情報網なくして本能寺事件は予測不能なのに予測した者が複数いた


 本能寺事件は大政所と秀長がやったという証拠を論述する段階にたどりついて長井検事は、わざと水を差すようにいいました。

「証拠をすべて揃えたうえでなければ仮説を立ててはいけないというのがホームズの持論です。証拠は膨大で、すべて揃っているのですが、ここで開陳していたら、それこそいつになったら表題のテーマにたどりつけるかわかりません。だから、承知のうえで結論に結論を積み重ねる、外形的には私が最も忌み嫌う解釈をもって解釈を結論づけるのと似たやり方を採用します。疑われても仕方がありませんが、証拠はすべて担保されていると信じてついてきていただきたいのです」

「スピードアップするためには仕方ないだろうな」

 秦野裁判長が認めました。

「情報網の存在は私の長年の未解決事案でした。ごく最近までの明叟宗普や山上宗二大徳寺人脈とばかり見当をつけておりましたが、あっさり見切りをつけました。代わりに浮上したのが、蓮如が築いたであろう情報網です。吉崎御坊だけで年間数千万人もの群参者が押しかけたという巨大教団を蓮如がどうして取り纏められたのか。蓮如に取り纏められた一向宗を後継者の実如にはなぜ取り纏められなかったのか、という疑問がキーワードです。蓮如はその情報網組織を実如には譲らないで、いずれは本證寺に入れる予定にしていた実悟に委ねたというのが、新しい仮説です。かなり飛躍したいい方になりますが、本能寺事件の黒幕は実悟だったとまではいわないまでも、前述のような不遇の生涯を送った実悟が本能寺事件のときまで長生きして、それを見届けてから翌年に他界した事実を提示しますから、忘れないでいていただきたいのです」

「随分と飛躍した論旨だなあ」

「この事実に本多弥八郎正信がからんできます。その説明は後まわしにして、もう一つの傍証を挙げておきます。かねてより私が高く評価してきた三重大学の藤田達生教授の研究があります。秀長のような傑物で、なおかつ人格者がどうして秀吉などに唯々諾々としてしたがったのか、というのが疑問のまま脳みそにこびりついておりましたが、藤田教授の研究の成果で、考え方の方向づけがようやく定まりました。使い古しですが、まずは藤田教授の説を引用した私の論述書を再掲させていただくことにします」

 過去のエンタメ講座で用いていますが、解釈ががらり一変しましたので、あえてここに再掲することにします。

          

光秀は本能寺の変の首謀者ではない

 日本の刑事法廷の考え方は「犯罪計画の中心的立案者を首と為す」である。 本書を本能寺の変を取り扱う日本史再審法廷に見立てると、光秀と秀吉は同意なき共謀関係というほかないわけであるが、論告求刑を担当する私の義務と責任は実行犯となった光秀には計画性が相対的に乏しく、計画性という点では秀吉の独壇場であることを裏づける状況証拠を積み重ねて推認証明することが、論告求刑を担当する私の義務と責任であろう

 以上の責務を念頭に置きながら本能寺の変の前で時計の針をとめ時代の舞台を見渡すとき、まだライトが当たっていない影の部分があることに気づく。

 信長は安土城にいて家康と前田利長を饗応している。家康の饗応役は明智光秀で、まだ安土城に詰めて役目に励んでいる。

 神戸信孝と丹羽長秀は堺で四国攻めを準備中である。

 柴田勝家は北国陣、滝川一益は上州陣を展開していて圏外である。

 何か大事なことを見落としてはいないかといえば、それはもちろん中国陣の動静である。

 本能寺の変を特集した滋賀県立安土城考古館平成十三年度秋季特別展資料『是非に及ばず』は次のような藤田達生氏の論文を掲載している。

《拙著では、秀吉が光秀のクーデターをあらかじめ予知していた可能性を指摘した。なによりも、自らが光秀を追い込んだ(引用者註・四国国分案の変更)ことから、当時の秀吉は光秀の行動を相当に警戒していたであろう。

 その証拠の一端として、クーデターの二日後の六月四日までに、秀吉方が備中高松から播磨国姫路を経て但馬国へ北上し、山陰道経由で京都そして近江国長浜までの通路を確保していたことを挙げた。これを単なる偶然の幸運と断言できようか。山陽道(西国街道)ではなく、このような迂回した不自然なルートを確保しえたのは、それまでもこの経路を通じて、光秀の情報を収集していたからではなかろうか。

