政権簒奪のための秀吉と三成の詐術、あの手、この手


 日本史法廷関ヶ原合戦公判のうち本公判にあたる審理が前回行われて、今回が二日目となるわけですが、秦野裁判長が冒頭から長井検察官に疑義を呈しました。

「うっかりして聞き流してしまったんだが仲は『公儀のことは秀長に諮り、内向きのことはお寧に従え』という内規を思いついて従わせたと長井検察官は述べたわけだが、秀吉がお寧と結婚するのは桶狭間の翌年だから、時間的に二年、三年というずれがあるわけだが、判断に支障はないのかな」

「時差は確かにあります。すぐに成立して、直ちに効力を持つ性質の内規ではありませんから、内規が成立したのは秀吉が今川から織田に仕官換えするときに交渉が始まり、仲が正式に家長として立てる条件にお寧との結婚を持ち出し、内規とともに呑ませたと考えられます」

「そういうことなら矛盾はないわけだ」

「同感です」

 秦野裁判長と長井検察官のやりとりは、そこで終わりました。

「新潮文庫版(延原謙訳)の『緋色の研究』を読むと、シャーロック・ホームズは『人間の頭脳というものは、もともと小さな空っぽの屋根裏部屋みたいなもので、そこに自分勝手にえらんだ家具を入れておくべきものなんだ。ところが、愚かなものは、手あたりしだいにこれへいろんながらくたまでしまいこむものだから、役に立つ肝心な知識はみんなはみだしてしまうか、はみださないまでもほかのものとごた混ぜになって、いざというときちょっととりだしにくくなってしまう』といってるんだな」

「それに『そこへゆくと熟練した職人は、自分の頭脳部屋へしまいこむ品物については、非常に注意を払う。仕事をするに役だつもののほかは、決して手を出さず、といってその種類は非常に多いのだが、これらを彼はきわめて順序よく、きちんと整理しておく』とつづくんですね」

「これまでの予備審理では、きわめて順序よく、きちんと整理しておくべきところを雑然と投げ出した観があるから、本公判では『豊臣政権は徳川に禅譲すべき政権を簒奪した』という仮説を頭脳部屋に見立てて、仕舞い込む品物をきわめて順序よく、きちんと整理していきたい。協力してもらえるね」

「もちろんです」

「するとだな。禅譲すべきかどうかの証拠となる事実を挙げてもらわにゃならんのだが、やってもらえるかな」

「その前に、シャーロック・ホームズが『日の下に新しきものなし、ですよ。すべてかならず前にあったことの繰りかえしにすぎないんだからな』といっている意味について説明させてください。これは統計学でいうところのパターン分類、パターン分析にあたる考え方です。人工知能と同じ仕組みなんです。複雑化、精密度の違いだけなんです。だから、考え方としてはこれまで挙げてきた踏まえるべき事実のうち関連する事実のみ仕舞いこみ、がらがらぽんで並べ替えるだけでいいのです」

「並べ替えると簡単にいうが、簡単にはいかないのではないかな」

「禅譲すべきものを禅譲しなかった。これをパターンとして考えると、日の下に新しきものなし、で、すべてかならず前にあったことの繰り返しにすぎないことがわかります。正統性を欠いた誤魔化しですから、あの手、この手の見え透いた詐術が行われるのが常ですから、新たに詐術に当たる事柄を追加したほうが早いかもしれませんね」

「具体的にいうと?」

「せっかく裁判長が『豊臣政権は徳川に禅譲すべき政権を簒奪した』という仮説を頭脳部屋に見立るとおっしゃってくださったのですから、まず順序立てて申しますと、大政所と秀長が健勝でいたときは秀長に丹羽長秀の三男で明敏な仙丸を養子に入れ、大政所と秀長の病状が思わしくなくなると、敢然、仙丸のの廃嫡を迫り、プロファイリング上かなり問題のあるDNAを持つ姉智子(日秀)の子秀保を代わりに押し付けて兄弟仲を悪化させ、秀保の非業の死を理由に大和大納言家を断絶に追い込みました。大政所の病状が天正十六年あたりから思わしくなくなったことは、家康の正室となった旭が母の看病を理由に聚楽第にとどまった事実からわかります」

『淀殿の不義黙認』も、禅譲を反故にして秀吉系統の政権を維持したい一心からのことだったということだが、かなり有力な傍証といえるな

「『才智においてわれに異ならないのは三成のみ』と記録資料にあるようですが、これは三成に対する秀吉一流のおべんちゃらだと思います」

「根拠は?」

「パターンで裏づけます。が、その前に以下の論述に耳を傾けてください」

 以下が長井検察官の論述……。

          

