豊臣恩顧は後世の史家がデッチ上げた虚構の概念、三成像もすべて創作


 かなり強引に休廷してから、日本史法廷関ヶ原合戦公判はまた再開の運びとなったわけですが、秦野裁判長は長井検事にいって聞かせました。

「一つ、ルールを決めよう。本公判にかぎって検察官は私の質問にだけ答えること」

「わかりました。反省しております」

「では、そういうことで」

秦野裁判長は考えてきた質問表に目を落としながら審理を進めようとしました。すると、長井検事がいきなりまくし立てました。

その前に絶対絶命のピンチについて説明させてください。家康の三大危機として三河一向一揆と三方ヶ原の合戦、伊賀越えがあげられておりますが、少なくとも三河一向一揆と伊賀越えは違います。家康の三大危機などという歴史音痴の世迷言は無視してかかりましょう」

「三河一向一揆は家来が謀反を起こしたのだろう?」

「今川遺臣の策謀というか、佐々木上宮寺の住職は義元の娘婿でしたからね。この事実が思わぬ波紋を三河国の一向宗に投げかけたのです。すなわち、桶狭間合戦前のことです」

「三河一向一揆は桶狭間の後、しかし、義元が佐々木上宮寺の住職信祐に娘を嫁として送り込んだのは桶狭間より前ということだな」

「そうです。そこが重要な点なのです。佐々木上宮寺の住職信祐は三河一向一揆の火元でしたし、桶狭間以前でも三河国一向宗の懸念材料でした。三河国の一向宗は土呂御坊を象徴的な盟主として三ヶ寺がそれぞれの末寺・末端道場を束ねましたが、佐々木上宮寺が義元の娘を嫁に迎えたあたりから、三河国一向宗の中で浮いた存在になったと考えてください。なぜなら、義元は駿府では一向宗を認めていないからです。一方、時期を同じくして本證寺の住職が源正から玄海に代わりました。そのとき三河武士百十一人が玄海に忠誠を誓って署名しているのです。なぜ忠誠を誓うのでしょうか。実悟の代役だから? あるいは、対今川の結束のため? いずれにせよ、その中に本多弥八郎が小川城主として名を連ねているといったら、驚くのではありませんか」

「若き頃の本多佐渡は家康に鷹匠として仕えたとは聞くがな。まさか小さい田舎城とはいいながら城主だったとはな」

「鷹匠というのは隠れ蓑にちょうどよいのです。極めて私的な環境でなんぴとにも邪魔されないで家康と直接やり取りできますから。将軍の鷹狩りに供奉して直接将軍と話す場を持った江戸時代の関東郡代伊奈氏と同じ立場なんです。そのために老中酒井忠清が伊奈氏つぶしのためにどれほどあの手この手を試みたことか……」

「家康と本多佐渡は君臣の間柄でありながら水魚の交わりだったと聞くが、晩年だけではなく最初からだったというのかな?」

「そう考えないとどこかで矛盾が生じてジグソーパズルが完成しなくなってしまうんです。弥八郎時代の本多佐渡は小川城主なんですよ。『安城市史』を取り寄せて、その事実を知ったときは飛び上がるほど驚きました。しかも、十二歳の若さです。三河一向一揆は佐々木上宮寺つぶしの策謀と考える論理的道筋すらあるわけですから、危機だなんていったらオヘソが茶を沸かすんじゃないでしょうか」

「ちょっと待ってくれんか。すると、何のために佐々木上宮寺つぶしをやらかさなきゃならんのだね」

「まず、天文十八(一五四九)年がどういう年だったかというとですね、松平広忠が近臣岩松八弥に殺されると、間髪入れず今川義元が太原雪斎に二万の兵を率いさせて岡崎城を占領。松平家の家臣の半分を駿府に移住させ、岡崎衆の鳥居忠吉に命じて租税と雑務を管理させ、城代として今川譜代の朝比奈泰能を送り込んだのです。三月十九日には本多忠高が織田方の安祥城攻めで夜襲に成功するも、朝のいくさで矢をうけて討死。岡崎衆の安祥城攻めはそのために中断。雪斎和尚の指示を受け、九月十八日に再開、安城城を攻めて織田信秀の庶子信広を捕らえ、竹千代と交換しました。ところが、竹千代は尾張国から三年ぶりに岡崎に戻り、わずか半月で駿府に人質に取られてしまったのです。本證寺後継問題に際して連判状に三河武士百十一人が署名したのはこういう年だったのです。それまでは死を恐れない一向宗家臣と岡崎衆が同一構成員としてだぶるかたちでしたから松平家は安泰を保ちえたわけですが、義元が佐々木上宮寺に娘を嫁に入れて一向宗を籠絡し、岡崎衆のうちの屈強の部分を味方につけてしまえば、松平氏は自然消滅してしまうでしょう。しかし、義元の目論見は見事にはずれてしまいました。そのために義元は方針を変更して、そっちがそのつもりならと、岡崎衆をわざと織田方とのいくさで常に先鋒をやらせて行く行くはすりきりにしてしまおうとしたのでした。三ヵ寺のうちでも信徒に岡崎衆の比重の高い本證寺の危機感は相当なものがあったはずです」