 また拙著では、秀吉がクーデターの背後に潜む人脈や政権構想の詳細まで知っていた可能性まで指摘した。光秀が最も信頼していた与力大名・細川藤孝が、毛利氏が動かないことを確認したうえで、保身のためにクーデターに関わる最高機密を秀吉に密告した蓋然性が高いからである。

 なぜ、最前線の秀吉が、約二〇〇キロもの長距離を、異常な速度で、しかも光秀方勢力を的確に掃討しながら京上し、決戦において快勝するといった「奇跡」を実現しえたのであろうか。我々は、秀吉が従軍作家・大村由己などを通じて創作させた数々の「神話」に、いまだ幻惑されてはいないだろうか》

 再建された安土城を訪問したついでに購入した『是非に及ばず』を開いてこの記述に接したとき、私には捜査を進める方向がはっきり見えた。ちなみに藤田達生氏は著書『謎とき・本能寺の変』で「光秀は本能寺の変の首謀者ではない」と断言しておられる。秀吉と明言しておられないのであるが、嫌疑を色濃く浮き彫りにしておられる。

「自らが光秀を追い込んだ(引用者註・四国国分案の変更)ことから、当時の秀吉は光秀の行動を相当に警戒していた」

 そういう秀吉であったとすれば、光秀の派遣は想定外の衝撃だった。なぜなら、四国国分案の変更以来、光秀と秀吉の仲は皹の入った信長・光秀の関係など問題としないくらい険悪だったからである。

 ひょっとすると右府公は光秀に俺を襲わせようとしているのではないか。まさか、その手があったとはな。俺としたことがぬかったわ。下手をすると俺が寝首をかかれかねないぞ。

 凡庸な主君ならばいざ知らず天才といわれる信長が光秀と秀吉が犬猿の仲である以上に一色触発の険悪な仲であることを知らぬはずがない。しかも、軍勢を率いて同舟するのである。決断が善意によるものならば信長は家来の人間関係によほど鈍感な主君ということになり、悪意によるなら秀吉は究極の決断をしないわけにはいかなくなってくる。

 さすが、右府公、してやられたわ。万事休す……。

 通常というか正常のケースだったら、そうなるところである。

ところが、そうではなかった。秀吉は目的こそ異なるものの素早く対処できる態勢を取っていた。しかし、素早い対処のためには迅速な情勢の把握が先んじなければならない。信長が光秀派遣を決断したことを、なぜ、秀吉は把握できたのだろうか。

答えは「当時の秀吉は光秀の行動を相当に警戒していた」にある。

          

光秀のほか、秀吉と秀長を操っていたのは長浜城の住人だった

 歴史の怖さは目に見える結果しか伝えてくれない点にある。当然の対策として「タラ、レバ」のケースごとに経過を解析する必要に迫られる。そういう意味で藤田達生氏の着眼点は白眉である。本能寺の変を取り扱う日本史再審法廷として藤田達生著『謎解き・本能寺の変』の次の記述を証拠採用し、踏まえるべき事実として提示しておく。

《秀吉が正確な情報を得ていた証拠として、秀吉の弟・秀長が丹波の国衆・夜久主計頭に宛てた天正十年六月五日付の書状があげられる。

「たしかに申し上げます。さてそちら方面(夜久氏の本拠地・但馬・丹波国境沿いの夜久地域)においては、羽柴家の家臣の者どもがなんとか近江(長浜)まで往復しておりますが、それについて街道(山陰道)を安全に送り届けていただきまして、大変ありがたく存じます。ますます今後とも往来がありますでしょうから、特によろしくお願いいたします。(後略)」

 この史料から、丹波の夜久氏の協力を得た秀長が、秀吉に従って備中高松城近郊にいた六月五日以前から、備中から姫路を経て北上し、但馬から丹波を通り、京都さらには近江までのルートを確保して、使者がその間を往復していたことは明らかである。

 秀吉は、夜久氏をはじめとする街道沿いの領主層の協力を得て、光秀が張り巡らしていたであろう封鎖網をかいくぐって情報を得ていたのである。光秀は、自領の丹波を貫く山陰道を、よもや秀吉方の使者が往復するとは思っていなかったであろう》