 大納言、俺をひとりにしなや

 日本史にかぎらず歴史全般にいえることだが年表的記述という落とし穴がある。小田原合戦を年表式に述べると「関白秀吉、小田原征伐を行い、北条氏を降伏させて天下統一を成し遂げる」ということになるのだが、実際はまるで逆で、吉川英治をしてその堕落ぶりを嘆かせ、松本清張が「愚物」と断じた秀吉の乱行ぶりばかり目立ってくる。

 文禄四年四月十六日に起きた秀保の奇禍は、彼を大和大納言家に養嗣子として送り込んだ秀吉には当初から予測されていたことであった。臨月に達した妊婦を見かけると、家来に「腹を割いて嬰児を取り出して見せよ」と命じ、泣いて命乞いする相手を無視して決行させたり、罪のない領民を成敗するなどのことは、秀保にとっては日常茶飯事のようなものであった。秀保が舟遊びをするために十津川にきたとき小姓が抱きついて崖から飛び降りたという伝聞事実も、領民の側からしてみれば必然の帰結であったといえる。

 

 秀吉が秀保の破綻した人格をあらかじめ知ったうえで大和大納言家に養嗣子として送り込んだのだとしたら?

 あえてそれを「企み」とみなすからには理由があってのことである。本能寺事件を受けて、秀吉が謀反人光秀を討ち、天正十(一五八二)年六月二十七日、織田家の跡目相続を議する「清洲会議」に臨む前に見せたあざやかな根まわし、それもまた彼の才智を物語るものだが、会議の結果が秀吉の主張する三法師君(秀信)に決したのは宿老丹羽長秀の賛同が大きく影響したといわれる。光秀は惟任、丹羽長秀は惟住、二人のみが廷臣として由緒ある姓を賜った。その一方の光秀がいなくなって、残ったもう一人惟住長秀の存在の重みは倍加していたはずである。そこに秀吉が長秀を籠絡するいわれがあった。

では、丹羽長秀はなぜ秀吉に肩入れしたのだろうか。

 光秀を討ったのが(羽柴家の家長としての)秀吉の第一の功績、それはだれもが認めるところ。加えて秀吉は長秀の三男仙丸を秀長の養子にすると約束した。竹中半兵衛、前野将右衛門、蜂須賀小六らで構成される「天下取るおっかさん」グループの事実上のトップである秀長の養子にできたら、長秀にとっても仙丸にとっても大いに今後のためになる。

一方、人物鑑識眼に秀でた秀長が仙丸を養子に迎えることに同意したのは惟住長秀の子で、しかも人間的にみるべきものがあったからである。ところが、それから時を経て秀長が大和大納言となって病の床に臥すと、敢然、秀吉は秀長に仙丸を廃嫡して姉智子の子秀保を養子にして継嗣に直せと迫ってきた。俊秀と評判の仙丸と人格破綻者の秀保とでは比較にもならない。さすがに温厚な秀長も激怒し、秀吉との仲が険悪になった。

 結局、中間の推移は不明ながら、家老の藤堂高虎が廃嫡された仙丸を養子に迎え、秀保を養子とし継嗣に直すことで一件落着した。秀長の気持ちは秀吉からますます離れていったはずである。しかも、病は重くなるばかり。秀吉にとっては、最早、秀長は利用価値のない人になり下がりつつあったから、そのような手段に出たとしか考えられないわけである。秀吉は分家の継嗣に介入して仙丸を廃嫡し代わりに秀保を養嗣子に送り込んだうえで小田原北条氏討伐を宣言した。すなわち、小田原攻めは秀吉が秀長ぬきで臨んだ最初で最後のいくさだったのである。

 

 二人袴ならぬ『偽説・太閤記』は秀長の死が秀吉の死に先行したために露呈した真相である。秀吉は秀吉のみでは秀吉たり得なかったわけで、秀長も秀長のみでは世に出ることはできなかった。これから『太閤記』を描くとしたら、これまでの『太閤記』が描かなかった秀吉という男の悪魔的な面(あるいは桁外れの俗物的側面)をいかにして描くかが大きな課題になるであろうし、そうした兄を批判し、ひきずりまわされながら、木下家の当時からつづいた内規にしばられ、ともすれば自分の目をかすめて世の中に害毒を流しかねない兄を掣肘して過たずにやっていくにはどうしたらよいか、悩み、憤り、肝胆を砕く秀長の視点で抒情詩としても謳いあげる必要があろう。事実は小説より奇なりというが、それは事実がきちんと描かれることを前提にしてはじめていえることであって、『太閤記』の場合もこうした構成のほうが劇的で深みが生まれるだろう。考証を重ねて『偽説・太閤記』を読み解いた意義も、実はその点にある。

