の場合です。これは『三国志』で有名ですからご存知の方が多いはずです。董卓によって擁立された幼帝は騒乱に翻弄され、草莽を放浪した末に曹操に迎えられ、帝座に就いて曹操を引見した際、《朕を大事に思うならよく補佐してほしい。そうでないなら情けをかけて退位させよ》と訴えました。献帝から曹操に禅譲を持ちかけた恰好ですが、曹操はそのために自分の代には禅譲をやりにくくなり、後継の曹丕の代に先送りしてようやく実現させました。しかし、実権は曹操が献帝在位のときに掌握したわけですから、事実上の禅譲は名目上の禅譲に先行して行われたことになります」

「献帝は霊帝の弟の陳留王だったな、確か」

「そうです。日本でこれに当てはまるのが、織田氏から羽柴氏への政権の禅譲です。織田氏から羽柴氏への禅譲を実現すべく秀吉は幼い三法師を後継者に挙げ、織田家の最有力者丹羽長秀の支持を取り付けるため長秀の三男仙丸をのちの大和大納言秀長の嫡子に迎えました。それを認めない信雄や信孝が家康や柴田勝家と組み、合戦を起こしました。信孝と勝家に勝利した秀吉でしたが、なぜか家康との合戦となると、最初から及び腰で、十万もの大軍を擁しながらにらみ合いに終始しました。原因は仲(大政所)が協力的でなかったためだと思われますが、信孝と勝家との合戦ではめざましい働きをした秀長が、小牧山城を総構えにこしらえ直した家康と対峙した田楽原の陣では、どうした加減からか秀吉とは距離を置いて犬山城に退いてしまいました。この事実に対置すべき事実として藤吉郎時代の秀吉の禅譲拒否の事実を提示したいと思います。本来ですと実質家長であるべき秀長に名目的家長の地位をも禅譲すべきなのですが、藤吉郎時代の秀吉は有徳者の小一郎秀長を差し置いて母親の仲に(名目だけでもいいから)自分を家長として立てるよう要求しました。秀吉の要求を認める条件として仲がお寧を妻として迎えることと、『公儀のことは秀長に諮り、内向きのことはお寧に委ねる』という二つのことを本人に誓わせたという《逆推理、すなわち分析推理》はこれまで幾たびとなく引用しつづけてきました。これも実質的に《逆禅譲》と考えるべきだと思います。秀吉が関係した禅譲の三度目は、大政所と秀長の病を利用した大和大納言家への介入です。秀長の嫡子は養子の仙丸なのですが、俊秀だけに自分への禅譲の大いなる妨げでした。そこで秀長本人と大政所の病気につけ込み、仙丸を廃嫡して秀保を養嗣子に送り込み、秀長の死後、大和大納言家を取り潰しました。大政所は秀長の死の翌年に他界しておりますから、こうなると秀吉の思うままです。本来なら第一人者ということでいうと、大政所政権の後継者は家康でなければならないのですが、家康は禅譲を急ぎませんでした。なぜなら、秀吉が自作自演した禅譲につづいて、今、またしても禅譲を迫るような挙に出たならば世の中の顰蹙を一身に浴びることになるからです。北政所をはじめ小早川秀秋に至るまで、お寧系の一族のことごとくがアンチ秀頼派であることを知っていたことも、家康が禅譲を急がなかったゆとりの一因でした。あるいはまた秀吉の血縁ではない秀頼を後継者の座から引きずり下ろすのはわけないことなのですが、秀頼を温存することで石田三成に一働きさせるのが先決と家康というか本多佐渡(正信)は考えたのでしょう。どうですか、これで、関ヶ原合戦にかぎりなく近づいたとはお感じになりませんか」

「近づいたなあ。禅譲すべきものを禅譲しなかったというホームズ式逆推理というか、分析推理は、そういうことだったのか」

「おわかりいただけてさいわいです。次の審理では『小早川秀秋は家康が恐れるほど俊秀だった』のほうに焦点を合わせます」

「それも大事な観点だな。魯鈍な男では松尾山までたどりつけんかったわけだし、筑前名島から関ヶ原までは距離が離れすぎているだけでなく、その中間には毛利あり、宇喜多秀家あり、大坂城には秀頼ありで、魯鈍な人間にはとても、とても……」

 かくして本日の審理は時間切れで打ち切られました


(つづく)





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