「今川が健在なうちは岡崎衆は常に対織田戦争の先鋒としてこき使われて戦死者が増える一方となって、今川を倒さないかぎり松平氏の生き残る道はなかったということになるわけだ」

「三河一向宗も、です。しかし、三河一向宗指導部イコール岡崎衆ですから、同じ意味と考えましょう。家康(竹千代)を人質にとられておりますから、彼らは織田を動かして義元を滅ぼすほかに生き残る道はなかったのです」

「すると、桶狭間は岡崎衆が仕込んだ、と、そういいたいわけかな」

「正確には田楽狭間の一本道、両側は足抜きの悪い深田ですから、川中で合戦の訓練を積み、今川二万の軍勢を縦一列に誘い込み、三間半(六メートル)の長槍で全滅させる計画でした。そのためにも中島砦を築く必要があり、中島砦を鳴海城から守るため善照寺砦、丹下砦を築き、大高城から攻撃されないように鷲津砦と丸根砦を築いたのです。大高、鳴海を攻めるだけだったら、中島砦を築く理由も必要性もなくなってしまいますからね。中島砦は田楽狭間の一本道とワンセットにして考えないといけないのです。そこが最優先事項に当たるわけですから」

「驚いたな。信長公記によると信長は十七、八の頃から川でいくさあそびしたことになっているが、十年も前から田楽狭間の一本道に誘いこむ作戦を立て、訓練に励んでいたわけか」

「そうです。ところが、いざというところで猛烈なゲリラ豪雨に襲われてしまいました。南無さんとなるところが、十年間の訓練は、たまたま雨中突破の訓練を兼ねておりましたから、信長の手勢は豪雨を闇に見立てて今川の本陣に肉薄、雨がやむと同時に襲い掛かって殺戮を恣にしたということです。朝倉宗滴が闇夜に紛れて九頭竜川を渡河、寝ばなを襲って、蓮悟の送った加賀一向一揆三十万の兵を全滅させたのと同一パターンなのです。誤算のいくさ、誤算の勝利と私がいったのは、そういうことからです」

「その作戦の立案者はだれかね」

「わかりません。でも、信長ではないと思いたいですね。軍師エックスがいたということでしょうか」

「木下一家が信長に目をかけられた結果からすると、軍師エックスは秀長あたりじゃないのかな?」

「蜂須賀小一郎が小六と一緒に松平元康(家康)隊を大高城に駆け向かわせ、義元本隊を田楽坪に誘い込む画策に奔走しておりますから、一応、事実の裏付けはあるようです」

「あるようです?」

「秀長と家康の関係を考えてください。家康は大政所を岡崎に人質に取っているとは申しながら、ほとんど身一つに近い状態で大坂入りして秀長邸に投宿しました。大政所を人質に取っている効果に加えて秀長に信頼感以上のもの、すなわち秀長がナンバー2であること、身内同然の心の紐帯があるため、などなど、みそっかすの秀吉がそこへ押しかけてきて、『明日、みんなの前で俺に頭を下げて欲しい』と頼み込む場面は吉川英治太閤記の有名な一場面ですが、出典はさておき、フィクションとしても見事に秀吉が名のみの存在であることを暴いているように理解できます。家康と秀長には秀吉のことなど眼中になかったわけです。同時に家康と秀長の当時の信頼関係から若き日の本多弥八郎と木下小一郎は一味一体であったという仮説、これを証明できたら、と私は考えております。もちろん、二人の出会いを取り持ったのは蓮如が実悟に託した情報網です。弥八郎と情報網のつながりは本證寺に原因があります。しかし、それだけでは単なる推測にすぎません」

「和製ホームズは真相解明中、黙考中ということか」

「でも、ここまで説明がつけばよいのではないでしょうか。実悟が蓮如から受け継いだ情報組織を平和製造ラインに持つ本多・木下組によるベンチャーと考えれば、ことごとく矛盾は解消するんですから」

「すると、秀吉は何者なんだ?」

「それは秀吉を評価する人に聞くべきですね。秀吉の評価に値する点は何か、答えられるものなら答えていただきたい、ということです」

「まず備中大返しがある」

「前野家文書(『武功夜話』)によると、秀吉は小六と船で帰って、謀略戦をやっただけです。謀略戦については三重大学の藤田教授が具体的に詳しく述べておられますから、ここでは省略します」