 大和大納言秀長の死を聞くと秀吉はすぐさま大和郡山城に駆けつけ、不世出の弟の亡骸に取りすがって、

「大納言、俺を一人にしなや」

 号泣の声を放ち、あられもなく肩を震わせたという。

 これを嘘と断じ、そらぞらしいと退けてしまったら、それまでである。かつての私はまったくその通りの受け取り方をしたが、あの場面には嘘偽りの割り込む余地などなかったと、今なればこそ私は思う。母親に天下を取らせようと誓った藤吉郎、小一郎のときから兄弟二人の間には、理論や道徳・倫理ばかりでは計り知れない「二人のみに通じ合うサムシンググレート」みたいなものがあったといわざるを得ない。ある意味ではこの二人ほど兄弟の運命を劇的に共有した者はなかったのであり、それだけに秀吉の嘆きは秀吉にしかわからない性質のものだったのかもしれない。だが、それに近い感情を持つことができなければ秀吉を批判する意味もまたないのであり、それあるがゆえに反語的な意味で秀吉賛歌にならざるを得ないわけであって、そうした境地こそが時空を旅する考証人が恋い願うところの魂の目的地なのだろう。

          

 信長を殺したるは信長なり、豊臣家を滅ぼしたるは秀吉なり

 秀長の亡骸にとりすがって秀吉が思わず口走った「俺をひとりにしなや」という言葉は実に意味が深い。大政所がぴんぴんしていたら、絶対に出ない言葉だからである。翌天正二十年に大政所が他界することを考えると、彼女はすでに死の床についていたのだろう。

 もし、そうだとすると、秀長の次にくるのは利休の死である。

 

小田原征伐宣言当時に話を戻すと……。

 大和大納言秀長は家康の居城駿府城に留守居として入るはずであったが、直前に病状が悪化して大和郡山城から出られなくなった。秀長がもし死ぬようなことがあると、秀吉は自分を生かしてはおかないだろう、と利休は小田原に参陣する当初から覚悟を固めていたはずである。なぜなら、利休の従軍は秀長の名代の意味を持つからである。秀吉がそれを快く思うわけがない。

 果たして利休の切腹は秀長の死からわずか一ヵ月後、秀長の死より先ではなく後であることに必然性をより強く印象づけられる。秀長が生きているうちに秀吉が利休に殺意を抱いたとしても何の意味もないし、あり得ないことだからである。

 利休が秀吉を蛇蝎のごとく嫌っていた事実は「橋立」の茶壷を秀吉に所望されただけで、橋立の茶壷を使わない理由を「客人に泥水を飲ませることになるから」と語ったことから、その凄まじさがよくわかる。秀吉に殺意が生じてからわずか一ヵ月で利休断罪が実行されただけに、罪状はこじつけもはなはだしいものであった。

「貴顕が通る大徳寺山門の二階に自分の木像を安置させるとはけしからん。頭を土足で踏みつけるに等しい」

切腹の理由にするなら橋立の茶壷の献上を拒み「客人に泥水を飲ませるようなものだから、みずから使うのをやめる」と宣言したことを表向きの理由にすべきである。利休はそれを公言し、手紙にまで書いて、それが今日も存在するくらいだから、探せば絶好の罪状として見つかったであろう。それなのに冗句かと勘違いしそうなくらいふざけた理由を大真面目に掲げたことが、いかに性急な処罰であったかを裏づける。

 秀長病死、利休横死を受けて、翌年、秀吉が盲愛した唯一の男子お捨こと鶴松が急死した。淀殿がおなかを痛めたお捨を育てたのは正室のお寧すなわち北政所である。お捨の死は風邪が原因だったのだが、生母淀殿は「北政所は自分に子がないため妬んでわざと見殺しにした」と恨みを含んだという。もちろん、淀殿の邪推だろう。閨房の対立は秀長が重病を発した当時、すなわち仙丸を廃嫡して秀保を継嗣に迎えた頃から始まっていたわけで、北政所がもし意図的に見殺しにしたのだとしたら「狂人秀吉」の血が伝わるのを恐れたと解釈すべきである。

なぜかというと、当時、秀長の跡を継いだ秀保が臨月の女性を見かけると腹を割いて胎児を取り出させるなど狂気の沙汰を繰り返したからである。秀保は秀吉の姉智子の三男だから秀長と血のつながった養子ではあるが、秀吉、智子と秀長は異父兄姉弟であり、つながる血は半分であった。どうやら、狂気の遺伝子は秀長の父親竹阿弥ではなく秀吉と智子の父親弥右衛門のほうにあったらしく兄姉のほうに「狂人」の血が遺伝したようである。