 読み進むうちに私は桶狭間合戦直前のパターンと酷似していることに驚かされた。桶狭間では今川の斥候が行く手に信長が早朝から停止したまま待ち受けていると報告した。秀長を含めた蜂須賀小六の諜報隊が付近の村長に歓待の支度をさせて桶狭間に誘い込むように仕向けた。

 それと同一のパターンが繰り返されたとするなら、秀吉はまたしても秀長を代理として使ったのであり、秀長も使われるからには本能寺の変につながることとは自覚していなかったのであろう。秀吉は光秀を遠隔操縦したばかりか秀長すら操ったことになる。

 秀長が秀吉のためになぜ働くことになったのかというと、光秀の動静を探るためである。姫路から但馬、丹波、京都、安土までの諜報活動が本当の目的で、安土から先の長浜までは諜報活動が周囲にバレたときいいのがれするためのダミーであろう。

光秀と秀吉が犬猿の仲である以上に一色触発の険悪な仲であることを考えたら、秀長としても光秀の動静を探ることは当然であり、疑念を差し挟む余地はなかったはずである。

          

 長井検事が懺悔するようにしていいました。

「藤田説が白眉であることは間違いないのですが、当時の私には藤田説を正しく活用できるだけの証拠が不足しておりました。秀吉黒幕説がバイアスとなっていたのです。以上の論述から踏まえるべき点を二つあげておきます」

 長井検事が抽出した記述部分は次の二点です。

①クーデターの二日後の六月四日までに、秀吉方が備中高松から播磨国姫路を経て但馬国へ北上し、山陰道経由で京都そして近江国長浜までの通路を確保していたことを挙げた。これを単なる偶然の幸運と断言できようか。山陽道(西国街道)ではなく、このような迂回した不自然なルートを確保しえたのは、それまでもこの経路を通じて、光秀の情報を収集していたからではなかろうか。

②「たしかに申し上げます。さてそちら方面(夜久氏の本拠地・但馬・丹波国境沿いの夜久地域)においては、羽柴家の家臣の者どもがなんとか近江(長浜)まで往復しておりますが、それについて街道(山陰道)を安全に送り届けていただきまして、大変ありがたく存じます。ますます今後とも往来がありますでしょうから、特によろしくお願いいたします」(秀長が丹波の国衆・夜久主計頭に宛てた天正十年六月五日付の書状)

 長井検事は一段と恥ずかしそうなようすになりました。

「天下取るおっかさんが、まさか、秀吉と秀長に情報を送り、なおかつ指令していたなどと、どうして思うことができたでしょうか。だから、何で長浜なんだよ、と不思議に思っただけだったんです」

「実悟(光童丸)の人質説と同じ発想なんだな。長浜は終着駅ではなくて、始発駅。すなわち、司令部だったんだろ」

「ご明察。何度もというからには頻繁に指令が出ていたわけです。そういうことだったとすると、これほどの女性像を再現するのは大変ですよ」

「加賀前田家のおまつさん。いるんだよ、そういう女丈夫がよ。仲はそのおまつさんよりひとまわり大きい人物と考えればいいわけだろ」

「おおよその見当としてはそんなところでしょうか」

「秀吉に船で一足先に姫路城に戻って、得意の諜報戦をやるように指令したのも仲なんだな」

「木下仲はそういう人物だったんですね。大政所が本能寺事件の黒幕だと確信したのは、家康と和睦を成立させるためにみずから人質になったという事実が原因でした。木下家の内規では公儀のことは秀長、内向きのことはお寧に諮れということですから、母親を人質にすることなど秀吉には決められませんし、発議する立場にもありません。では、秀長かといえばプロファイリングに適合しなくなります。百姓が天下を取るとしたら、信長のような天魔鬼神の生まれ変わりにいくさを勝たせて、そのうえで下剋上に出る、それしかないわけです。本能寺事件でそういう意味の下剋上が行われました。しかし、取った天下を定着させるには、絶体絶命のピンチを絶妙にすりぬけた《恐るべき家康・正信コンビ》と和睦(協定)するほかないのです。仲はここぞと勝負に出たんですね」