「ところで、秀吉は桶狭間には参加しなかったんだって?」

「そうです。藤吉郎とお寧の祝言は、桶狭間合戦の翌年でしたが、普通ならあり得ないことです。ところが、仲が二人の祝言をお寧とまつを取り込む手段に用いたと考えると矛盾が一つ省けます」

「そんなの初めて聞くが?」

「もう、いいじゃありませんか。前田利家は桶狭間を目前に控えて刃傷沙汰を起こして追放され、桶狭間合戦に駆けつけて許しを請うのですが許されず、二年後になってようやく帰参しているのです。追放された原因は信長が矢倉で見ている前で同朋衆拾阿弥を斬殺したためで、まつと結婚して長女幸姫がいたわけですから、のちの大政所仲がお寧とまつに目をつけて、二人を自分の帷幄に加えるべく動いたと考えるのが自然といえましょう」

「秀吉は刺身のつまでしかないわけか」

「そうです。しかし、秀吉の光秀を怒らせ、謀反に走らせた手際は見事でした。秀長にはやれない下剋上をやることだけが秀吉に寄せられた期待ですから、間違っても大政所が秀吉に政権を託すはずがありません。天下人の本命は秀長、次いで家康、秀吉はあくまでも当馬だったわけです。したがって、秀吉は政権を家康に禅譲しなければならなかったのに、大政所と秀長が相次いで他界したために守りませんでした。そう考えると秀吉が秀頼を淀殿の不義の子と知りながら跡取りにすることに固執したのは、禅譲を反故にしたい魂胆以外の何物でもないという解釈になってきます。その点、秀次では効力がないからあっさり見切りをつけてしまいました。見せかけでも自分の血を引いた実の子でないといけなかったから、不義に関係した者たちを血祭りにあげながら、淀殿と秀頼には目をつぶりつづけました。本当の政権の主は家康という事実を知る北政所は、だからこそ大坂城の自分の居場所西の丸を家康に明け渡し、家康はそこに天守閣を築いて自分が真の政権担当者であることをそれとなく意思表示したのです。その禅譲の申し合わせを知る石田三成は、それゆえに徹頭徹尾家康の命をねらいつづけたのです。豊臣恩顧なんて、どこから生まれた言葉でしょうか。事実はまったく逆で、殿下が死んでほっとした、というのが大名たちの本音だったでしょう。野村敏雄著『小早川隆景』(PHP文庫)は、世の中が改まるには《殿下が死ぬのを待つしかない》という当時の人々の諦念の思いを紹介しています。だから、豊臣恩顧とは何のことだと首をひねるわけです。秀吉に恩顧を感じたのは石田三成と宇喜多秀家くらいなものではなかったでしょうか」

「すると、関ヶ原合戦の様相はまるで違ってくるぞ」

「だから、豊臣恩顧という概念から打ち消してからでないと、関ヶ原合戦はおかしくなってしまうのです」

「なるほど、なるほど」

「もう一つ、テレビドラマの石田三成ですが、どういうわけかイケメンの俳優が正義の味方として演じるために、三成ファンが物凄く多いわけです。それをとやこういうつもりはないわけですが、テレビドラマと歴史上の三成はまったくの別人だということを理解するか、あるいは理解したくなかったら、同一人だとするに足る証拠をきちんと積み上げて、きちんと自分なりに証明していただきたいということです。だれのためでもありません。ご自分のためと思ってやっていただきたいのです。そこだけはきちんとクリアしていただかないといつまで経っても陪審員が決まりません」

「長い前置きだったなあ。豊臣恩顧が架空の概念だと証明するにはこうまでしないといけないということか」

「これでもかなりの部分を省略しているんですけれども。しかし、状況証拠でも反証の余地がないほど積み重ねれば証拠能力を持つことは証明できたと思います」

「これからは本ブログの読者のみなさんが陪審員だ。だから、豊臣恩顧の概念を捨てるか、あることを証明するか、三成ファンのみなさんにはテレビドラマに登場した三成や自分の思い込みで三成を美化して書いたシナリオライターのコメントなどは忘れて、ひたすら歴史上の三成を見つめる、このことをきちんとお願いしてかからんといけないわけだな」

「そういうことです。ついでにいうと、北政所は秀頼支持であったなどと主張する学者先生がおられますが、裁判長としてはいかがお考えになりますか」

「検察官のこれまでの論述で、そんな主張は論ずるに値しない。却下」

「ありがとうございます」

「明日から本公判に入る。本日は閉廷」

 いよいよ小早川秀秋の評価をテーマにした公判がスタートする運びとなりました


(つづく)





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