 

 のちに関白となった秀次も秀保と同じ罪状で切腹させられるが、お寧の血筋であり、詰問を担当した石田三成のデッチ上げといわれるから狂気の血筋ではあり得ない。したがって、大和大納言家につづいて関白秀次家まで断絶させるといった秀吉の振る舞いは狂気の範疇に入る。それが幼い秀頼(しかも淀殿の不義の子)のためとあれば何をかいわんやである。

 外向きにもまた城を築いたり、壊したり、朝鮮掃討軍を起こすなど、すべてがおのれ一個の喜怒哀楽から発しており、天下人とは思えない振る舞いばかりが目立つ。

結局、秀吉の生涯とは何だったのだろうか。

 世の中という奉仕する対象の何たるかを思わず、おのれ一個しか頭にない男の人生は家庭内トラブルの狭間で利己主義に徹し、心が通じ合うのは淀殿と石田三成だけというさびしさになった。それだけに何をしても、何を得ても空しく、求めるものが小田原合戦、文禄・慶長の役というように虚無的な英雄の真似事が次第にエスカレートしていったのだろう。

茶人山上宗二の秀吉嫌いは有名である。大徳寺人脈そのものがアンチ秀吉なのである。同じ理由かどうかはわからないが、同様に秀吉を徹頭徹尾嫌い通した三河武士がいる。日本一簡潔な手紙文「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」で知られる本多作左衛門重次である。小田原合戦を始めるに際して家康から軍旅の途中の秀吉をもてなすようにいわれたとき、「徳川の本城たる駿府城に秀吉を泊めるなど奥方を貸すようなもの」と本多重次がいってのけたことはすでに述べた。

小牧山合戦後に和睦が成立し家康上坂の見返りとして人質になって岡崎城に預けられてきた秀吉の実母大政所の住まいに薪を山と積み、「主君に万一のことあるときは覚悟せよ」と威嚇したのも重次であった。秀吉には一徹な人間に嫌われる何かがあったのは確かである。利休は家康の保護がなかったため屁理屈めいた理由で切腹を命じられ、本多重次は家康のとりなしで一命を取り留めたものの蟄居の身となってしまった。

 振り返ってみるとき、秀吉が自分に一度でも敵対した者のうち最後まで許し通したのは徳川家康と薩摩の島津義弘の二人だけであった。佐々成政の例を持ち出すまでもなく、一度は許された氏直の案外な早死に疑問が投げかけられているのは、秀吉の陰湿で陰険な性格に起因する。織田信雄に至っては家康の旧領への転封命令に対して、「尾張は父祖の地であるから元通りにして欲しい」と願っただけで、その場で上州に追放されてしまった。

 

 鳴かぬなら殺してしまえホトトギス……。

 戦国時代を駆け抜けた天下人三人のうちの一人の資質を比喩したこの言葉は信長ではなく秀吉にこそふさわしい。

 時代は違うが安政大獄を断行し、有為の士をことごとく粛清した幕末の大老井伊直弼の判断基準が、「おれのいうことを聞かないやつは皆殺しだ」であった。いずれもおのれが判断の基準なのである。徳富蘇峰は井伊直弼のそうした性格が桜田門外事件の原因になったという含みで、「井伊を殺したるは井伊なり」と評した。秀吉の場合も、信長の場合も、「豊臣家を滅ぼしたるは秀吉なり」「信長を殺したるは信長なり」といってさしつかえない。

 とまれ、前半は秀吉の思い通り、後半は家康の好き勝手というのが小田原合戦の真相である。家康はとうとう鳴かないまま関東を無事に得たのであるが、秀吉はどうして家康に手を下せなかったのだろうか。

 秀吉とて統治に信頼は欠くべからざるものと認識していたはずだ。秀長後を考えると信頼の塊のような徳川家には手を下せなかったのかもしれない。あるいは家康を「源氏の飾り雛」として利用する腹づもりだったのかもしれない。しかし、身近に置くには危険が大きすぎる。だから、家康の関東封じ込めという一石一投で鳥二羽を得ようとしたのかもしれない。

 ところが、石田三成は秀吉がやりたくてもやれない家康殺しを徹頭徹尾やり抜こうと試みた。秀吉に取り入るにはそれ以上のことはなかった。秀吉としては家来がやったことだから俺は知らないで通せばよいからである。秀吉存命中はへつらいから、秀吉の死後は保身のため、三成がやったことに義はかけらもなかった。