「ちょっと待った。飛躍しすぎて、ついていけない。ここからは俺の質問に一つひとつ答えてもらうぞ」

「はい、どうぞ」

「《恐るべき家康・正信コンビ》というが、具体的にいうと、どういうことなんだね?」

 長井検事がいたずらっぽい笑みを浮かべました。

「結果が目的の法則をお忘れですか」

「驚いたなあ。ここで、それを持ち出すのかよ。怖い、怖い、お二人様で一人前、家康と本多佐渡。俺にはそれでよいかもしれんが、ほかの人にはその説明ではちと不親切かもしれんぞ」

「百姓が自分で戦ったのでは成功しても加賀国どまり、天下を統一して安心楽土を築くことなど夢のまた夢、三十万と数に頼った蓮悟を反面教師として、あるいは修験者となって全国行脚するのが趣味という幕府管領細川政元につながりを求めた後継法主実如もまた悪知識として、蓮如が情報組織(諜報組織)を託したのが天正十一年まで長生きをした実悟だとすると、蓮如の情報組織は空誓、本證寺、実悟を介して本多弥八郎につながってきます。実悟が往生を遂げるのは大坂の願得寺ですが、それは実悟が最後に住職を務め、大小一揆で全焼した鶴来の願得寺を再興した寺です。名前は同じでも場所はまったく異なるわけです。本多弥八郎が松平家を逐電したのは実悟が蓮如から受け継いだ情報組織に関係するためで、大久保忠世を介して家康と常時連絡を取っていた。そのために三河一向一揆を隠れ蓑に利用したんです。百姓が天下を取るには天魔鬼神のような戦国大名に寄生し宿木となって下剋上するほかないという結論から、情報組織を駆使して選び抜いたのが信長であり、「天下取るおっかさんチームすなわち善人秀長、悪役秀吉という宿木チームだったとすると、「隠れ最高司令部」として家康・本多佐渡コンビが急浮上するというわけです。田楽狭間の三間半の長槍を使いこなしたのは松平家の大久保某ですし、家康が生き残り、勝ち残るには桶狭間合戦というシナリオしかあり得なかったのですから、ここでも結果が目的の法則が生きています。何で長浜なんだといえば、秀吉が松永久秀の謀反を利して下剋上を行うべく軍令を無視して軍勢を北陸から移動させた大チョンボ、あのときも長浜でしたっけ。そのために信長に殺される寸前までいったとき、秀長らは姫路城に向かったのに秀吉のみ長浜にいました。仲にお灸を据えられていたのでしょう。秀吉は桶狭間直前まで今川の被官松下嘉兵衛に奉公していたわけですし、呼び戻されてからも桶狭間から逃げてまわって、当日は清洲城にいたというのですから、どうしてそんな厄介者をチームの代表者にしたのかというと、プロファイリング的に考えて秀長には下剋上は無理、そのために秀吉を温存した、という考え方になります。しかし、秀吉にはしっかり者をつけておかないと取り返しのつかないことになるので、桶狭間で何一つ功績のなかった秀吉に仲がお寧をくっつけたのです。お寧が秀吉を見初めて恋愛したなんて噴飯ものの絵空事ですよ。秀吉とお寧の祝言は桶狭間の翌年ですからね。仲から出たのでないと信長が認めませんよ。こんな秀吉が秀長の死と大政所の大往生で事実上の天下人になってしまいました。加藤清正も、福島正則も、大政所と北政所に育てられたのですから、大政所と秀長亡きあと北政所のいうことを聞かなくなった秀吉になどに何の恩顧があるものですか」

「おっ、いきなり、そこへいってしまうのかよ。少し急ぎすぎじゃないかね」

「これ以上は企業秘密ですから。これでも、かなり際どいところまで企業秘密を明かしているほうなんですがね」

「スピード違反だぞ、長井検察官。さすがのわしも長井検察官のスピードにはついていけん。一旦、休廷して再開する」

「もう一言つづけさせてください。天下をかっぱらってうしろめたいのは秀吉のほうなんですよ、腰巾着の石田三成が家康を殺そう、殺そうとしたのは大政所の後継は秀長であり、秀長の次は家康が本命と決まっていたからなんです」

「休廷、休廷……」

 長井検事の一気の陳述に陪審員席、傍聴席も静まり返っています。そこに秦野裁判長の休廷を宣する声だけがひびきわたりました


(つづく)





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