「われに才智の劣らないのは三成のみ」

生前の秀吉が残した言葉であるが、健勝なうちの秀吉は家康暗殺に執念を燃やす三成を頼もしく思った。しかし、死期の迫った秀吉は執拗に画策をつづける三成を忌避するようになっていく。

今日では淀殿の不義の子であると断定された秀頼を世継ぎと認めたのは、家康に天下を渡したくない一心からである。そのためにも、家康には是非にも秀頼を世継ぎと認めてもらいたい。だから、臨終に際して秀吉は五奉行に対して「五大老と相談すべし」と遺言した。三成を頼みに思う気持ちがあるなら、彼の上に命令権を持つ五大老を置いて五奉行を単なる執行機関に格下げするいわれはない。

「やっぱり家康は殺せなかったではないか。もう、貴様などに用はないわい。引っ込んでおれ」

 と、いうのが、三成に対する秀吉末期の本心だろう。三成は土壇場で秀吉に裏切られたのである。病床で死出の旅立ちを待つばかりとなった当の秀吉としては、かくなるうえは家康の気分を害さないようどこまでも下手に出るほかなかった。

「返す返す秀頼のこと頼み申しそうろう、五人の衆(大老)、頼み申しそうろう。委細、五人の者(奉行)、申し渡しそうろう。名残惜しくそうろう」

五大老に向かって哀願し、これでもか、これでもかと繰り返し誓約させる秀吉、哀れというよりみっともない、情けないという姿であった。こうまでするからには、家康こそ信長・信忠亡きあと正統の後継者であることを自覚していたことになるわけで、関ヶ原合戦後、北政所が家康を頼って江戸に住まいを移したのは見識というべきであろう。

          

 黒田官兵衛に北条氏が贈った「菊一文字」と秀吉のおべんちゃら癖

もう一つ気になる事実について言及しておくと、黒田官兵衛孝高が小田原城に乗り込んで北条氏を説得して降伏開城に同意させたとする見解があり、留守を預かる嫡男長政に宛てて送られたとされる秀吉の朱印状が存在する。

《今度の首尾、勘解由渕底候(このたびの首尾、勘解由=官兵衛の通称=が決着をつけた)》(平成二十五年十一月二十五日付読売新聞夕刊の記事より)

この朱印状と部分的な文言だけぽんと投げ出して「このたびの首尾、勘解由が決着をつけた」と決めつけられても戸惑うばかりである。

皆殺しの軍令を発して「降伏は認めない」と宣言した秀吉がなぜいかなる理由で小田原城の中に官兵衛を送り込んだのか、前後の脈絡を明らかにしたうえできちんと説明する必要がある。すでに先行して北条氏規が小田原城に入って無血開城を説得にかかっているのだから、その氏規を監察する役割でもないかぎり事実が本当とは到底理解しがたい。もし氏規の監察役として入ったのだとすると、「勘解由が決着をつけた」は秀吉の主観から出た文言(秀吉一流のおべんちゃら)で信頼性は極めて乏しくなってくる。官兵衛は仲介のお礼に北条氏から「日光菊一文字」の太刀(国宝)を贈られているというのだが、勝利者側への儀礼的な礼物ではなかったのか。

朱印状は黒田家から寄贈を受けていた福岡市が市立博物館に収蔵していたものであるといい、官兵衛が来年のNHK大河ドラマの主人公になったことから、初の公開を決めたという。大事な証拠物件なのだから単体で無造作に投げ出すようなやり方ではなく、もっと誠実で効果的な使い方をすべきではないかと残念に思う。

          

 

 論述を終えた長井検察官に秦野裁判長がいいました。

「そういう事実がどうしてもっと整理して語られないんだろうな」

「その前に、『才智のわれに異ならないのは三成のみ』が秀吉のおべんちゃらだということが、黒田官兵衛に対する根拠の薄い文書によって、それとなくおわかり願えたでしょうか。あるいはまた、政権簒奪のための秀吉と三成の詐術、あの手、この手の一端を語ったつもりでおりますが、いかがでしょうか。まだまだ証拠が足りないとおっしゃるなら、いくらでも挙げられますが」

「いや。本法廷はシロクロつける場ではないからな。大事なのは解釈よりも推理の筋道なんだよ。だから、あっちが間違いで、こっちが正しいというようなことではなくて、こういう考え方もある、ということを知ってもらえればいいんじゃないか」

「私もそのほうが気楽にしゃべれます」

「ならば、本日は、これまで」

 秦野裁判長が閉廷を宣しました


(つづく)





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